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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

「女神の愛」第3号

現在発売中のSM雑誌:三和出版「女神の愛」第3号に、2つの文章を投稿し、掲載されました。

一つは、エムサイズのPCゲーム「超私立!女の子様学園」の感想です。

もう一つは、谷崎潤一郎の「饒太郎」論です。

ブログという発表の場があるものの、より多くの同士の方に文章を読んでいただく機会を得たいと思い、投稿しました。
このような機会を与えてくださった編集部と、掲載を快諾してくださったエムサイズのりうむさんに、深く感謝いたします。

ぜひ、ご一読ください。

別冊秘性 女神の愛 第三号 (SANWA MOOK 別冊秘性)

エムサイズさん「椅子になった勇者」の感想

今回は、同人イラスト・ゲームサークル:エムサイズさんのフリーゲーム、「椅子になった勇者」をご紹介します。

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※無料でダウンロードしてプレイできますが、残念ながら、18歳未満の方は購入できません。
エムサイズは、マゾヒズム(Mシチュ)を扱ったサークルの中でも歴史ある老舗で、足、尻、排泄物などのスクビズム諸類型を網羅する正統派にして過激派のサークルです。

フリーゲームということで本作をプレイしてみたのですが、これが本当にすばらしかった。
久々に蕩けるような性的快感を味わいました。
マゾ性器が擦り切れるくらい楽しませていただきました。
名作だと思います。

変形的なキルケ伝説

作品世界は「ドラゴンクエスト」のようなファンタジー世界です。
主人公は「勇者」という非常に幼い少年です。
勇者は魔物を退治する冒険の途中で、グレモリーゼという妖魔の棲む森に迷い込んで、椅子に変えられてしまいます。

物語のパターンとしては、ホメロスの「オデュッセイア」にある「キルケ伝説」がベースにあるのだと思います。
冒険者が迷い込んだ地で魔女によって畜生に変身させられるが、間一髪助かって脱出するというのが、「キルケ伝説」のパターンです。
泉鏡花の「高野聖」も、典型的なキルケ伝説をベースにした物語です。

しかし、本作がキルケ伝説とは下記の二点が、決定的に違います。
①主人公は脱出できない。器物として妖魔の館に置かれるまま物語は終わる。
②主人公が変えられるのは畜生ではなく、椅子という器物である。

①に関しては、マゾヒストの望む物語構成としては必然というべきもので、「家畜人ヤプー」や、谷崎潤一郎の「少年」「痴人の愛」の結末でもとられている「隷属の固定・永続」の実現という結末がとられています。

②に関しては、変身願望の典型として畜生ではなく、あえて器物を選んでいる、というのが本作の大きな特性だと思います。
まあそれがタイトルにも現れているんですが。

器物への転生

美しい妖魔に椅子という器物に変えられるというアイデアは、やはり「家畜人ヤプー」を連想させます。
「崇拝対象の腰掛ける椅子になりたい」というのは、スクビズム第一類型として、マゾヒストには非常にポピュラーな願望です。
その願望の具現化として、「家畜人ヤプー」では「肉椅子ヤプー」というアイデアが登場します。
例によって人間が人間の肉体を持ったまま、金属パイプと組み合わされて椅子にされているものです。

本作ではこれと異なり、勇者は妖魔に、魔術で肉体をそっくり木製の椅子に変えられます。
このとき、勇者の精神はそのまま、椅子の中に残されます。

これは、谷崎の「魔術師」で描かれたアイデアに近いのですが、「魔術師」では、器物に変えられた者の内心は詳らかに描かれていません。ただ、次のように描かれているのみです。

彼等の胸の中には、あなた方の夢にも知らない、無限の悦楽と歓喜とがあふみなぎって居るのです。


この「無限の悦楽と歓喜」が、本作では見事に描かれています。

器物への転生願望が、奴隷願望や畜化願望と違い特殊な味わいを持つのは、自己存在が徹底的に「手段化」されるという点です。
奴隷や家畜のように調教されたり、懲罰を受けたりする余地すら残りません。
唯一持ち主との接点は、持ち主の利便に資する、ある一つの目的のために使用されることのみです。
椅子であれば、座ってもらうこと。
では、使用されていないときはどうなるか。
当然、「モノ」ですから、しかるべき場所に置いておかれるだけです。
再びいつ使用してもらえるかもわからない器物側の不安をよそに、持ち主は器物を使用する用ができるまでは、器物が存在していることすらほとんど忘れています。
この放置されている期間の器物の、持ち主が再び使用しに来てくれることだけを唯一つの希望としてひたすらに祈り続ける切ない心理と、その反動として祈りが届いて(…というのは錯覚で、使用者はただ器物を使用する用ができただけですが)持ち主が使用しに来てくれたときの光栄と喜悦が、本作には見事に描かれています。

………来た、来てくれた…………!
また座って貰えるんだ………!! あのきれいなお尻で…………!!!


