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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

生体家具の代替性と慈畜主義

「物」の代替性
拙作『父の車で』において、母と恋人が少年の背中にアイロンで焼印を捺した場面を、「手段化法則の体現」であると看破してくださった方がいました。
ルーズリーフのスペースがなくなったので、少年はルーズリーフの「代わり」となったのです。
さらに父は、母が少年の背中に焼印を奇麗に捺すための「試し焼き」として使われた。
プリントの裏を再利用した紙のような存在です。
母から見ると、「ルーズリーフ→少年の背中→父の背中」の順に「代わり」となる存在であり、価値の低い存在として見られている感覚です。
「目的」の軽微さに加え、この「代替性」が、物化倒錯の深刻な味わいの一つです。

谷崎潤一郎『少年』のクライマックスの光子のセリフを再掲します。

「お前は先仙吉と一緒にあたしを縁台の代りにしたから、今度はお前が燭台の代りにおなり」


「代り」という言葉に味わいがあります。
「目的」は蝋燭を立てることであり、銀製の燭台を使ってもよいのだが、少年の額に蝋燭を立てて燭台の「代り」にする。
「目的」達成のための「手段」がいくつかあり、その一つの選択肢として自己の肉体、精神、生命を提供する。
自己の肉体を椅子として崇拝対象に供する場合、崇拝対象としては木製、鉄パイプ製などの既存の椅子に、人間の椅子が腰掛ける選択肢の一つとして加わることになります。
崇拝対象が自己ではなく木製の椅子や鉄パイプ製の椅子に腰かけた場合、それらに嫉妬してもだめ。
腰掛けてもらいたければ、「座り心地」の点で木製の椅子や鉄パイプ製の椅子の良い点を模して、超えなければいけない。
木や鉄といった「素材」が模範となり、ライヴァルとなるわけです。
ここにいたっては、崇拝対象にとっての自己の身体・精神・生命はまったく無価値に等しいところまで極小化しており、「愛情の一方通行」と「手段化」の極致が生まれます。

生体家具の生存戦略
『家畜人ヤプー』における生体家具リブング・ファーニチャーは、どのようにして既存の器物を駆逐して、イース白人に使用・消費される地位を獲得したのでしょうか。
一つは、先天・後天を問わぬ徹底的な生体加工によって、木材や金属のようにはいかずともかなり自由自在に生きたまま伸ばしたり、縮めたり、切ったり、削ったり、接着したりできるようになったことです。
これによって生体家具リブング・ファーニチャーは既存の器物を形態的に摸して、限りなく
たとえば、標準型肉便器スタンダード・セッチンは、侏儒しゅじゅ(便器)、傴僂せむし(便座)、麓麓首ろくろくび(排水管)という畸形を備えることで、快適で清潔な陶製便器を超え、駆逐し、全イース白人の排泄物を一滴残らず受ける地位を獲得することができたのです。
もう一つは、既存の器物にはない、生体家具リブング・ファーニチャーに特有な知能という能力を、活かし、いかにすれば少しでも使用者の快適利便に資するか、四六時夢中考えることで、既存の器物を超え、駆逐していったことです。
特に貴族の所有する読心家具テレパスは、使用者が望めば使用者の脳波を受信して自ら使用に供されることができるところまで進化しました。

「物」に及ぶ慈愛
こうしたイース白人(アングロ・サクソン)文明の科学力による進化によって、ヤプーはイース白人に使用されるつづける地位を確立するすることができたのですが、イース白人文明にとってヤプーが必要不可欠で代替不可能なものになったと誇るのは、やはり不遜に過ぎる気がします。
イース白人文明の科学力からすれば、たとえばアンドロイドとか人工知能とかを駆使すれば、生体家具リブング・ファーニチャー抜きの快適な生活というのも十分可能に思われます。
ヤプーを絶滅させて、他の「素材」に代替させることは、イース白人文明からすれば可能だが、今はヤプーを使用していただいている。
ヤプーがこの自らの代替可能性・存在の不安定性を自覚するとき、イース白人の恩義にたいする感謝は新たなものになることでしょう。
なぜイース白人がヤプーを捨てず、使用し続けてくれるのか。
そこには、永く永く支配側に立ち続けた種族特有の、被支配種族に対する深い「慈愛」があるのです。

