谷崎潤一郎と沼正三の共通点と相違点
馬仙人は沼派、浅野浩二さんは谷崎派とのこと。
両者とも日本のマゾヒズム文学における文豪、という評価は確立されていますが、やはりそれなりに相違点があり、好みもある程度分かれるようです。
しかし私はやはり、両者の共通点を強調したいですね。
沼は谷崎の子です。
「ある夢想家の手帖から」に何ヶ所谷崎が引用・言及されているか、私も数えきれていませんが、本当にいたるところで引用されています。
章全体で扱っているのは一四〇章中、第四章「ナオミ騎乗図」 だけなのですが、沼のマゾヒズムの核心部分にあたる重要な章でことごとく谷崎に言及しています。
両者のマゾヒズムの共通点を表にしてみました。
スクビズムについて沼は五類型を列挙していますが、谷崎作品には第三類型(股顔接合)だけは登場しません。
これは検閲事情や文壇における立場を考えたら致しかたないでしょう。
それ以外の二人の核心部分はほとんどことごとく一致しています。
マザーコンプレックスは?
谷崎の代名詞ともいうべきマザーコンプレックスは沼正三にはあまり表れないようですが、「手帖」第一四〇章では、沼の大きな特徴である男勝りの「女侠」崇拝は、「マザーコンプレックスの一変形」であると告白しています。
美尊醜卑は?
谷崎のマゾヒズムの根本は美尊醜卑ですが、これについても沼は「手帖」第一三八章付記第二で「「すべて美しい者は強者あり、醜い者は弱者であった。」(谷崎潤一郎『刺青』)というマゾヒズムの原点的理想」「「美しいひとに支配された」本能的欲求」と書いています。
では谷崎と沼の多いな相違点は何なのでしょうか。
私は妄想を形にする「舞台装置」の作り方ではないかと思います。
谷崎作品では、外界から遮断された空間が創られ、その中でマゾヒスト男性の願望がかなえられる、というパターンが非常に多いです。
「少年」の「塙の屋敷」、「饒太郎」の「西洋館」、「富美子の足」の「塚越の家」と「七里ガ浜の別荘」などなど。
男の願望を邪魔する法令や常識などの外界の秩序が入り込まないこの空間を、私は「スクビズムの楽園」と呼んでいます。
この空間の中では、「醜いものは美しいものに絶対服従する」という外界とはまったく異なる秩序が形成されています。
この空間に入れるのはこの秩序に従うもののみ。
そして、空間内にいるのは決して一対の男女だけとは限らず、三人以上で小さな小さな「社会」が作られているケースも多いです。
この谷崎の「閉じた楽園」は、全人類・全宇宙を組み込んだ、空間的にも時間的にも「開かれた楽園」=「
しかし、私は、谷崎の頭の中には、「開かれた楽園」のイメージがあったのではないか、ただ、時代状況が許さなかったために、描くにはいたらなかっただけなのではないか、と考えています。
というのも、一部の作品に、「開かれた楽園」の一端が垣間見えるのです。
「
「スクビズムの楽園」を二万坪に広げてしまったわけです。
「
「麒麟」では古代中国の衛の国が南子夫人に支配されている楽園となっているとも考えられます。
谷崎の「閉じた楽園」は外へと拡大するポテンシャルを内在していたと言えます。
さらにいえば、沼正三はSFで「開かれた楽園」を合理化しましたが、谷崎がそのような超現実的(ありえへん)手法を頑なに避けたのかというと、そんなことはありません、魑魅魍魎や魔術といったファンタジックで神秘的な要素を好んだことはよく知られているとおりです。
「魔術師」では実にシンプルに、西洋人風の美しい魔術師が魔術で人を敷物や燭台や
「小僧の夢」でも、小僧が美しいロシア人の女魔術師の魔術にかかります。
私は谷崎は魔法ファンタジーを使った「開かれた楽園」を頭の中に構想していた、と考えています。
結論としては、私はやはり谷崎と沼は作家としての表現方法に多少の違いはありますが、それは表層的な違いに過ぎずマゾヒストとしての本質は親子といってもいいほど共通点が多いと思います。
私はとにかくマゾヒズム文学に対する
谷崎=ソフト
沼=ハード
という短絡的なイメージをぶち壊したい、という思いが、このブログをやっている大きな動機です。
