近況
大学時代、左派系の憲法学者の先生が「人類史の頂点は19世紀」とおっしゃった。
ただそれだけのことで、当時の私はゼミ中にバッキバキに勃起してしまいました。
先日はそれを思い出して懐かしく甘酸っぱい思いに浸りながら自慰行為に勤しみました。
ボンデージとか、鞭とか、ハイヒールとかより、私にとっては「人類史の頂点は19世紀」のほうがエロい。
そういうエロさを当ブログは今後も提供していきたいです。
Tumblrは、何度アカを作り直しても凍結されてしまいますね。
でも、Raceplayの愛好家と本物の人種主義者、白人至上主義者が交流できるかけがえのないSNSなので、なんとかまた復帰したいです。
Twitterはもう韓国崇拝の大フィーバー。
「石を投げれば崇韓に当たる」状態。
完全に日本の男性マゾヒズムの一大潮流になっていると思います。
特に最近は「K-NTR」よりも、ダイレクトに「韓女様」を女神として崇拝する嗜好が主流になっていますね。
私も韓国人女性を見ると「条件反射」してしまうようになってきました。
先日も新幹線の自由席で小さいお子さんを連れた韓国人の若いお母さんに「ちゃんと」席を譲り「当然」お荷物の上げ下げもさせてもらいましたよ。
今は、「デカメロン」のような形式のストーリー集を構想しています。
奴隷制時代の米国南部、英領インド、占領期の日本、アパルトヘイト時代の南アなど様々な時空の有色人種の中から、白人種への隷属・服従・奉仕に指導的役割を果たした者がイースへと「昇天」する。
イースで家畜に転生するのをしばし待つ空間があって、そこで指導者たちが順番に今生の体験やそれぞれの白人崇拝思想を語る…というものです。
コメントに回答④
探索者さんのコメントは興味深いポイントがたくさん盛り込まれているので、過去のコメント・回答集もご参照いただけると幸いです。
「古来議論の的になった」というその議論という、その箇所はわかりませんが、パリスの審判は関心をそそるテーマであることは変わらないと思います。
ここで、3柱の女神は、西洋絵画によると、裸身を晒しているわけですが、この裸身はなんであろうか、と改めて思いました。古代ギリシャでの解釈は、裸身を現したのかどうか、わからないのですが、とりあえず、裸身を現したということにしたいと思います。すると、女神は、性的な魅力を用いようとしたのか、どうか、というのが気になったところです。もちろん、最後はワイロですが。
ゼウスから審判者に選ばれたのが、パリスという若者(男性)であったわけです。もしも、女性を選んでおれば、性ということから離れた(性欲、情欲から離れた・・・それを公正と呼ぶべきか悩みますが)判断が得られたのではないか、とふと思いました。一般にはどう考えられているのでしょう。
また、パリスが欲情を感じたのかどうかも明らかではありません。
すこしマゾヒズムという話から離れてしまいましたが、申し訳ありません。
アフロディーテは神話が作られた頃から裸身のイメージだと思います。ヘラとアテネの像は着衣のものが多いですね。
人間の男性が女神を選ぶのですから畏れ多いことではありますが、女性が選んだらどうなのでしょうね。
幸福な家庭生活を望む女性はヘラ、芸事の上達を望む女性はアテネ、美貌を望む女性はアフロディーテを選ぶのでしょうか。
「むしろ崇拝する女性にそのような要素がない方がうれしい」のですね。私の場合ですが、残酷な性向のない女性が好みです。
例えば、飼っているカナリヤや猫、犬を虐待していない方が尊敬の対象としては好ましいです。
マゾヒスト系の男性でも、女性が残酷でない、優しい心根?の方が惹かれると思っている人も結構いらっしゃると予想します。予想に過ぎませんが。
ただ、虐待する姿に萌える、そういうマゾヒスト男性もいると思います。カナリヤ、犬、猫、豚、馬、そして、マゾ男、これらを気まぐれに罰したりすることが、「①女神としての絶対性を示す」かもしれないと思いました。神の絶対性を信仰する社会に生まれると、親和性が高いのではないでしょうか。そして、「②女神の前での、自分の無価値性を徹底的に示してくれる」とも思えました。