マザー・コンプレックスと幼児退行願望

椅子になった勇者は、世界とつながる感覚は、視覚、嗅覚、そして椅子として座った者の尻の感触を味わう触覚が残されています。
勇者は椅子として暗闇の中に放置されるため、見えるのは、時折椅子に座りにやってくるグレモリーゼの姿のみ、座ってくれるのはグレモリーゼだけなため、感触を味わえるのはグレモリーゼのお尻の滑らかさ、柔らかさ、暖かさのみ、勇者の嗅覚を包み込むのは、グレモリーゼのお尻のにおいのみです。
そして、コミュニケーションは、妖魔グレモリーゼとのみ、テレパシーでつながっています。

今の貴方と会話出来るのは、世界で唯一私だけなの。


つまり、椅子になった勇者にとっては、知覚できる世界のすべてが、グレモリーゼなのです。

椅子になった勇者にとってのグレモリーゼは、あたかも乳幼児にとっての母のようです。
暗闇に何十日も放置され、グレモリーゼが座りに来てくれるのを一途に待ち続ける勇者の心理は、置き去りにされ途方にくれながらも母の帰りを待ちわびる幼児の受動的心理に似ています。
そして、グレモリーゼが座りに来てくれたときに、暖かく柔らかな双球にむしゃぶりつき、むさぼるように味わう能動性は、母の乳房をしゃぶる乳児のようです。

そう、グレモリーゼ様のお尻だけが、僕の世界の全て。
グレモリーゼ様のお尻の下で悶え続けることこそ、僕の本当の使命だったのだ。
グレモリーゼ様に座って貰う事が、僕の唯一にして最大の悦び。


実母から離れ、自立した存在として世界に放り出される少年。
やがて大人になるにつれてやっかいな、重苦しい「使命」や「責任」を課され、気づくと美しかった母は老いていきます。
少年が妖魔に器物に転生させられるというのは、男が若き日の母のように美しい女を新たな母に見たて、それまでに積み上げてきた人生をすべて捨て、女によって新しく生まれ直したいという願望の現われのように見えます。

すべての男にとって最初の絶対者である母に対するコプレックスと幼児退行願望が、マゾヒズムの快楽の根源に大きくかかわっていることがうかがえる作品です。

このようなすばらしい作品を制作してくださり、フリーで配布してくださったエムサイズさんに敬意を表し、感謝したいと思います。
まだダウンロードできますので、ご興味がおありの方はぜひプレイしてみてください。

青春の思い出

昨年の秋以来、長期間まともに記事をかけませんでしたが、最近また少し時間に余裕ができましたので、更新を再開しました。
同士の皆様には、今後とも気長にお付き合いいただけると幸いです。

さて今回は、なぜかふと思い出した、青春時代のあるマゾ体験(というほどのものではないかもしれませんが、私にとっては大変な体験でした)の思い出を書きたいと思います。

私が初めて「家畜人ヤプー」と「ある夢想家の手帖から」を読んだのは、高校生のときでした。
読んだ直後は、「白人崇拝」や「汚物愛好」にかなり抵抗感を感じたのですが、次第に妄想は白人崇拝へと傾斜していきました。
「ヤプー」と「手帖」の該当箇所、それに谷崎の「肉塊」「アヱ゛・マリア」「小僧の夢」「痴人の愛」などを読んでは妄想を膨らませ、ギリシア神話の女神たちの美を崇め、ツルゲーネフやゾラの小説に現れる令嬢貴婦人の高貴に憧れました。
絵画や映画や写真の中の、白い肌をまとったのびやかな四肢を慕い、昼夜を問わず猿のように自慰に耽りました。
妄想をするたび、自慰をするたびに「脳を白く染め抜かれていく」感じ。
酔いしれるような快楽の日々。
耽美=「美に耽ける」、まさにそんな青春でした。

さて、体験というのは私の通っていた大学での話です。
私はある英国人の男性講師の英語の授業を受講していました。
年齢は30歳前後で、容姿は白人男性としては十人並みでしたが、近くでお話しすると青い眼と上品な香水の香りが印象的な方で、左手の薬指にはさりげなくリングをはめていました。
その先生の授業は分かり安く楽しかったので、私はいつも一番前に陣取って授業を聞いていました。
先生の授業は基本的に終始英語で行われるのですが、英語で表現しきれないときは片言の日本語を使ってくれました。
ある日の授業で、先生はこんなことを言ったんです。

