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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

沼正三の白人崇拝(1)―英伊混血女性との文通

「ある夢想家の手帖から」には、沼正三のマゾヒズムに多大な影響を及ぼした2人のドミナのことが書かれています。

一人は、第一〇五章「わがドミナの便り」に書かれている英伊混血女性、もう一人は、続く第一〇六章「奴隷の歓喜」に書かれている英軍司令官夫人です。

今回はそのうち、英伊混血女性が沼のマゾヒズムにどのような影響を及ぼしたかを見てみたいと思います。

白人ドミナとの文通

沼は、この英伊混血の在日白人女性(イニシャルD・Q、以下「D・Q夫人」とします。)に直接会っていません。
文通をしただけです。
手紙を仲介したのは、語学に堪能で西洋の文献や図画を多く風俗雑誌に紹介していた森下高茂でした。
発端は昭和三〇年に森下の紹介で「奇譚クラブ」に掲載された、D・Q夫人の描いたイラスト。

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白人女性の調教師が裸の日本人に犬芸を仕込み、観衆の前で披露させるというサーカスのイラストを見て、元来の「白人崇拝者ホワイト・ワーシッパー」で、「犬派」でもある沼は歓喜します。
そして昭和三十一、二年(一九五六、七年)ころ、沼の白人女性への「奴隷的思慕」を知った森下高茂が、沼のD・Q夫人への手紙を仲介して、本人に届けます。
沼の書いた手紙の内容は紹介されていませんが、マゾヒストからドミナへの「奴隷的思慕」をしたためた内容だったのでしょう。
彼女による鞭撻や足蹴を受けるよりも犬になり、踏台になることを望むこと、汚物に対する強烈な渇望までもが記されたようです。
果たしてD・Q夫人からの返事が森下を介して沼に届き、その訳文が紹介されています。
それは大変に驕慢で侮蔑的な内容で、沼を喜ばせます。
特に「醜悪なる黄色人種」といった、人種差別的な表現が沼の白人崇拝マゾヒズムを大いに刺激しました。
沼の返事に対して、再度D・Q夫人からの返事があり、それに対して沼は三通長文の手紙を書きますが返事はなく、しばらくして届いたD・Q夫人からの三通目の手紙に、渡欧することが記され、文通は終わります。

最後の手紙の中でD・Q夫人は沼に2つのことを命じています。一つは自分の名をつけた首輪を着用すること、もう一つは「私の体から分泌し、人がすてさるところのもの」を、何らかの方法で「白人としての誇りを以って」与えるのでそれを「誇りを以って」口にすることです。
結局森下の尽力で、尿を詰めた小瓶が送られます。
内容物はほとんど乾いてしまっていましたが、沼はその小瓶をその後も手元に保管していました。

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アレクサンドラ王妃(プリンセス・アレクサンドラ・オブ・ケント、現オギルヴィ令夫人、英王室) この英伊混血女性を偲ばせるとのこと。以下4点すべて同妃。

人間の言語と家畜の言語

手紙に用いられた言語は、沼にとって重要な意味を持ちました。
沼からの最初の手紙は何の気なしに英語で。
それに対してD・Q夫人はイタリア語で返事を書き、沼はそれに対して慣れないながら苦労してイタリア語で返事を書きます。
D・Q夫人はそれに対する返事をドイツ語で書きます。
D・Q夫人は西洋語を家畜には理解できない「人間の言葉」だとして、その中から沼の得意なドイツ語を「少しはお前も理解できる国語」として選んだのです。
そして、沼の出す返事は「犬の言語」である日本語で書くことを命じます。
これに沼は烈しい昂奮を示します。
沼はD・Q夫人による二つの侮辱を拝受しています。
一つは、大変なインテリで、少なくとも英語とドイツ語に通じる沼の西洋語の能力、ひいてはその知能を(西洋人のレベルから見れば)"家畜並"と評価しているという侮辱。
もう一つは日本語が、白人には容易に理解できる下等な「犬の言語」だとして、日本人全体の知能を家畜並みに評価するという侮辱です。
沼は「才女憧憬心理」を持っており、怜悧で有能な女性を理想のドミナの一類型としていますが、西洋先進文明の中に生まれ育った白人女性は無条件に「ミネルヴァ的」(女神アテネを理想とする才女)であるとしています。(第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」)
わたし達は普通、人間の語彙の数パーセントにあたる単語しか家畜には教えない」として、畜類には到底理解しえない高等な人間の言語であるな西洋語を覚えて使おうとする僭越な思い上がりを嘲り、下等な家畜の言語である日本語は、自分達白人には容易に理解できるのだから、家畜らしくそれを使え、という侮辱は、犬がどんなに学んでも知能で人間の足もとにも及ばないという幻想を刺激し、沼にはたまらない快感だったでしょう。