私は動物虐待は好みでないのですが、当然、M男虐待も、抵抗があります。しかし、「己れの倫理観を、女神に押し付けるのは、エゴマゾだ」、と言われた場合、反論する為の論理が見つかりませんでした。
「一番望ましいのは自分に対する無関心です。自分をそのものとしては全く無価値な存在と捉え、手段としてのみ有用な存在として利用してほしいのです。」という考え方ですが、論理として理解しやすいと思いました。世間でいる「放置プレイ」とはその意味なのですね。この時、快感のある状態なのでしょうか。性的興奮とか、勃起したとかそういう意味に限定するつもりはありません。それも含みますが。。
A1:勝手に勃起している。A2:勝手に、先走り汁が溢れた。B:いや勃起後に射精した後である。C:いずれでもない。と分類したならば、どれにあたるのでしょう。たぶん、Dだろうと、推察しております。見当違いかもしれません。
男性が美人に虐待される動画は好きですが…なぜその女性がそんなことをしているのか、その動機によって興醒めの要因にも興奮を増す要因にもなりますね。
(興醒め→興奮)
報復→女性自身の性的快楽→懲罰→自白等の強要→男性側から金銭で依頼された(ご褒美)→余興のショー→暇つぶし
といった順でしょうか。
おおむね、女性にとって虐待の必要性が小さければ小さいほど興奮につながる、という法則にかなっているかと思います。
動物に関しては無意味に虐待するよりも、美人が馬を馬として、犬を犬として普通に扱っている姿に興奮しますね。
いわゆる「放置プレイ」は、マゾヒストが自分を無価値な存在として扱われたいという願望がよく現れた形態だと思います。
白人の優越性を事実として認めた場合、自分たちの劣位性を認めることになると思いますが、それがある種の快楽の要素を持つとマゾヒズムになる、と一応考えました。白人男性vs日本人男性、白人男性vs日本人女性、白人女性vs日本人男性、白人女性vs日本人女性と4つの状況を設定して、その状況で、快楽を感じない(自分が劣位であることに不快を感じる)場合と、快感を感じる(自分が劣位であることに快感を感じる)場合とを考えると、8パターンあります。このうち異性間でのマゾヒズムにおいて、性的な快感も伴うということ場合を考えないといけないですね。性的なと言いましたが、セクシャルなものではなくて、プラトニックなものでもありうると思います。
白乃様が、美しい白人の写真を探してこられて掲載されていますが、これは、異性間における十分に、プラトニックな、ロマンチックな、憧憬に繋がると思います。
ただ、ここでいう、マゾヒズムは、性欲に直結したもののように思っています。
美しい白人女性へ、東洋人男性が、マゾヒズム(性欲を催す)を感じるならば、
美しい白人男性へ、東洋人女性が、マゾヒズム(性欲を催す)を感じるということにならないか、この点はあまり話題にならないのはなぜかと思っています。
また、白人側で、日本人へのサディズムを感じる感じないという話はあまり聞きません。白人は、東洋人とは接する機会が少ないと思います。ロシア人は昔から、東洋人と接していたと思われます。
また、白人は、南アジア系と接する機会、アラブ系と接する機会、アフリカ系と接する機会、それぞれあったと思いますが、どうなのだろうか、と思いました。
探索者さんはどうやら性欲(エロス)とプラトン的崇拝(アガペー)をかなりはっきり峻別されるお考えのようですが、私にとっては愛とはすなわち美への崇拝であって、それは性欲でもあり、マゾヒズムに直結するものです。
絵画や写真におさまる美しい白人女性に対するプラトニックな、ロマンティックな憧憬は、私にとって性欲そのもので、マゾヒズムの根源であります。
日本人女性が美しくたくましい白人男性にマゾヒスティックな欲望を抱くというテーマは沼正三の「ある夢想家の手帖から」にも出てきますが、これはあくまで日本人男性マゾヒストが人種的トリオリズムを感じるための妄想です。