"toilet"は「便器」という意味になるんですね。「トイレに行く」と言いたいときは"bathroom"を使ってください。

これだけです。
これを聴いた瞬間、脳から脊髄に電流が走り、キューンと胸が痛くなり、頭は真っ白、全身にゾクゾクと快感が広がりました。
最初自分でも何が起こったのかわかりませんでしたが、次の瞬間には、先生の上品なスラックスと、ベルトの銀金具のあたりを貪るように凝視し、今先生の体に収まっているもの、やがて先生の体から出されるものについて考え、うっとりと陶酔している自分に気がつきました。
そのころ私の中で芽生え、激しく煮えたぎりながらも懸命に抑圧していた「白人崇拝」と「汚物愛好」。
これが先生の一言で放電スパークを起こし、爆発的に発露してしまったのです。
授業が終わるまでの間、激しい動悸は治まらず、最後には呼吸が苦しくなりました。
授業が終わると、いつもは必ず質問に行っていたのに、その日は机に張り付いたままピクリともせず先生を嘗め回すように凝視している私に、先生は軽く微笑みかけて教室を出て行きました。
私はしばらくその場を離れることができませんでした。
射精こそしませんでしたが、下着はひどく濡れていました。

「先生の便器になりたい」
「どうすれば先生の排泄物を口にすることができるのか」

それ以来数ヶ月、寝ても覚めてもそんなことばかり考え、自慰を繰り返しました。
先生を前にすると、先生に見惚れ、先生の匂い嗅ぐのに一生懸命になり、頭脳は卑しい妄想に痺れきってしまうので、授業の内容はまったく頭に入らなくなりました。
授業はレコーダーで録音し、何度も何度も繰り返し聴きました。
授業が終わると、決死の思いで質問に行き、呼吸も困難な激しい動悸のまま、うわずった声で質問しました。
先生が教室を出ると、こっそり先生のあとをつけました。
先生が図書館で調べ物をしていれば、勉強をしているふりをして何時間でも先生を盗み見ていました。
先生が学食に行けば、先生が食べている姿をうっとりと見ながら、自分も先生と同じものを注文し、「今自分は先生と同じものを食べている。しかしそれは同じ種類の料理を食べているだけだ。今先生の皿に盛られているものが、先生の体を通った上で、今度は俺の皿に盛られたとしたら、どんなに幸福だろうか」なんてことを考えました。
先生が学内の移動のために使っている自転車のサドルを恭しく撫でたこともありましたし、先生の自転車になった気分を味わうために、先生の自転車の脇の地べたに正座してみたこともあります。
そのときはあまりにも昂ぶってしまって、「先生が来たら、"I want to be your bike. If you don't mind, please ride on me today."なんて、ジョークを装って言ってみよう」「先生は俺と自転車を見比べて、"Umm...you can be my stool but..can you take me to the library faster than my bike?"なんておっしゃるかしら」などと考えてしまい、ハッと我に返るまで、3時間くらい先生の自転車の脇に正座して、一生懸命に台詞の発音練習をしながら先生を待っていました。
幸か不幸か先生は現れませんでしたが。

録音した先生の授業をヘッドフォンで聴きながら自慰をしているうちに、どうしてもまた、私をこんなにも変えてしまった魔法の呪文のような先生のあの言葉が、どうしても聴きたくなりました。
ある日私は、「英米日の生活習慣の違い」をテーマに、わざと"toilet"を大量に誤用した英作文を作り、授業の後先生に質問に行きました。
作戦はうまくいきました。
先生はもう一度、あの言葉を言ってくれたのです。
「ペンキ」のように「キ」にアクセントを置いた独特の魅惑的チャーミングな発音の「便器」。
最初に聴いたときよりも、体がすんなりと刺激を受け取った感じがして、さざなみのような快感が全身に広がりました。
こっそりレコーダーに録音することもできました。
それからは、録音した先生の「便器」を聴きながら、毎日昼夜を問わずの夢のような快楽をむさぼりました。
ヘッドフォンをつけていなくても、頭の中で先生の「便器」が鳴り続けるようになるまで、さほど時間はかかりませんでした。

先生の発する「便器」という言葉は、私の妄想の中でいろいろな意味を持ちました。

あるときは英国式魔術を操る先生の魔法の呪文でした。
先生が「便器」と唱えると、私はいつ何時でも、否応なく先生の便器に変えられてしまうのです。

またあるときは、先生が私の願望を知ってしまい、先生が私に軽蔑と嫌悪を込めて私を罵倒する言葉になりました。そういうとき先生は、土下座して懇願する私の願いをかなえる代わりに、「便器」とはき捨てて、つばを吐きかけました。