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「功徳」と「慈畜主義」

沼はD・Q夫人からの最初の手紙に、この手紙を女友達の家で書いたとあったことに大変昂奮し、自分の「奴隷の手紙」についての白人女性同士の会話を妄想しています。

「こんな手紙をよこした日本人がいるのよ」
「どれどれ……フーン、変わってるね、貴女あなたの犬になりたいってのね」
「それから踏台になりたいってさ」
「ずいぶん汚らしいことも書いてるじゃないの」
いやらしい。肌の黄色い奴てこんなこと考えてるのかしらね。本当に厭ね」
「返事出した?」
「ウウン、相手にする気がしないもの」
「出しておやりなさいよ。功徳よ。普通に相手にするのは馬鹿らしいけど、望みどおり犬にしてやったらいいじゃないの。犬に話しかけるように書いてやりゃいいのよ」
「そうね。喜ぶわねきっと」


「功徳」という言葉が絶妙ですね。
西洋語では"charity"という程度の意味でしょうが、日本語の「功徳」には二つ意味があって、一つは人のする善行で、もう一つは神仏が人に与える恵みのこと。
この白人女性がこの二つの意味を意識して「功徳」(に対応する言葉)と使ったと考えたらどうでしょう。
白人女性の犬や踏台になることを望み、その汚物をありがたがるとまで書いているのだから、この日本人にとって自分達白人女性は神なのだろう。
であれば、この日本人にとっては自分達から手紙をもらうということは神が人に恵む「功徳」となるだろう。
そして、たとえ卑しい黄色人種に対してであっても、わずかなりともこちらの時間を割いて無上の喜びを与えてやるということは、博愛の精神にかなう善行であり、「功徳」といえる。
何の気なしに使った言葉の裏に優越人種特有のこのような心理が隠れていると考えると非常に昂奮しますね。
「ヤプー」に登場するアンナ・テラスの「慈畜主義チャリティズム」に直結するアイデアかもしれません。

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「人間達」の世界

沼は手紙の最後の「わたしはもう人間達の処に戻らなければならない」という記述にも昂奮しています。
何気ない記述ですが「友達の処に」でも「白人達の処に」でもなく、「人間達の処に」という、徹底的な畜類視と、ほんの気まぐれの好奇心と憐憫とで相手にしたにすぎないという無関心、そして、畜類を疎外オミットする天上界のような「人間達の処」への憧れが、逆にドミナの功徳の「ありがたみ」を感じさせてくれたのでしょう。

数回の手紙のやり取りの間に、D・Q夫人が沼の手紙をさらにほかの「人間達」に見せた可能性を考えるのも楽しいです。
夫や恋人に見せる可能性はどうでしょうか。
第六十三章「人間は動物である」では、アルジェリア人の豪商がフランス人女性の飼い犬になる願望を綴って送った「奴隷の手紙」を見たその女性の夫は、一度は手紙は妻に不義をすすめたものと疑いますが、事情をよく知るとそのアルジェリア人が自分の夫としての地位を脅かす心配が皆無なことを理解し、アルジェリア人が自分の「妻に持つ盲目的な崇愛を可愛そうに思って」赦します。
同様にD・Q夫人がその夫や恋人に沼の手紙を見せたり、返事を書いたことを知ったとしても、怒ったり不快に思うことはないのでしょう。
日本人の本性を日頃から目にしている在日白人としては「まあありそうなことだ」と、あまり関心を払わないかもしれません。
妻(恋人)が買い物や散歩をしていたら往来で犬になつかれた、程度にしか捉えないでしょう。
食卓やソファーやベッドの上で数分の嘲笑の種にしてくれたのなら、光栄と考えるべきかもしれません。

