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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために

美男美女というのは、魂と肉体を分けて認識する心身二元論に立てば「美しい肉体の持ち主」たる資本家ブルジョワジーとしてとらえられる。
美男美女が特権的に所有する資本とは、人を魅し、嘆息させ、一挙一動で自在に快楽も苦痛も与えることができる、圧倒的かつ絶対的な力を伴う美しい肉体である。

美しい肉体を持たずに生まれた無産階級プロレタリアートに罪はないが、後天的な努力ではこれを持つことはかなわない。
無産階級プロレタリアート資本家ブルジョワジーに対しては無力で、抵抗する手段をまったく持たない。
無産階級プロレタリアート資本家ブルジョワジー怨念ルサンチマンの礫をぶつけようとしても、遥か頭上に照り輝く太陽のような資本家ブルジョワジーの美貌の圧倒的な力を前にしては、すっかり怯えて、あわててコソコソと礫を隠すだろう。
資本家ブルジョワジーが天をめぐる月のような瞳の一動でもって行使する無慈悲な力の前には膝を屈するしかないし、咲きこぼれる藤のような腕の一挙でする理不尽な指図の前には、地に額を付いて従うしかない。
無産階級プロレタリアートとは、なんとも哀れではないか。

しかし、魂と肉体が不可分と考える心身一元論に立てば、美男美女はそもそも「人間の格」が違う貴族ノブレスととらえることができる。
その美しさは、高貴で清らかで穢れなく徳の高い聖なる魂が、そのまま肉体に反映されているにすぎないと考えれば、その美しさが持つ力はなにも無慈悲とも理不尽ともいえなくなる。
貴族ノブレスが望むこと、欲すること、思いつくことはすべて正しく、善なのであるから、それが即座に完全に実行されるために、当然に与えられている力である。

同じく心身一元論に立てば、醜い肉体を持ってに生まれたものは、卑しいカルマにまみれたその穢れた魂がその肉体に反映しているのであるから、その考えること、行うことのすべてはいうに及ばず、一分一秒と世に存在していることそのものが許されない蛆虫ワームであり、他の害虫と同様に駆除の対象となるべき存在ということになる。
蛆虫ワームが救われる生き方はただひとつ、貴族ノブレスの慈悲にすがり、全身全霊をノブレスの所有に掛ける奴隷スレイブとして生きることで存在の罪の軽減に勤めることである。
貴族ノブレスが5m移動する際、自らの足で歩く労を省くことに一匹の蛆虫ワームの背中が貢献できたのであれば、その蛆虫ワームがその日一日生きることは許されるであろう。
貴族ノブレスがコレクションする宝石の装飾を好みに合うように少しアレンジする費用を一匹の蛆虫ワームの一年の労働で贖うことができるのであれば、一匹分の蛆虫ワームが一年間生きることは許されるであろう。
駆除されるべき穢らわしい蛆虫ワーム奴隷スレイブとなることで、貴族ノブレスの高貴な魂に奉仕するという紛れもない善行に勤しむことができるのである。
すべては貴族ノブレスの恩恵である。
なんとも光栄で、幸福なことではないか。

鏡を見てみてほしい。
鏡だけが本当の君のことを教えてくれる。
君は醜い。

この醜さは、君の魂の卑しさ、穢らわしさとは無関係なのだろうか。
そう信じるのであれば、君は無産階級プロレタリアートとして資本家ブルジョワジーに対しておかしい、魂は平等なのに、と怨念ルサンチマンを抱きながらもその恐ろしい力に怯え、毎日恐ろしくて憎い資本家ブルジョワジーの足下の地面に両手と額を突く、苦しい生を送っていかなければならない。


しかしもし君が、君の肉体の醜さは君の魂の卑しさ、穢らわしさの反映であることに気づけたら、君が本来ならとっくに駆除されているべき蛆虫ワームであり、今この瞬間も駆除されずに存在していることが許されない罪悪であることに気づけたのなら、救いはある。
君の目に美しく映る人がいたら、その人は高貴で清らかで穢れなく、徳の高い聖なる魂を持った貴族ノブレスだ。
貴族ノブレスは慈悲深い。
君のような蛆虫ワームであっても、貴族ノブレスは所有してくれる。
奴隷スレイブにしてくれる。

ごらん、美しい人がいる。
美しい人の足下に、醜いものが両手と額を地面につけてかしこまっている。
美しい人が差し出された項をしっかりと踏みつける。
醜いものの顔面が押し付けられてぴったりと接地する。
これを資本家ブルジョワジーがその靴底で、足下に這っている無産階級プロレタリアートの項を踏みつけたのだとみると、ずいぶん乱暴な踏みつけ方にみえる。
ところが貴族ノブレスがその靴底で、足下に這っている蛆虫ワームの項を踏みつけたのだとみれば、同じ仕方だとしても、聖なる足を動かして汚らわしい蛆虫ワームに靴底を触れてまで、貴族ノブレスに対する礼儀として顔面をぴったりと接地させてやることで、不敬の罪を購い、さらに魂が穢れるのを防いでやっていると見え、慈悲深いありがたさを感じるではないか。

すべては捉え方次第なのだ。

鏡を見てみてほしい。
鏡だけが本当の君のことを教えてくれる。
君は醜い。
君は蛆虫ワームだ。

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コメント

「美しい肉体の持ち主」たる資本家ブルジョワジー。
美しい肉体を持たずに生まれた無産階級プロレタリアート。
女性上位の世界では、この階級差と重層的に、性別・美醜によるカーストがあるようでございます。

<S女さま-M女さん-M男性>という序列の中で、最下層に位置するM男性。
その中にも、「美しいM男性」と「平凡なM男性」の間には、歴然たる差がございまして。
S女さまに可愛がられるのは、やはり「美しいM男性」でございます。
連れて歩けば羨望のまなざしを集め、S女さま仲間にも自慢できる、美男奴隷。奉仕させて気分がよいのも、イケメンなればこそ。肉体的に苛める場合も、美青年なら、苦悶の表情も美しく、苛め甲斐があるというものでございましょう。
(もっとも、美しくなくても、奇矯なふるまいや、奇抜な外観を有する「ビックリ人間」としてS女さまを楽しませたり、芸人顔負けの話術によってS女さまを和ませたりできるM男性には、それなりの需要はありますが)

「平凡なM男性」は、「美しい肉体の持主」たるS女さまにご奉仕したり、苛めていただいたりすることは叶いません。そうした栄えある地位は、「美しい肉体を持ったM男性」の特権だからです。
美しい肉体の持主で構成される女性上位の世界。その憧れの世界から疎外された、平凡な肉体のM男性にできることと言えば、一生懸命働いて、稼いだお金をS女さまに貢ぎ、喜んでいただくことぐらい。奴隷制社会の奴隷とは、主人の経済活動の道具なのだから、その点でfinancial slaveこそ本物の奴隷に近いといえるでしょう。

仙人

いつもコメントありがとうございます!

financial slaveですか。
人間ではなく、愛玩対象でもなく、金融資産としてのみ評価される。
非常に残酷でときめいてしまいますね。

複数のfinancial slaveをまとめてひとつのポートフォリオとし、分割して証券化し売買される、ってのもいいかもしれません。

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