使役しないことが虐待よ。使役すなわち慈畜トウ・ユース・イズ・トウ・ラブよ。


あたしたちは奴らの神様として奴らを使役する、これで慈畜心チャリティを示せば充分なのよ


あなた方は生まれた時から礼拝を受けて育って白神としての自意識も充分にある。ヤプーの奉仕を当然のこととして享受エンジョイしている。使役即慈愛という効果も知らずに使役している。無心な動作の一々でそれぞれのヤプーに恩恵を与えている。(中略)……それで結構よ。ヤプーたちは皆満足してるんですから。


白人を神として信仰しているヤプーに対しては、使役することが「慈愛」となり、使役しないことが「虐待」になる。
これがアンナ・テラスの慈畜主義チャリティズムの真髄です。
自分たちを神とあがめ、崇拝している存在を、無碍に捨てるのは下等な存在にまで及ぶ深い「慈愛」に反し、逆に使役するこで無上の喜びを与えることにより、「慈愛」を満足することができる。
もちろん日々の生活の中で使役するときに一々それを意識はしないし、今腰かけている椅子や便器が生きていることすらほとんど忘れているが、意識の深い部分で、自分の一挙一動が数千数万の存在に福音をもたらしていることを認識することで、永く支配側であり続けたことで種族的に培われた無意識の精神的満足を得ることができる。
ここに、ヤプーがアンドロイドや人工知能に取って代わられることなく、イース白人文明に選ばれつづけている本当の理由である気がします。
ありがたいことではないですか。

結局、崇拝対象から自己の身体・精神・生命の存在を軽視・無視されることを望む「愛情の一方通行」からスタートしたはずの物化倒錯でありながら、その極北にいたって、崇拝対象からの深い「慈愛」に気づかされるという非常に暗示的な現象を見ました。
崇拝対象から自己への感情を自ら望んで極小化していく中で、細く細くなっていく崇拝対象とのつながりの糸がプッツリと断絶することはおそれる。
手段としての有用性を高めることで関係を維持しようと懸命に努力する純粋主義ピュアリズムに酔いながらも、「捨てられる不安」に苛まれ、最終的には崇拝対象の「慈愛」にすがる。
それが崇拝対象にとっては用を足すために使用する器物を選ぶ際のかすかな心の動きだったとしても、それが本来及ぶはずのない「物」に及ぶものであったとしたら、それは「物」にとっては、蓮池から地獄の犍陀多に糸を垂らした釈迦のような深い深い慈愛に他ならないのです。
自己の存在価値を極限まで小さくすることで、崇拝対象の慈愛のありがたさを知る。
これが物化倒錯の醍醐味です。

手段化法則と物化倒錯

手段化法則
沼正三は『ある夢想家の手帖から』第一一九章で次のように「手段化法則」を定義づけています。

被虐者が他の人間の手段(道具、材料)とされる程度が高いほど、マゾ的昂奮が大きくなる


虐待されることを望むはずのマゾヒストですが、実は虐待者側の虐待行為の「動機」について、一種の「こだわり」があります。
マゾヒストが崇拝対象に虐待される際、その虐待行為の原動力がなんらかマゾヒスト自身にある、ということは、マゾヒストにとって喜ばしいことなのか、という問題です。
虐待者の側の復讐、憎悪といった負の感情が虐待行為の原動力なのであれば、それは相手の人格を認めていることになります。
その相手を虐待することが目的なのですから、虐待者は相手に代替不可能なある意味での価値を認めているということです。
これは、「愛情の一方通行」を求めるマゾヒストとしてはなにかものたりないものを感じます。

「愛情の一方通行」の究極形は、崇拝対象による「無関心」「忘却」です。
では、「愛情の一方通行」を実現したまま、崇拝対象から虐待を受けるためには、崇拝対象からどのような動機で虐待してもらえばよいのでしょうか。
崇拝対象が自己に対する関心をゼロに保ったまま、自己に対する虐待という「行為」を引き出す。
そのためには、なんらか別の「目的」を崇拝対象に付与しなければいけない。
その目的を達成するための過程として、自己への虐待行為を位置づければよい。
これが、マゾヒストが手段化を求める所以です。

同章で沼はカントの次のような道徳論を紹介しています。

「汝の人格及び他のあらゆる者の人格における人間性を、常に目的としても取り扱い、決して手段としてのみ取り扱わぬように行為せよ」(『道徳の形而上学の基礎づけ』)