また同書には日本人男性マゾヒストとして白人の貴公子に性的な奉仕をする妄想も盛り込まれています。
「白人女性対日本人男性」という「個人対個人」からスタートし、「白人種対有色人種」という「集団対集団」に行き着くのが人種的妄想の帰結であると思っています。
ただし、探索者さんは性別、人種、性的嗜好を超えて様々な視点から考察なさるようですが、私は常に男性、日本人、マゾヒスト、と視点が固定されていて、この視座から考察していることをご留意ください。
日本では、家畜人ヤプーが一定の読者を得ていますけど・・・、
(あ) 家畜人ヤプー(日本人)に対して、イース人が白人です。
家畜人ヤプー(日本人)に対して、イース人が他の東洋人(モンゴロイド)であったり、他の東洋人(東南アジア人、南アジア人)であったら、これほどの注目は浴びたのだろうか、読者を得られたであろうか、と思います。
(い)想定される読者は、日本人男性であり、作者も日本人男性に違いないとされています。ところで、日本人女性は読者になりえないか、とちょっと考えてみました。
キミーという名前の日本人女性が登場します。もはや知性ある人間ではないみたいでしたが。。、改造されて知性が失われたのなら、もともとどういう素養のある女性であったかに意味はないとおもうのですが、知的な系譜を持つ女性ということになってました。
とにかく、イースの男性(貴族)に対して、奉仕する為に改造されたようです。
日本人女性(M的な女性)は、この部分に惹かれるんでしょうか。日本人男性(M的な男性)は、この部分に惹かれるんでしょうか。
(い:付け加え)キミーがもともと知性の高い(知性=アテネを意味します)、血筋もよい(貴族を意味します=ヘラ)、美しい(ビーナスを意味します)女性で、かつ、誇り高い女性(男性に仕えたりしない=白人男性に仕えたりしない=アルテミスを意味します)であったにもかかわらず。改造されてしまい、白人イースの貴族男性に奉仕する状況というのは、トリオニズムの変形と思われましたが、いかがでしょう。
(う) 余計な話ですが、「家畜人ヤプー」が M男性向きに書かれたのなら、M女性向きに別の本が書かれてもいいのではないか。また、そういう本を待ち望むM女性がいないのだろうか、ということです。
そもそもこのような奇本の存在はあまり知られていないのかもしれません。であれば、知ってほしいですね。
(え)それから、「家畜人ヤプー」は、外国に翻訳されていないのか、されているなら、どこの国であろうか、とも思います。
ただ、国によっては、発禁処分になりうると思いますけれど。
そこで、どのような読者を得て(いろいろなタイプの読者が想定されますが)、それぞれのタイプの読者からどのような評価を得ているのか、そこに興味が湧きます。
(お)外国において、異人種に対しての、性的な関心(マゾサド以外)で、ジャンルとして成立していると思います。クロスレイスとかいうジャンルかと思います。そして、マゾサドにおいても、異人種間というジャンルが成立しているのではないか、そして成立しておれば、興味深いと思います。
(あ)「家畜人ヤプー」のイース世界では日本人以外の東洋人は死に絶えています。黒人はいます。黒人が白人への奴隷的奉仕を、日本人が白人への家畜的奉仕を独占する世界です(地球外知的生命体の家畜も出てきますが)。もちろん日本人マゾヒスト向けの小説ですから日本人であるヤプーは必要でしょうが、私は何も他の東洋人を滅ぼさなくてもよかったのになーと思っています。日本人だけが白人への家畜的奉仕を独占できる「選民思想」が僭越に思えるんですよね。先日の回答で書いたような、東洋人同士で白人の家畜の座を競い合うような世界、日本人などいつでも淘汰されうる八百万の畜群の一群に過ぎないあやうい立場という設定の方がよかったのになーと思うことがあります。
(い)キミーが(人種平等という擬製によれば)クララに匹敵しうるような高貴な才媛であったが、イース世界ではクララの恋人の性具に過ぎないというのは確かに人種的トリオリズムの変型だと思います。