谷崎を読んで性的な陶酔を得られる人には「ある夢想家の手帖から」と「家畜人ヤプー」の正編を読んでほしいし、沼正三が好きな方には谷崎全集を読んでほしい。
そういう思いが強いです。
ミスター・ポストマン―マゾッホと谷崎のトリオリズム
(以下すべて種村季弘訳)
ワンダが呼び鈴を鳴らす。部屋に入る。
「この手紙をコルシーニ公爵さまのところへ」
私は市中まで馳せつけて、公爵に手紙を渡す。燃えるような漆黒の眼の若い美男である。そして待ち焦がれている彼女に返信を持って帰る。
「どうしたの?」悪意のこもった眼も下眼使いに彼女が訊ねる、「顔が真蒼だよ」
「いえ、何でもありません、ご主人さま、すこしばかり道を急ぎすぎましたもので」
昼食の席では公爵が彼女の横にすわり、私は二人の給仕役という劫罰に服する。その間二人は巫山戯合って、私という人間などまるで眼中にないようだ。一瞬、私は眼前が真暗になり、ボルドー葡萄酒を公爵のグラスに注ぐときに、公爵のテーブルクロスと彼女の夜会着 に酒を注ぎこぼしてしまう。
「何てドジな」ワンダが叫んで私に平手打ちをくれ、公爵が声を上げて笑う。彼女も声を合わせて笑い、私は顔面にかっと血が上る思いである。
トリオリストにとっては血が沸き立つような甘美で刺激的な伝説的場面です。
「ドミナの恋人に
1913年(大正2年)の「恋を知る頃」、1916年(大正5年)の「鬼の面」そして1950年(昭和25年)の「少将滋幹の母」の3作品にこのシチェーションが描かれています。
「毛皮を着たヴィーナス」の上記場面と、この谷崎の3作品に描かれる場面。
これらの「
「毛皮を着たヴィーナス」のトリオリズム―
「毛皮を着たヴィーナス」は、ゼヴェリーン・フォン・クジエムスキー(奴隷名は「グレゴール」)とワンダ・フォン・ドゥナーエフの「痴人の愛」の記録です。
よく知られている通り、本作はマゾッホがアンナ・コトヴィッツ夫人や女優ファニー・ピストールら数多くの女性との実践体験を作品化したものです。
ゼヴェリーンとワンダはともに生活感を感じさせない裕福な貴族です。
二人は互いの欲望を満たすため、自由な意思に基づく「契約」によって主従関係を結びます。
マゾヒストであるゼヴェリーンとサディスティンであるワンダの利害の一致。
これが前提にあって、関係を支えているのはあくまでも西洋人らしい個人主義です。
ワンダが第三者の男性と関係するときも、常に「ゼヴェリーンを嫉妬させる」という別の目的が見え隠れします。
そしてその通りにゼヴェリーンは甘美な嫉妬と屈辱に悶える、それを見てワンダは楽しむ。
この
嫉妬や屈辱を鞭撻や足蹴と同様のマゾヒズムの「スパイス」として楽しむ。
大変に被虐的ですがしかし、ドミナの恋人の男性に嫉妬する、屈辱を感じるということは、心のどこかで自分をドミナの恋人と「同じ土俵」に上げている、
ドミナの前で
ドミナの恋人の
幼*児が母を抱く父に嫉妬しないのと同じです。
むしろ、ドミナに至上の喜びを与えることができ、ドミナの愛をほしいままにできる逞しく美しい恋人の男性に対して、憧憬と畏怖のまなざしを向けるのが
同じトリオリズムでもここに大きな違いがあります。
「鬼の面」―
では、谷崎作品に現れる「
「鬼の面」から見ていきます。
本作については「神童」と合わせて作品論を書きましたが、谷崎が北村重昌の家に書生として住み込んでいたいた頃に、少年時代の尊大さが消え、卑屈な下僕根性が身についていく青年時代体験を描いた自伝的作品です。
主人公の壺井は、物語が始まった時点で既に、主人の津村邸に住み込んでから五年近くが経過していますから、かなり卑屈な根性が備わってしまっています。
そんな壺井の下僕根性を利用し、さらに育てるのが住み込み先の令嬢の藍子です。
藍子は親に隠れて江藤という青年と交際しています。
壺井は一応藍子を監督指導する家庭教師であり、秘密交際などは諌めなければいけない立場なのですが、美しい藍子と逞しい江藤という両家の令息令嬢同士似合いのカップルの交際を黙認してしまいます。
それをいいことに藍子は、江藤との恋文の投函と受け取りを壺井に依頼します。差出人を偽って書いても、何度も手紙を往復するうちに互いの家の者に気づかれてしまうのを恐れるためです。
