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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

ブログ凍結について

このたびFC2の一斉凍結措置により、「マゾヒズム文学の世界」も凍結されていましたが、本日凍結が解除されました。
凍結中は管理画面にもアクセスすることができず、解除は絶望的という情報も流れました。
バックアップをとっていなかったので、10年書き溜めたコンテンツがすべて失われる危機を感じ、目前が真っ暗になりました。
解除されたのですぐにバックアップを取りました。
今回の騒動で自分にとって何が大切なのか改めて思い出しました。「マゾヒズム文学の世界」は私のすべてです。最近はそれを忘れていました。
今年で35歳になり、時間の有限性も感じ始めています。
性欲というものがいつまで続くのかもわからない。
自分自身後悔のないように、ブログ更新に注力してきます。
また、読んでくださる方に対する感謝もすぐに忘れてしまいますが、あらためてそれも思い出しました。
今後ともよろしくお願いします。

伝説のネット批評家:kagamiさんのマゾヒズム論

私がインターネットに初めて触れたのは、2002年ころだったと記憶しています。
その後今に至るまで、たくさんの、そして様々な尊敬すべきマゾ系の表現者に、刺激を受けてきました。
今回はその中でも、私が最も敬愛する表現者の一人で、多大な影響を受けた、kagamiさんをご紹介します。

とは言っても、ゼロ年代前半からインターネットを渉漁されていた方にとっては、記憶に残っている方かと思います。
2ちゃんねるにもkagamiさん専用のスレッドがあったくらいたくさんのファンとアンチを抱え、半ば神格化されていたネット批評家です。
kagamiさんは何度かサイトを変えています。

好き好きお兄ちゃんM!

ロリコンファル

ねこねこブログ

と推移しています。

「好き好きお兄ちゃんM!」と「ロリコンファル」は、PCゲームの批評をメインテーマとしながらも、まさしく森羅万象を語るサイトでした。
ゲーム、アニメ、映画、音楽、古今東西の文学、歴史、芸術、哲学、心理学、政治、経済、社会、科学…
あらゆるテーマについて、計り知れない大図書館のような知識を背景に、豊富な引用を用いながら論じていました。
しかしkagamiさんが当時のネット世界で神格化されていたのはそれだけが理由ではありません。
博学な方にありがちな、高みから冷静に論じる調子とは正反対の、強く、強く感情を込めた、狂気すら感じる空前絶後の独特な文章。
決して美文ではありませんが、人の生の感情を剥き出しにした圧倒的な力を持った文章が、人を引き付けてやまなかったからだと思います。

kagamiさんは性的にはマゾヒストを公言されていて、マゾヒズムに関する、とてもすぐれた評論を数多く書かれていらっしゃいました。
kagamiさんのマゾヒズムの中核となっていたのは、聖少女崇拝=ロリータ・マゾヒズムでした。
マゾヒズムとは「最も純粋なる期待状態」であり、「最も至高のものに己の意志で己の意志を委ねる究極の快感」であるとしたうえで、その「最も至高のもの」とは、「両性具有的/無性的」であって「プラトン的な完全」を体現した「偉大な子供たち」であるとします。
聖少女の奴隷となり聖少女に仕えることは、「真実に仕えること、善に仕えること、無垢に仕えること、そして何より、
美に仕えること」であり、それが「肉が穢れ魂が腐り果てた」「無力かつちっぽけな、塵芥の如き存在」である人間の生きる唯一の意味なのだと。
それによってのみ人間は「究極の、全身全霊を打ち震わす快感」「永遠の、究極の、至高の、快楽」に出会え、文明原理・男性原理の支配する「悪しき獄たる最低最悪の邪悪世界」から解放されて「人類史における新たなる高次到達」に至ることができると!