イース世界に迷い込んだのが、白人女性(クララ)と日本人男性(麟一郎)のカップルではなく、白人女性(クララ)と日本人女性(キミコ)の友人ペアだったら…と妄想することがあります。
また、人種平等の革命思想で意気投合した白人、黒人、日本人の3人の男子大学生がイースに迷い込んで思想の誤りに気づき、白人青年の下半身に「黒い便器」が前から、「黄色い便器」が後ろから奉仕して真の人種的調和を知る、という妄想も大好きでした。
(う)(え)本作は1970年代のベストセラーですが、その後も様々な派生作品が作られているので、多くの人が知っていると思います。外国では確かフランス語に翻訳されていたと思います。
(お)異人種への性的関心はSM以外にもいろいろとあるでしょうが、日本人男性の白人女性に対する性的関心は実に深刻なものがあると思います。「洋物」というジャンルは今でも一定の需要があると思いますが、数十年前は日本の性商品マーケットの一大ジャンルだったようです。白人の映画女優や女性スポーツ選手の人気もかつてはすごかったようですね。
三島由紀夫氏が高く評価したという話があります。真偽はわかりませんが、いささか混乱しております。
この本で想定される読者は、まず、日本人男性です。ただし、マゾヒストであり、白人崇拝である訳です。
マゾヒストという点では、どの程度マゾヒストか(ゼロか、マイナス(つまりサド)か、を含め)、どのようなタイプのマゾヒストか、そして、人種の件への思いがどうであるかですね。
この本では、①ヤプーの中心は男性で、支配人種のイース人は女性が中心です。しかも、登場するイース人女性は貴族ということになってます。平民女性もいるようですが、爵位を持つランクの貴族の女性が中心です。女神でいうヘラの要素を持っているといえましょう。
②ヤプー男性は人体改造され、去勢もされていたり、、、、そして簡単に命を奪われます。すると、イース人(支配者である貴族女性)には、アルテミスの要素もあるのでしょうか。
こう考えると、意外に、西洋の神話世界にも目配りがあるのだと思います。
ストーリーでは、一部のヤプーは、便器に改造され、いとも簡単に飲*尿・食便できるようになっています。
便器になりたいマゾヒストもいますが、なかなか困難なようです。よって、作者がエム男の願望とその矛盾を理解して、その矛盾を小説の中で解決してみせているのだと思われます。
人体改造に興奮する以上、去勢にも興奮するのかもしれません。去勢願望のあるマゾヒスト男性にも、配慮しています。沼氏の願望かどうかは分からないのですが、去勢されるのが義務という思いがあったのかもしれません。というのは主人公男性があっさりと去勢されるからです。去勢は、性欲管理や射精管理の、その先にあるものだと思われます。そのため、沼氏としては、触れざるを得なかったのかもしれません。前近代において身分差のある結婚は不可でしたが、いわんや、奴隷と神の間で、性的な妄想、性的な身体反応は、未然に防止されるべきなのだと思います。
絶対的な身分秩序を構想していると思われます。
また、ヤプーはいとも簡単に殺されています。「崇拝する女性から、死を賜ること」を妄想するマゾヒストも居るようです。あまり詳しく書かれていませんから、沼氏個人は関心は薄かったのかもしれません。
結局、沼氏は、当時としては最大限、様々なエム男性の嗜好に目配りしていると思えます。
三島由紀夫氏は、「家畜人ヤプー」を高く評価したとか言われますが、どう理解すればよいのか、私には皆目わかりませんでした。いまでも混乱しています。
おっしゃる通りですね…
三島由紀夫が「家畜人ヤプー」を「マゾヒズムの極地」として高く評価したのは事実です。
また、三島は谷崎潤一郎を崇拝していました。
しかし三島はマゾヒストではありません。
ですから谷崎や沼の作品をマゾヒズム文学として性的興奮を伴って鑑賞している者としては、なにをどう評価したのか、理解しがたいものがあります。
三島の作品には耽美主義、貴族趣味、自己犠牲などが見受けられますから、三島が谷崎や沼を絶賛したのもまあわかるような気もします。
