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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

ドミナの言葉遣い―佐藤春夫訳「毛皮を著たヴィーナス」

沼正三は「ある夢想家の手帖から」第6巻付録Aに、「『毛皮を着たヴェヌス』の邦訳について」と題して当時出されていた同作の邦訳本を紹介しています。
それによると、この時までに3つの邦訳が出されていたようです。
最初の邦訳本は大正末期に刊行された青木繁訳の「性の受難者」ですが、これは削除部分や誤訳が多いとしています。
沼が(この時点で)推薦するのは戦後刊行された治州嘉明「毛皮を着たヴィナス」です。
その後1957年(昭和32年)に文豪・佐藤春夫による訳本(英訳からの重訳)「毛皮をたヴィーナス」が出され、奇譚クラブの中でも絶賛されますが、沼はこれを「治州訳に劣る」と評しています。
そもそも「名前を貸したものであろう」と佐藤の関与を疑い、いくつかの誤訳を例示した上で、ワンダのグレゴール(奴隷誓約したゼヴェリーン)に対する言葉使いが日本語の目下に対する言葉になっておらず、原作の意図を誤っていることを決定的な欠点としています。
これに対し佐藤訳を支持する麻生保(筆名をマゾッホからとった奇譚クラブの作家)が反論し、議論が展開されています。

論点はやはりワンダの言葉遣いです。

ワンダはセヴェリンを対等に扱っている間はSie(あなた)と呼び、彼を奴隷グレゴールにしてしまってからはdu(お前、そち)と呼んでいるのであって、ここを訳し分けないのでは、小説のいちばん大切な味が伝えられないことになる。ワンダはグレゴールに対しては、主人として口を利いているのである。そして、日本語ではこの区別は西洋語以上にはっきり出てくる。日本の淑女は同じ身分の男女に対しては「遊ばせ」言葉で話すが、目下の者には「……しておくれ」「……なのかい」といった調子で話す。Sieとduはこの区別に対応せねばならぬ。それをこの訳者は無視しているのである。
(治州訳)「お前は直ぐに、名前や住所や、その他伯爵の事をいろいろ調べておいで。解ったかい」
(佐藤訳)「あなたは、すぐにあの王子の名前と、住まいと、境遇を調べてきて頂戴、分かって?」
どちらが、奴隷に対する言葉遣いとしてふさわしいか(中略)を、わが日本の麻生保マゾッホに問いたいのである。


論争は長々と続きますが、麻生は主人の奴隷に対する言葉であっても、貴婦人・令嬢の言葉は上品であったほうがいい、とし、沼は貴婦人・令嬢は対等の人に対する言葉と奴隷に対する言葉を使い分けており、そこに感興がある、として平行線のまま終わります。

現在文庫本となって容易に入手できるのは種村李弘訳です。
種村訳しか読んでいなかった私はこの論争を読んで、佐藤春夫訳に大きな期待を抱きました。
というのも、私は麻生と同様、貴婦人・令嬢たるドミナの「上品な言葉遣い」に激しい昂奮を覚えるのです。
上品な言葉遣いで、考えられないような冷酷な命令を下す。
そこに貴婦人・令嬢だけが下賤の者に与えられる「ありがたみ」を感じてしまいます。

佐藤春夫訳「毛皮をたヴィーナス」は、臨川書店の「定本 佐藤春夫全集」33巻に収録されていたので、このたび読んでみました。
読んだ印象は…以外にも種村訳とさほど変わりませんでした。
とくに沼と麻生の論点になっているワンダの言葉遣い注目し、期待して読んだのですが、佐藤訳と種村訳はその点も議論されているほどには変わりません。
治州訳は読んでいませんが、沼の言っている佐藤訳に対する批判は明らかに言い過ぎであることがわかります。
佐藤訳はゼヴェリーンを対等な男性として扱っている場面(「プレイ中」も含む)と、彼を奴隷・グレゴールとして扱っている場面のワンダの言葉遣いをしっかりと訳し分けています。

(佐藤訳)「御用心遊ばせ。あなたが御自分の理想の人を発見なすつたときは、その婦人はあなたが予期するよりも、もつと残酷に、あなたを扱ふやうになり兼ねないわ。」
(種村訳)「お気をつけた方がよろしいことよ。理想の女を作り上げるのはあなたでも、ひょっとしたら相手の女はあなたのお好み通りより残酷に扱う羽目になるかもしれなくってよ」


(佐藤訳)「お前は、さうされて好い気持なの?奴隷!」
(種村訳)「さあどうだい、気持ちが好いだろう、奴隷め」


ワンダのゼヴェリーンに対する態度は、奴隷契約書調印の前後で大きく変わりますが、変わるのはそこだけではありません。
何度も何度も態度をコロコロ変え、ゼヴェリーンを翻弄します。
そのたびに二人称がSieになったりduになったりするのでしょう。
おそらく種村訳はそこを正確に訳し分けています。
佐藤訳と種村訳ではごく一部の場面で、ワンダのゼヴェリーンに対する言葉遣いが明らかに異なり、佐藤訳の方が上品な口調になっているのに対し、種村訳はぞんざいな口調になっています。
その一つが、麻生との論争の中で沼が引用した部分(ロシア人公爵の素性を調べさせる場面)です。
しかし、ほとんどの場面で佐藤訳と種村訳は、ワンダの言葉遣いの訳し分けが一致しています。
つまり佐藤春夫は二人称の区別がない英訳からの重訳でありながら、ほぼ正確にワンダの言葉遣いを訳し分けていたということになり、Sieとduの区別を「この訳者は無視している」としている沼の批判は当たらないのではないかと思います。
(佐藤訳は1957年(昭和32年)に「群像」誌に掲載され、その後同年に単行本化されました。全集は単行本を底本としていますが、全集には初出と底本の異同がすべて掲載されており、そこにワンダの言葉遣いに関わる部分はありません。)
その意味で、先述した私の佐藤訳に対する期待は外れてしまいました。
もっと全編にわたってワンダが上品な口調でゼヴェリーンを凌辱するのではないか、奴隷契約書調印後に激しく鞭撻する場面、ギリシア人貴族アレクシス・パパドポリスに惚れたワンダがゼヴェリーンを邪険にする場面、そしてワンダがアレクシスにゼヴェリーンを鞭撻させる場面はどうなるのだろう、と期待していたのですか、いずれも、ワンダの口調は種村訳と同様奴隷に対するぞんざいなものでした。
結局、佐藤訳はみなさんもお読みであろう種村訳と大きな印象の違いはありませんでした。
細かく比べれば、部分的には一長一短、佐藤訳のほうが趣があると思う部分もありますし、その逆もあります。
本作のファンであれば、佐藤訳も読んでみて損はないのではないのかと思います。

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