すばらしい。
これを読んで、「美尊醜卑」を根本哲学とする私自身のマゾヒズムと大いに通ずるものを感じて自分の分身を見つけたように感じ、またその心理をここまで明快に言葉で表している文章に初めて触れて、深い深い感銘を受けたのを覚えています。
外見の美醜と魂の清らかさ・穢さが一体であるという心身一元論にも通じるものを感じました。

kagamiさんはまた、白人種の少女の容姿を、「あらゆる美の頂点に君臨する至上究極至高の美」、「全てを超越する
永遠にして不滅の一瞬を齎す栄光の神聖美」「ひれ伏さずにはおれない神々しさ」として、白人崇拝マゾヒズムにも並々ならぬ情熱を示していらっしゃいました。

しかし私がkagamiさんの文章で最も敬服したのは、その谷崎潤一郎論です。
谷崎のマゾヒズム、白人崇拝、そして耽美主義(「美」至上主義)に対して、kagamiさんほど誠実に、常識や既存の解釈を排して原典に即して読み込み、自らの価値観やセクシャリティと照らし合わせる真のtext readingをされていた研究者は、文献上でもネット上でもいまだに見ることはできません。

kagamiさんはインターネット上のいわゆる「オタク」あるいは「サブカル」といわれる人達の間で有名になり、もてはやされたり、貶められたりしていたようですが、kagamiさんと、他のネット批評家と最も異なる点は、自分の博学を他者にひけらかすためには絶対に書かなかったし、心の底から理解できていないものに対して理解したふりを絶対にしなかったことですね。
kagamiさんの文章の中でkagamiさんの博学は、kagamiさんの強い感情の表現のためにのみ使われていました。
つまり、誰よりも誠実だったのです。

kagamiさんは2008年ごろからネット上でのトラブル、うつ病の悪化、生活の困窮をエントリーで訴えるようになり、HNを「ねこねこ」さんに変え、はてなダイアリーの「ロリコンファル」を閉じ、ライブドアブログの「ねこねこブログ」を開設されました。
うつ病との闘病の中でセクシャリティも変化したそうで、ねこねこブログではマゾヒズムを含めた性衝動に関することは書かれなくなり、メインコンテンツだった成人向けPCゲームの感想もなくなりました。
ねこねこブログでは扱うテーマや文体がそれまでとは大きく変化しましたが、内容のすばらしさは変わりませんでした。

現在もねこねこブログはたまに更新されていますが、ネット上でkagamiさんのことが語られることもほとんどなくなってしまったようです。
しかし、私がネット上で表現を始めるにあたり、kagamiさんから受けた多大な影響は、今も私の中に生き生きとして残っています。
再び現れることはないだろう、「知の巨人」とも言うべき偉大なネット批評家の存在を、伝説として記録と記憶にとどめたいと願っています。

現在閲覧できるお勧めの記事です。

バーチャルマゾヒズム概論
幼女ご主人さま論
マゾヒズム原論 -支配と服従の逆説-
男女と、生の寛容について -認識とマゾヒズムと美-
ロリサド娘の歓喜 -神聖なる所有物へ-
鉄床の歓び -泣きゲと放置プレイ-
美、少女、幸福 -わが聖支配者-
ゲーム評「May Queen」 -運命の少女-
少女連鎖 -女性の支配する社会へ-
少女連鎖 -絶対の女神-
少女連鎖 -品性と位階秩序-
夢幻廻廊 -The Queen of Hearts-
ゲーム評「夢幻廻廊」 -Brainwashing-
夢幻廻廊 -人間という現象-
幻想性的相談室 -超私立!女の子様学園セックスカウンセリング-

白人崇拝論
永遠のアルビニズム
私にとってのロシア――テルミンを聴きながら
「永遠の恋」(ツルゲーネフ「はつ恋」の秀逸すぎる二次創作です。)

谷崎論
エロゲーマーと谷崎潤一郎 -愛情から遠く離れて-
審美の誠実、日本人が汚物であることを認めること -陰翳礼讃-
小説のイメージ -最強のイメージ作家-

マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために

美男美女というのは、魂と肉体を分けて認識する心身二元論に立てば「美しい肉体の持ち主」たる資本家ブルジョワジーとしてとらえられる。
美男美女が特権的に所有する資本とは、人を魅し、嘆息させ、一挙一動で自在に快楽も苦痛も与えることができる、圧倒的かつ絶対的な力を伴う美しい肉体である。

美しい肉体を持たずに生まれた無産階級プロレタリアートに罪はないが、後天的な努力ではこれを持つことはかなわない。
無産階級プロレタリアート資本家ブルジョワジーに対しては無力で、抵抗する手段をまったく持たない。
無産階級プロレタリアート資本家ブルジョワジー怨念ルサンチマンの礫をぶつけようとしても、遥か頭上に照り輝く太陽のような資本家ブルジョワジーの美貌の圧倒的な力を前にしては、すっかり怯えて、あわててコソコソと礫を隠すだろう。
資本家ブルジョワジーが天をめぐる月のような瞳の一動でもって行使する無慈悲な力の前には膝を屈するしかないし、咲きこぼれる藤のような腕の一挙でする理不尽な指図の前には、地に額を付いて従うしかない。
無産階級プロレタリアートとは、なんとも哀れではないか。