サド侯爵に惹かれたのとさほど違いはないのでしょう。
しかし、三島であろうが誰であろうが、マゾヒストではない人が谷崎潤一郎や沼正三を本当の意味で鑑賞できるとは思いません。
作品を読んでマゾヒスティックな性的興奮を伴わなければ谷崎や沼を本当の意味で鑑賞したことにはなりません。
「すばらしい、マゾヒズムの極地だ!」って、「じゃーシコったのかよ?射精したのかよ?」ってなりますね。
そういえば佐藤春夫という人はザッヘル・マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」を「思想小説」と言っていましたね。
そんなもんですよ。
しかし、三島らマゾヒストではない文人が「家畜人ヤプー」を高く評価し、多くのマゾヒストではない読者に愛されたことで「家畜人ヤプー」はマゾヒズム文学を高い地位へと引き上げてくれました。
谷崎潤一郎に至っては国語便覧でもトップクラスの文豪として掲載され、多くの外国語に翻訳され海外でも高く評価されています。
ありがたいこととは思いながら、不思議なことだなーと思っています。
沼氏が曽野綾子先生のフアンであったとは知りませんでした。沼氏が、「家畜人ヤプー」の作者だとして(たぶん、作者だと思われますが)、曽野綾子先生は、
「 家畜人ヤプーの作者が自分のフアンである 」
ということをご存知であったのでしょうか。
あるいは、どこかで知る機会があったのでしょうか。
家畜人ヤプーというタイトルで出版された本には、付録として、著名人の書評か感想か、そういうものが載っていることがあります。そこには、三島由紀夫氏と並んで、曽野綾子氏もありました。曽野綾子氏のコメントは、否定的(少なくとも文面上ですが、大変否定的であった)と思われます。
そもそも、曽野綾子氏が、この本を手に取ったということが不思議ですし、また、読了したのかも疑問です。
曽野綾子氏に、感想を求めた編集者は、「家畜人ヤプー」の作者が、曽野氏のフアンだということを知って、感想を求めたのでしょうか。また、その際、「作者は、曽野氏のフアンであること」をあらかじめ知らせたのでしょうか。それとも、感想のコメント(一文)を得たあとに、初めて、「作者が曽野氏のフアンであること」を知らせたのでしょうか。
とても興味あるところです。
(誤字を訂正しました)
「ある夢想家の手帖から」第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」の付記に顛末が載っていたので、この際転載します。
角川文庫版の「家畜人ヤプー」には曽野さんのあとがき「或るけだるい午後の、二人の会話」を頂戴したが、本章の曽野さん関係の叙述がそれ以後に書かれたわけではなく、むしろ、本章に書いたような心情から、「彼女のあとがきを」と私が代理人の天野君を介して編集部にお願いしたのである。そして、そのゆかりで彼女の原稿ーます目一杯になる男のような字体ですらすらと書かれていたーを目にすることができ、やはり昂奮し、ペンネームの正体秘匿の禁を一度だけ破って、沼正三名義でつたない自筆の礼状を差し出したことであった。それが心のドミナへの私なりの儀礼であった。つまらぬことだが、右を追従の戯文と見られることをおそれ、事情を明らかにしておく。
コメントに回答③
開店休業状態の当ブログのいつもたくさんのコメントをくださり本当にありがとうございます。
私の文章をよく理解してくださった上で新たな考察を加えてくださるのでとてもためになり、こちらも考察が深まりますます。
白乃様のマゾヒズムの3大要素という整理は、オリジナルでしょうか。とても優れた整理だと思っています。
スクビズム、トリオリズム、アルビニズムはいずれも沼正三の「ある夢想家の手帖から」に紹介されている概念です。
3大要素としてまとめられているわけではありませんが、いずれも同書および小説「家畜人ヤプー」の主題となっています。
ただ、マゾヒズム側の人間が、対象としてサディズムな性癖の異性を選択するか、また、サディズム側の人間が、対象として、マゾヒズムな性癖の異性を選択するか、必ずしもそうはならないと思います。