或る朝、壺井が登校の時間に邸の門を出て二三町行くと、後からこつこつと小さな靴の踵を鳴らしつゝ藍子が追い付いて、
「壺井さん」
と、声をかけた。彼女も丁度学校へ行くところであつた。
「ちょいと壺井さんにお頼みがあるの。済まないけれど此の手紙をあなたの名前で名宛を書いて、今日のお午までに出してくれない?成る可く此の近所の郵便箱へ入れないで本郷から出して貰ひたいの。」
彼女は息せき切つて早口に斯う云ひながら、手に持つて居る四角な封筒を壺井の胸へ押しつけた。
「はあ、よござんす、畏まりました。」
「それから、佐藤四郎と云ふ名前で、壺井さんに宛てゝ返事が来るかも知れないから、さうしたら封を切らずに私に寄越しておくんなさい。」
さう云った時、藍子は始めてにこにこと笑ひかけたが、壺井はますます事務的な句調で、
「は、承知しました。」
と、鞠躬如 として命令を聞き取つた。
壺井にはゼヴェリーンのように僭越に嫉妬したりぐずぐず泣き言を言ったりする余地はありません。
ただ令嬢の藍子が渡せと言えば渡す、届けろと言えば届ける。
その忠実さだけ。
藍子も壺井が自分を諌めたり、相手のことを詮索したり、親に言いつけたり決してできない、ましてまして嫉妬などできるような存在ではない、「安全」な存在であることを良く心得ているから、安心して命じることができるんですね。
壺井は一応藍子の恋人江藤(「佐藤四郎」は偽名)と同年代の青年ですよ。
少しは警戒してもおかしくない。
でも壺井が江藤と同じ土俵に立てるとは、壺井も藍子もまったく思っていないんですね。
だから藍子は壺井を純粋に江藤との通信のための手段として利用することができる。
壺井は自分の容姿の醜さを卑下し、級友のように美少女と対等に恋愛する資格のないことを自覚しています。
壺井は自ら顧みて皰だらけな醜怪極まる己の容貌に想到する時、自分は到底、恋愛を語る資格のない宿命を持つて生まれたのかと、そゞろに遣るせない悔恨の情に駆られるのであつた。令嬢だの芸者だのと対等に暖かい
睦言 を交し得る僚友の身の上を、彼は唯天上に住む別種の人間の特権として、遥かに仰ぎ見て居るより仕方がなかつた。
そして自ら手紙の遣り取りを担った藍子の恋人江藤の肉体を浜辺で盗み見て、その美しさを嘆賞しています。
贅沢な家に育てられて、贅沢な生活をして来た人は、裸体になっても其の品格を包むことは出来ない。―――壺井は青年の姿を見ると、なぜだかそんな事を思つた。筋骨の秀でた、体幹の大きい、労働者のやうな頑丈な体格を持つて居ながら、その青年の四肢の格好には何処となくすつきりとした、典雅な曲線がなだらかに波打つて居る。藍子は仕合はせな相手を見付けたものである。
この自分と第三者男性との圧倒的な非対称性が谷崎のトリオリズムの特徴です。
対象女性が惹かれるに値する第三者男性と、問題にならないほど無価値な自分。
嫉妬を惹起するという別の目的のために手紙を届けさせるのではなく、ただ単に、手紙を届けるという本来の目的のための手段として利用する。
ここに嫉妬とはまた違った切なさが生まれます。
「恋を知る頃」―
「恋を知る頃」は、谷崎の
十二三歳の少年、伸太郎の、異母姉:おきんに対するあまりにも純粋な思慕。
一方自分が幸福を掴むために伸太郎を殺害するおきんの冷酷さ。
この
下総屋の三右衛門の妾の子であるおきんは正妻の子である伸太郎が死ねば、恋人の利三郎とともに下総屋の跡取りになれると考えて伸太郎の殺害を計画します。
伸太郎がおきんを慕い、「此の頃、
おきんは下総屋の中では周囲を警戒して猫を被っていますが、伸太郎の前ではまったく遠慮がありません。
利三郎との交際も隠していますが、伸太郎の前では「子供に何が解るもんかね」と言って憚りなくイチャつきます。
そして、恐ろしいことに、利三郎と共謀している伸太郎の殺害計画を、伸太郎の目の前で、利三郎と相談するのです。
ある時は伸太郎に足を拭かせながら、利三郎に耳打ちして相談したりしています。
おきんにとって伸太郎は、何一つ警戒する必要のない「安全」な