しかし、魂と肉体が不可分と考える心身一元論に立てば、美男美女はそもそも「人間の格」が違う貴族ノブレスととらえることができる。
その美しさは、高貴で清らかで穢れなく徳の高い聖なる魂が、そのまま肉体に反映されているにすぎないと考えれば、その美しさが持つ力はなにも無慈悲とも理不尽ともいえなくなる。
貴族ノブレスが望むこと、欲すること、思いつくことはすべて正しく、善なのであるから、それが即座に完全に実行されるために、当然に与えられている力である。

同じく心身一元論に立てば、醜い肉体を持ってに生まれたものは、卑しいカルマにまみれたその穢れた魂がその肉体に反映しているのであるから、その考えること、行うことのすべてはいうに及ばず、一分一秒と世に存在していることそのものが許されない蛆虫ワームであり、他の害虫と同様に駆除の対象となるべき存在ということになる。
蛆虫ワームが救われる生き方はただひとつ、貴族ノブレスの慈悲にすがり、全身全霊をノブレスの所有に掛ける奴隷スレイブとして生きることで存在の罪の軽減に勤めることである。
貴族ノブレスが5m移動する際、自らの足で歩く労を省くことに一匹の蛆虫ワームの背中が貢献できたのであれば、その蛆虫ワームがその日一日生きることは許されるであろう。
貴族ノブレスがコレクションする宝石の装飾を好みに合うように少しアレンジする費用を一匹の蛆虫ワームの一年の労働で贖うことができるのであれば、一匹分の蛆虫ワームが一年間生きることは許されるであろう。
駆除されるべき穢らわしい蛆虫ワーム奴隷スレイブとなることで、貴族ノブレスの高貴な魂に奉仕するという紛れもない善行に勤しむことができるのである。
すべては貴族ノブレスの恩恵である。
なんとも光栄で、幸福なことではないか。

鏡を見てみてほしい。
鏡だけが本当の君のことを教えてくれる。
君は醜い。

この醜さは、君の魂の卑しさ、穢らわしさとは無関係なのだろうか。
そう信じるのであれば、君は無産階級プロレタリアートとして資本家ブルジョワジーに対しておかしい、魂は平等なのに、と怨念ルサンチマンを抱きながらもその恐ろしい力に怯え、毎日恐ろしくて憎い資本家ブルジョワジーの足下の地面に両手と額を突く、苦しい生を送っていかなければならない。


しかしもし君が、君の肉体の醜さは君の魂の卑しさ、穢らわしさの反映であることに気づけたら、君が本来ならとっくに駆除されているべき蛆虫ワームであり、今この瞬間も駆除されずに存在していることが許されない罪悪であることに気づけたのなら、救いはある。
君の目に美しく映る人がいたら、その人は高貴で清らかで穢れなく、徳の高い聖なる魂を持った貴族ノブレスだ。
貴族ノブレスは慈悲深い。
君のような蛆虫ワームであっても、貴族ノブレスは所有してくれる。
奴隷スレイブにしてくれる。

ごらん、美しい人がいる。
美しい人の足下に、醜いものが両手と額を地面につけてかしこまっている。
美しい人が差し出された項をしっかりと踏みつける。
醜いものの顔面が押し付けられてぴったりと接地する。
これを資本家ブルジョワジーがその靴底で、足下に這っている無産階級プロレタリアートの項を踏みつけたのだとみると、ずいぶん乱暴な踏みつけ方にみえる。
ところが貴族ノブレスがその靴底で、足下に這っている蛆虫ワームの項を踏みつけたのだとみれば、同じ仕方だとしても、聖なる足を動かして汚らわしい蛆虫ワームに靴底を触れてまで、貴族ノブレスに対する礼儀として顔面をぴったりと接地させてやることで、不敬の罪を購い、さらに魂が穢れるのを防いでやっていると見え、慈悲深いありがたさを感じるではないか。

すべては捉え方次第なのだ。

鏡を見てみてほしい。
鏡だけが本当の君のことを教えてくれる。
君は醜い。
君は蛆虫ワームだ。

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