「ふーん君の便器トイレットにねぇ…それにしても、日本人にしては教養の高そうな文章じゃないか」
「人並みに英語やドイツ語も詰め込んだ頭で、四六時中こんなことを考えてるのね。日本人の本性がよくわかったわ」
「法律にも詳しそうだ…法学士だねこりゃ」
法廷コートで他人を裁いたり弁護したりしてる最中にも、頭の中では私の踏台ストゥール便器トイレットになることを考えているのかと思うと…なんだか笑っちゃうわね」
「ふん、日本も主権を回復したんだから、仮にこいつが判事だとしたら、僕のビジネスをこいつに裁かれる可能性もあるわけだ。そのときは君、一肌よろしく頼むよ」
「ふふっ、一肌脱ぐどころか、法廷コートお手洗いバスルームの代わりにして判事の中に用を足すだけで済むんだから、お安い御用だわ」


D・Q夫人が自分の子供に、あるいは知人の白人少年少女に、沼の手紙を見せる、ということもあったかもしれません。
沼の「奴隷の手紙」は、男性の女性に対する異常な性的欲望を綴ったものと考えれば子供に見せるべき内容ではないかもしれませんが、畜類がその習性を示した標本と考えれば、子供にとってもその動物に対する正しい理解に資する有益なもの、と考えるべきでしょう。
あたかも人並みに主権国家を統治したり企業を経営したり教育を受けたり施したりしている日本人の本性がどのようなものか、そして白人としてそのような人種をどのように取り扱うのがふさわしいかを正しく理解させるための一材料となることでしょう。
たまたま富や学があって僭越な思い違いをしている日本人に出会ったとしても、「こいつもきっと本心では私の踏台ストゥール便器トイレットになりたいんだわ…」と思えれば、「白人としての誇り」を持って、相手を正しく劣等人種として処遇できます。
宿命的な習性を持つ日本人に対して、侮蔑や嫌悪感を超越して憐れみを催し、ならば「功徳」をで恵んでやろうと思う、D・Q夫人やその友人のような優越人種らしい心構えを持った白人男女を育てることに自分の手紙が役立つならば、沼としてもこれ以上の光栄はないでしょう。

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醜い黄色い犬から

掲載されているのはD・Q夫人からの手紙だけで、沼からD・Q夫人にあてた手紙が掲載されていないのが残念ですが、その分それを想像する楽しみは残ります。
想像の助けになるのはやはり、同様に有色人種男性から白人女性に送られた、第六二章「醜い黒犬から」に掲載されているアルジェリア人の豪商がフランス人女性の飼い犬になる願望を綴って送った手紙でしょう。
これをシチュエーションに合わせて改変すれば、容易に沼からD・Q夫人にあてた手紙を想像することができます。
私なりに改変したものを一部載せますので、ぜひみなさんもお好みに合わせてやってみてください。