カントは歴史上のさまざまな人間性の侵害を観察して、その本質が人間の「手段化」におることを見抜いていたんですね。

谷崎潤一郎のマゾヒズムは徹底的にこの手段化法則に貫かれています。
それは、文壇デビュー作『刺青』のラストに簡潔に、明快に書かれています。

お前さんは真先に私の肥料こやしになったんだねえ


美しく咲き誇る花に養分を提供するためだけの存在である肥料は、まさしく「手段」の象徴です。

目的の極小化
さて、手段化法則が「愛情の一方通行」の一つの完成形であり、崇拝対象からの自己に対する感情を(正負を問わず)極小化しようとするマゾヒストの願望の現れであるのあらば、崇拝対象が自己を手段として達成しようとする「目的」が、崇拝対象にとって代替不可能な重要なものであるよりは、いくらでも代替可能でできるだけ軽微な「どうでもいい」ものであるほうが、効果が大きくなる、ということになります。
「目的」が、莫大な財産や地位を得るとか、破滅的な窮地を脱するだとか、愛した人と結ばれるだとか、崇拝対象の人生を左右するような重要なものであっても、その達成のために自己の肉体、精神、生命が手段とされることはマゾヒストの快楽につながります。
谷崎の『恋を知る頃』や『お才と巳之助』、『手帖』に紹介されているゾラの『一夜の愛のために』、白野勝利の『現代の魔女』やフランス人女性に財産を贈与したアルジェリア人のエピソードは、これにあたります。
しかし、その「目的」が、快適に休むためだとか、ほんの少し手足を動かす労を省略するだとか、パーティーの余興にするだとか、単なるひとときの暇つぶしであるとか、崇拝対象にとって軽微で程度の低い目的の達成のために、自己の肉体、精神、生命が手段とされることは、相手の自己の「軽視」の度合いが高まり、さらに強い快楽をマゾヒストにもたらします。

物化倒錯との親和性
崇拝対象から「物」として扱われる物化倒錯は、手段化法則と最も親和性のあるスクビズムの一類型です。
単に路傍に転がる物として扱われるのでもよいのですが、そのなかでもマゾヒストは(あつかましくも)崇拝対象との「関係」を求めてします。
そこで、物は物でも崇拝対象の利便という「目的」に供する「手段」たる道具・家具となることで崇拝者との「関係」を構築することになります。
谷崎の『少年』は、まさしく「スクビズムのカタログ」ですが、そこにもクライマックスで物化倒錯が現れます。

「お前は先仙吉と一緒にあたしを縁台の代りにしたから、今度はお前が燭台の代りにおなり」


「腰掛けにおなり」と云えば直ぐ四つ這いになって背を向けるし、「吐月峰はいふきにおなり」と云えば直ちに畏まって口を開く。


『魔術師』の主題も物化倒錯で、コーカサス種族にも見える両性具有の美しい魔術師の魔術によって、観客が自らの望みどおり、魔術師の玉座の椅子に敷かれる敷物や、魔術師を照らす蝋燭を支える燭台や、魔術師の履物に変えられる物語です。

ご存知のとおり、『家畜人ヤプー』は、白人種が有色人種を徹底的に手段化した世界の物語です。

ヤプーは単なる家畜ではなく、器物であり、動力エネルギーでもある。生体家具として生産されるものは生まれながらにして器物性を帯びている。生体とはいっても本質は家具なのである。ヤプーの登場が家畜と家具との概念的区別を曖昧にしてしまったのだ。
ただ単なる家畜でなく、一方に器物であり動力エネルギーであり、各種各様の使用形態のすべてがヤプーyapoo(中略)の名に総称されている。
知性ある家畜、知能を持った家具……(中略)生活体系にヤプーの肉体と精神を織り込んでしまったイース社会がヤプーを使用しなくなることは考えられない。
かくてヤプーの将来には唯一の道が続いている。これまでと同じく今後も永久に人間(白人)社会の維持と発展のための材料や道具となること、これであった。白人の楽園パラダイスイースの文明の栄華の花を咲かせるための肥料として生産され愛用されてゆくのが、今後のヤプーの運命なのである。(第四章「ヤプー本質論」)


「家畜人」という言葉のイメージから、畜人犬ヤップ・ドッグ畜人馬ヤップ・ホースが注目されますが、彼らはヤプーの中でも特別な存在で、ヤプーという種族の本質は、白人から見ればいくらでも代替可能な、消費の対象としての器物であり、動力エネルギーなのです。
『家畜人ヤプー』は、「手段化法則」を本質とする沼正三のマゾヒズムが結晶した物語です。

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