問題の手紙の場面は、第一幕、第二幕から一ヶ月あまりたった第三幕の冒頭です。
おきんは密かに伸太郎を召しつけます。
伸太郎(中略)あたりを憚るようにおずおずおきんの傍へ近寄る。
伸太郎 (小声にて)おきん、僕に何か用があるの。
おきん えゝ、済みませんが、またお使いに行って下さいな。
伸太郎 利三どんの処へかい。
おきん たびたびすみませんねえ。―坊ちゃん、あなた鉛筆と紙を持って来て下さいませんか。
伸太郎 あゝ。
おきん 誰かに見付からないようにね。
伸太郎、足音を忍ばせて出て行き、罫引の西洋紙と鉛筆を持って来る。
命じるおきんも、命じられる伸太郎も阿吽の呼吸で手慣れています。
一ヶ月の間におきんがすっかり伸太郎を躾けてしまい、下総屋の人々に隠れて
おきん どうも憚り様、ちょいと待って下さい。
二三行すらすらと走り書きして紙を細く畳み、鉛筆と一緒に伸太郎へ渡す。
おきん 利三どんにね、此の鉛筆で裏へ返事をかいてくれろッて、そうッと頼んで下さいよ。あたしが此処に居るうちに、早く行って入らっしゃい。
伸太郎 直ぐに来るから、待っておいで。
果たして伸太郎は利三郎におきんの手紙を届け、利三郎から返事の手紙を受け取ってすぐさまおきんに届けます。
この手紙の内容、これまた伸太郎の殺害計画の相談に違いありません。
おきんは返事を読み終えるとすぐさま「証拠品」の手紙を火鉢にくべて焼却してしまうのです。
さて、おきんにとって完全に「安全」な存在である伸太郎ですが、常におきんの後を慕っており、利三郎との逢瀬も覗き見ている伸太郎は、おきんと利三郎の計画を知っており、自分が届けている手紙の内容が自分の殺害計画の相談であることを知っています。
それでも、おきんが届けろと言えば届けるのが
「鬼の面」における藍子にとっての壺井もそうですが、おきんも伸太郎に手紙を読まれることをまったく警戒していません。
読まれてもいいんです。
読まれても内容を知られても伸太郎は自分が届けろと言えば直ちに届けるし、返事も持ってくる。
完全に自分の「道具」に徹する。
そういう自負があるんですね。
そしてその自負が正しいことを伸太郎の言葉が裏付けます。
おきん あなたは私の云う事を何でもお聞きになりますか。
伸太郎 あゝ聞くよ。
おきん 私の云う事は何でも聞いて下さいますのね。
伸太郎 僕はお前が死ねと云えば、何時でも死ぬよ。
日常おきんに「道具」として喜々と召使われていたのと同様に、おきんが利三郎と幸福になるための「手段」として嬉々と殺される。
この究極の純粋な
「少将滋幹の母」―身体の手段化
「鬼の面」「恋を知る頃」に共通するのは、手紙をやり取りしているカップルが交際を秘密にしたくて、秘密にしたまま「安心」して意思疎通ができる「手段」として
この究極というべき場面が、「少将滋幹の母」に登場します。
「鬼の面」「恋を知る頃」が20代に書かれたのに対して「少将滋幹の母」は60代になって書かれたもので、谷崎が生涯変わらぬ一個の
同作は9世紀末から10世紀初頭の史実に基づいており、少将滋幹とは藤原国経の子の藤原滋幹で、その母は美貌を多くの説話に謳われた在原棟梁の娘です。
老齢の国経は若く美しい妻(滋幹の母)を左大臣・藤原時平に奪われます。
滋幹の母はこの間も、伝説の色男であり天才歌人である平中こと平貞文と密通しています。
幼い滋幹は、母を慕ってたびたび左大臣の屋敷を訪ね、密かに母と会うのですが、平中はそれに目をつけます。
平中は滋幹に声をかけて、滋幹の母へ和歌を送るのですが、そのとき用心して、文に和歌を書かず、滋幹の袂をまくって滋幹の腕に和歌を書くのです。
滋幹は平中に言われた通りに母の下に忍び込んで、腕に書かれた和歌を母に見せます。
母はそれを読み、もう会えないと思っていた(国経を出し抜くのはたやすいが、左大臣の警戒は厳しい)恋人の便りに涙を流します。
そして、母はわが子の腕に書かれた平中の和歌を(もったいないと思いつつ)消して、その上に返歌を書き、「これをその方にお見せ」と言って突き遣り、滋幹はまた平中に母の和歌を見せに行きます。
なんということでしょう。