 親愛なる奥様!女主人ごしゅじんさま!私は貴女あなたに飼養されたいと夢想する一匹の醜い黄色い犬です。
 私は学校で教育を受け、安定した官職に就き、妻も子供もおり、今日ようやく独立した日本の一員として日々を生きております。しかし、奥様、私たちは独立して本当に幸福なのでしょうか?私たちの黄色の皮膚は、私たち日本人が永久に、その皮膚ゆえに白き皮膚の人々に隷属すべきことを教えていないでしょうか。連合国が講和条約で私たちに与えた地位は、私たちの皮膚にふさわしいでしょうか。いいえ!
 私は講和条約が日本に不当に寛大であったことを悔しく思っています。なぜなら講和条約は、いずれ私たちがもっと私たちの皮膚の色にふさわしい地位に着くための遠回りにすぎないからです。もし連合国の日本に対する処遇が、リビアやアルジェリアや南アフリカやアメリカ南部で行われているような正しい人種認識に基づいたものであったならば、私たちは私たちの皮膚の色にふさわしい地位にもっと早く着けたでしょうから。このかりそめの独立と復興は虚妄です。私は虚妄の人生を生きる同胞よりも一足早く、自分にふさわしい人生として、ある白人女性の奴隷となる途を選びました。私はこの新しい人生を生きたいと思います。そしてその白人女性とは貴女なのです。奥様、私の体内に潜む暗色の奴隷の血をわき立たせ、今までの人生を捨てさせようと決心させた貴女なのです。
 数年前のある朝、雑誌に掲載された、白人女性の調教師が裸の日本人に犬芸を仕込み、観衆の前で披露させるというサーカスのイラストを見た時、私の人生に天啓が訪れました。私は日本人の本来の使命はやはり支配者なる白き皮膚の人々に仕えることにあるのだと悟り、特に私個人の使命はこのイラストの描き手である白人女性に仕えることなのだと悟りました。けれども私の地位と私の臆病とは、以来昼夜彼女を夢見つつ白人女性の幻影に対してありうべからざる不敬な行為に耽りながら、今日まで私を躊躇させてきたのです。
 もう私にはこれ以上我慢ができません!私は躊躇を捨てて私の正しい生き方に入るべく決心しました。奥様、私を家畜として、黄色い犬として扱ってほしいとお願いいたします。
 奥様、私の夢想の中では、満員の観客の前で貴女は片手に鞭、片手に首輪の紐を握って、私は黄色い皮膚の、裸の犬として、貴女の意のままに、芸を披露します。その有様は観客にこの世界のあるべき姿を教えるでしょう。優雅で白人としての誇りに満ちた貴女の姿に白人の観客は、その支配種族としての記憶――有史以前から、有色人種を家畜の一種として扱ってきた記憶――を呼び起こされ、人並みに隣の座席に腰掛けている日本人に対して、どのような扱いが本来正しかったのかを思い直すでしょう。一方、喜々として、白人の家畜であることの誇りに満ちた私の姿に日本人の観客は、――私が貴女のイラストを見た時と同じように――家畜としての本能を呼び起こされ、自分達の本来の使命がなんだったのかを思い出し、白人と並んで座席に腰掛けていることが申し訳ないような気持ちになって、すぐさま日本人らしく座席の下にの床に手を突いて平伏してしまいたくなることでしょう。貴女のショーは評判となり、同様のショーが各地で披露され、多くの観客に、同じような感想を抱かせ、日本人がその皮膚の色にふさわしい地位に着くのを早めることに寄与するでしょう。



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森下高茂の尽力

沼は「家畜人ヤプー」を執筆する上でインスピレーションの源泉になったのはこのドミナとの文通であり、「家畜人ヤプー」が中絶したのは、このドミナを(渡欧により)失ったからだ、としています。
手紙の中に、「ヤプー」の筋書きも書き送り、登場人物の氏名のいくつかは、D・Q夫人に関係のある名前あるいは彼女に選んでもらった名前なのだそうです。

最後に、少し興ざめするかもしれない話を野暮を承知で書いておきます。
何一つ根拠はありませんが、沼はこの白人ドミナに一度も会うことがなく、手紙はすべて森下が仲介した…ということを考えると、沼のセクシャリティーを知る森下が、沼のインスピレーションを刺激するためにこの文通を全て、あるいは一部分演出した、という仮説は成り立ちます。
おそらくは森下のドミナであった白人女性がいて(ドミナの手紙の中に「私の異常性の先達であるモリシタ」という記述があります。)、手紙の文面は全て沼が喜ぶような内容を森下が考え、ドミナに教唆したとのかもしれません。
(教養のある女性だったのかもしてませんが、専門家の教唆なしに「グラーツ」や「オルガ女皇」でザッヘル・マゾッホを連想させるメタファーを使ったりできるのか、という疑問もあります)
仮に沼がそれに勘付いたとしても、野暮な詮索はせず、幻のような理想のドミナとの文通を楽しんだことでしょう。
いずれにしても、森下の尽力がなければ、「家畜人ヤプー」が生まれることはなかったかもしれません。

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