先生が私の願望を知った場合、願いをかなえないまでも、侮蔑とともに哀れみを催すことも考えられました。そういうとき先生の「便器」という言葉は、私のあだ名になりました。「白乃さん」と呼んでいたのが、「便器」となるのです。先生が私に声をかけるときも「便器」、他人に紹介するときも"This is "benki" means my toilet."となるのです。

先生の「便器」という言葉が、私への略式の命令になることもありました。
先生は"Be my toilet now"とか、"Eat"とか"Drink"と言う代わりに、私に対しては「便器」と命じるのです。
こういうとき先生の「便器」は、アングロ・サクソン人らしい厳しさをもって響きました。

あるいは、先生が私を奴隷ではなく本当に器物だと認識している場合には、先生の「便器」という言葉は、「命令」ではなくたんなる「合図」になりました。
先生はもよおしたとき、トイレに立つ代わりに、リモコンを操作するような感覚で「便器」とつぶやくのです。そうすると始終先生に侍っている私が便器になる。
先生はいつ、どこで何をしていても、用を足すことができるようになります。
私は先生の日に何度か下されるこの合図を、常に全身全霊を研ぎ澄まして待ち続けるのです。
このとき、先生の「便器」という言葉はいよいよ切ないありがたみを持って響きました。

先生が、私を自由人として尊重しつつ、私の願望をかなえるパターンもありました。
先生はもよおしたとき、いちいち私の都合と意思を確認するのです。
このとき先生の「便器」という言葉は、私への略式の「申し入れ」でした。
私が"Yes, my lord!"と答えた時点で、契約が成立し、すぐさま履行されるのです。
最初は"Do you want to be my toilet now?"とか、"Would you like to eat?"とか、"Are you thirsty?"と言っていたのですが、いついかなるときでも私が申し入れを断ることはおろか、逡巡する可能性もまったくないがわかってくると、だんだん申し入れを簡略化し、ついに「便器?」"Yes, my lord"で非常に形式的に契約が成立するようになったのです。
先生の白いお尻に魅惑されている私が、申し入れを断ることなど絶対にできないことを分かっていながら、必ず私の「自発的意思」を確認することで、先生は毎回私の精神を陵辱してくれたのです。
このときの先生の言葉は、自分の体内でつくりだされるもので自由人を誘い出し、一瞬で器物にまで堕とす悪魔的な魅惑を持って響きました。

この契約妄想はさらに次のような形にまで発展しました。
先生はデスクに腰掛けて、メモを手にしながら「便器?」とつぶやきます。
足元にひざまずいていた私はすぐさま"Yes, my lord"と答えます。
先生はメモに何かを走り書きし、私に渡します。
私は恭しくそれを受け取り、内容を読んで先生に返します。
先生はメモをゴミ箱に捨て、私はメモの内容の実行に取り掛かります。
このときの先生の「便器?」という言葉は、「このメモに書いてあることを実行してくれないか。報酬として(後でもよおしたとき)自分のものを与える」という申し入れを簡略化したものです。
「徳禽獣におよぶ」先生は、あくまで私を「奴隷スレイブ」「召使サーバント」ではなく、自由人として扱います。
私に雑務をさせるときも、「命令」ではなく、私の自発的意思による「契約」を利用します。
最初は事前にメモの内容を私に見せてからきちんと申し入れをしていたのですが、私がいかなる内容でも必ず喜んで承諾することが分かると、だんだん申し入れも簡略化され、メモも、契約成立後に書くようになりました。
私が承諾をした時点で契約は成立しています。
メモの内容の履行義務は先生がメモを書いた時点から発生します。
私が先生にメモを返したのは、メモに書かれた内容の履行義務は無期限に私を拘束するので、証拠として持っておいてもらうためと、メモの効力に期限を設けていないため、先生はいつ何時でもメモに追記する権利を持っているからです。先生がメモに追記をしたら、先生がそれを私に通知しようがしまいが、私はその時点で新たに即時履行義務を負うことになります。
しかし先生としては、また用事ができれば新たな契約をすればいいだけなので、メモは捨ててしまったのです。報酬の提供期限は設けられていませんので、先生としては、いつでも一度、私の中に排泄すれば、それまでの契約で負った義務は全て綺麗に清算できるわけです。

先生に関する妄想の思い出はまだいろいろありますが、きりがないのでこの辺にしておきます。
はたしてあれは恋だったのでしょうか。
しばらく眠らせていた記憶ですが、切ない思い出です。

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