「恋を知る頃」のおきんでも伸太郎の身体を紙の「代わり」にはしませんでしたよ。
滋幹の母はわが子の身体を紙の「代わり」にした平中の和歌を泣いてありがたがり、みずからもわが子の身体を紙の「代わり」にし、文字通り秘密の恋の「道具」にします。
もはや
これこそ究極の「手段化」であり、究極の
この話は「後撰和歌集」や「十訓抄」といった史料に収録されているよく知られた説話を基にしています。
当然谷崎は少年期にこれらを読んでいるでしょう。
この説話が生来の
西洋的な自立した個に基づいたマゾッホの
同じトリオリズムでも、ここに大きな違いがあると考えています。
セルヴェリズムとパジズム
スクビズム総論でマゾヒズムの基本衝動であるスクビズムの諸類型を下図のようにまとめました。
沼正三はこのうち第五類型の(イ)の
この場合の奴隷とは、
奴隷の観念は「マゾ的空想の万能石」であり、諸類型に容易に変形します。
十人十色、多種多様なそれぞれの自分だけのスクビズム諸類型に発展していく前段階、大学でいえば専攻を決める前の教養課程が
古来洋の東西を問わず貴人は大人の奴隷より安全で気安く身辺の奉仕をさせることができる子供を侍らせたようです。
たとえ奴隷であっても男性であれば貴婦人・令嬢にとってはどうしても「そこにいる」ことが意識されてしまう。
それが
ペットや
着替えの手伝いや排泄・性行為の後始末も気軽にさせることができたでしょう。
大人の男性でありながら、この
あくまでも男女の恋愛関係の中で主人と奴隷を演じているのではなく、貴婦人と
幼*児の母に対する絶対的な思慕、これを老いた母に代って若く美しい令嬢・貴婦人に対して再現しようとするのが
あるいは、自分が性的な存在ではない「清純な」少年である代わりに、性の対象とすることを厳に禁止された「清純な」少女をドミナにすることによっても
令嬢と「じいや」のような関係。
少女にとって性的に不能となった老人は
ヘラ型の貴婦人と同じくらい、アルテミス型の令嬢が
とにかくいずれかして、大人の男女の関係を回避すれば、
昨今の表現でいえば、清純なteenの少女が性徴前の少年を凌辱する「おねしょた」はかなり
入門段階である
さて、実践派にとっては現実には大人の男性の肉体を捨てることができず、「男女」の関係、もっといえば「人間と人間」の関係を前提にせざるをえないという事情が
実践派にとっては「男女」の関係、「人間と人間」の関係が残る
谷崎潤一郎の
究極の実践派である谷崎潤一郎はまた究極の
「少年」における「私」の光子に対する畏怖、「恋を知る頃」における伸太郎のおきんに対する憧憬、「神童」における春之助のお町夫人に対する思慕、「
いかにして実践で理想の
「捨てられる
「痴人の愛」のナオミと河合譲治は家出事件の前まではあくまでも
一方そんな譲治も、憧れの白人女性であり、本物の貴婦人であるシュレムスカヤ伯爵夫人に対しては最初から
「
彼は彼の女に対して、再び蘭子との関係のような、歯痒い行き違いを生じさせたくない。二人の間に妙な行き掛りや習慣が出来ないうちに、いかにしても彼は彼の女と自分とを赤裸々にして了わなければならない。
と考えたのです。
谷崎はまた、「鶯姫」や「富美子の足」のように老人と少女の
谷崎は実際に老人になってから、「瘋癲老人日記」に老人の
性的に完全に不能で病気によって体力も衰弱している卯木老人を、息子の嫁である
卯木老人は、お洒落や遊興のために自分を財布のように利用する颯子に「イジメラレルコトヲ楽シミ」、ついには彼女を「颯子菩薩」と拝んで死んでいきます。
ある晩母の夢を見た時には、あろうことか母と義理の娘の容貌肢体を比較し、母の
よく知られているように颯子のモデルは義理の息子の妻・渡辺千萬子で、谷崎と千萬子の往復書簡に小説さながらのやりとりが残されています。
老化と病気で「男」ではなくなった谷崎が、20代の人妻で一児の母であった千萬子を見上げ、慕った思い。
それが本作にそのまま表れています。
若き日には「男と女」の関係の介在に苦労した谷崎が、老いてようやく、幼*児期以来に得られた母のように純粋なドミナが、千萬子だったのではないでしょうか。