すると、
①M男性→S女性、
②M男性→M女性、
③M男性→SでもMでもない女性
④S男性→S女性
⑤S男性→M女性
⑥S男性→SでもMでもない女性
そして、
⑦M女性→S男性
⑧M女性→M男性
⑨M女性→SでもMでもない男性
⑩S女性→S男性
⑪S女性→M男性
⑫S女性→SでもMでもない男性
となってきます。
聞くところによると、
⑬M男性→「Sなカップル(S女性+男性)」
⑭M男性→「M女性→S男性」
⑮M男性→「ふつうのカップル(女性+男性)」
などなど、
複雑な、重層的な、形もあるようですが、混乱するので省きます。ちなみに、「トリオリズムは、⑬の中のひとつのパターンのようにも思えます)。
ここでの関心の対象は、
①M男性→S女性、
②M男性→M女性、
③M男性→SでもMでもない女性
という性欲(マゾヒズムな性欲)に限定されると思います。
この部分は私が既存のマゾ系コンテンツに対して最も疑問に思っていることの一つでした。
よくぞご指摘くださいました。
私は対象の異性が、男性を凌辱することに「性的な」充足を覚えるサディスティン(S女性)であることを全く求めません。
むしろ崇拝する女性にそのような要素がない方がうれしいです。
一番望ましいのは自分に対する無関心です。
自分をそのものとしては全く無価値な存在と捉え、手段としてのみ有用な存在として利用してほしいのです。
サディズムや憎悪の対象になるということは自分に価値を認めてくれているということになりますから、それは興ざめの要因になります。
ですから私の理想は
③M男性→SでもMでもない女性
ということになります。
トリオリズムの場合
⑮M男性→「ふつうのカップル(女性+男性)」
が好みです。
しかし、既存のマゾ系コンテンツはほとんどが
①M男性→S女性
の構図で作られていますよね。
それが私は不満でしかたないです。
こも構図って、要するに、互いに愛を確認したり快楽を得る目的で合意(契約)に基づいて行われる性行為(和姦)の一つの形態でしかないんですよ。
実践派にはプレイとかセッションとか呼ばれているものですね。
私の考えるマゾヒズムに、「双方向の愛」というのは考えられない。
マゾヒズムは徹頭徹尾「一方向の愛」でなければならないと思っています。
そうは言っても現実にはサディスティンではない女性から凌辱を受けるシチュエーションというのは難しいから、③の構図で描かれているというのも多いかもしれません。
でも妄想の中であればサディスティンではない女性からでも凌辱を受けるというのはいくらでも考えられます。
たとえば人種差別は人が経験しうるもっとも激しい人格的凌辱ですが、歴史的に世界中で行われてきました。
最近は「Financial Domination」が話題になっていますね。
これも相手はサディスティンである必要はありません。
お金がほしいから利用するだけ。
貨幣という手段としてのみ自分の有用性を認め、自分そのものの価値を認めないことの証として「プレイ」などの対価を与えない、この徹底した手段化の形態が、マゾヒストを引きつけているのだと思います。
また、マゾヒズムといっても、
相手の女性が
(A)至上の女性、神聖な女性であるか、
自分とは隔絶した存在なのか、
(B)上位の女性であるのか
(但し、ヘラのような意味で上位)
(但し、アテナイのような意味で上位)
(但し、ビーナスのような意味で上位)
(但し、アルテミスのような意味で上位)、
(C)ほぼ同列であった女性であるか、
(D)ほぼ同列である筈の女性であるのか、
(E)やや下位の女性であるのか、
そして、
(あ)面識のある女性なのか、
(い)行きずりの女性なのか、
それから、
(1)一時的に仕えるのか、
(2)永続的に仕えるのか、
により、M男性の持つマゾヒズム嗜好との組み合わせ
で、どのような性的悦楽がもたらされるのか変わってくると思います
それぞれに味わいがありますね、私はいろいろ好きですが、やっぱり一番好きなのはAですねー