『神童』の二次創作
登場人物
瀬川春之助…十五歳。(旧制)中学校四年生。「神童」と呼ばれる秀才。経済的事情のため、井上邸に令嬢鈴子、子息玄一の家庭教師として住み込んでいるが、実態は奉公人のように扱われている。
井上鈴子…十六歳。女学校の二年生。井上家の令嬢で、お町夫人の子。
残暑の厳しい秋の午後であった。
春之助は彼にあてがわれている六畳の間に寝転んで何か熱心に読んでいた。
「瀬川さん、何を読んでいらっしゃるの?」
声をかけるが早いか、鈴子がずかずかと部屋に入ってきた。白地に夏の花をあしらった浴衣を着て、両手にはガラス製の西洋皿を二つ持っていた。
「やあ、鈴子さん」
春之助は慌てて読んでいた本を閉じて、本棚に戻した。
「そんなに慌てて隠さなくってもよくってよ。どうせ私には分からないような難しい御本なのでしょうから」
鈴子は春之助の狼狽を嘲るようにこんな皮肉を言った。
このところ鈴子からは、以前のような春之助に対する尊敬の情は微塵も感じられなくなっていて、まったく馬鹿にしきっているようであった。春之助は、その原因が自分のほうにあることをよく理解していた。
今や春之助は、夫人のお町や令嬢の鈴子を以前のように、その無学ゆえに心密かにさげすむことはできなくなっていた。むしろ彼らのなまめかしい肌や、みずみずと伸びた手足や、夕顔のように涼やかな容貌を見せられるたびに、自分のようなみすぼらしいぼろ書生が、この天女のような人々と一つ屋根の下に暮らしている光栄を思わないではいられなかった。最近では、居間や主人一家の居室があるこの家の二階が、雲の上の天国のように感じられ、足音や笑い声が聞こえるたびに、どきりとして耳を澄ませていた。
春之助のそのような卑屈な気持ちは、鈴子を前にしたときの態度に、最も顕著に出現した。どうしても以前のように堂々と直視することができず、常に目を伏せて、そのくせ手やら、足やら、首筋やらを盗むようにちらちらと見るのである。鈴子は、その博学に感服し尊敬していた春之助の態度がそのように変化したことに、幻滅と軽蔑を感じるとともに、少なからず満足と愉快を覚えたようであった。
鈴子は弟と机を並べて春之助の前で学校のおさらいを全くしなくなった代わりに、たびたび春之助の部屋に闖入しては、ちょっかいをだして小一時間遊んでいくようになった。春之助が玄一に授業をしていようが、熱心に勉強していようが一向に構わなかったが、春之助から小言一つ言われたことはなかった。
鈴子は次第に増長して勝手に本棚を漁ったりした。最近春之助の読書傾向が怪しからぬ方向へ変わってきているのにも、どうやら気づいているらしかった。
また、わざとらしく足袋を脱いでみたり、足を蚊に刺されたといって見せ付けたりして、春之助の怯えた子犬のような態度と、瞳の奥の燃えるような輝きを観察して楽しんだ。
またあるときは、湯上りの体を春之助に団扇で扇がせた。このときは気に入りの香油をいつもより余計に髪に含ませていたらしく、その効果を、春之助の酔うような表情で確認したようだった。
春之助は鈴子が少しずつ自分の自尊心に攻撃を加えて楽しんでいるのが分かっていたが、全くそれを防御しようとしなかった。しかし一方で、傷ついた自尊心を自ら放り出して、鈴子の足元に身を投げ出してひれ伏してしまう勇気もまた、持ち合わせていなかった。
「今日はね、瀬川さん。たいそう暑いものだから、御三時にアイスクリームをいただいたのよ。私、瀬川さんにも食べていただこうと思って、少し残して、こうして持ってきたの。ほら、母さんも少し残していたから、それも持ってきたわ」
春之助は血が逆流したのではないかと思うくらいにときめいた。
鈴子が持っていた二つの西洋皿には、食べかけのアイスクリームがひとすくいばかり入っていて、匙が添えられていた。象牙細工のような鈴子の手に支えられた器の透明な輝きと、銀匙の光沢と、なによりねっとりとした白い固まりのなまめかしさが、春之助を魅した。
このところ、春之助は、お町の食べ残しを施される機会が減ったことを悲しく思っていた。お町に小遣いをもらうよりも、食べ残しを施されることをより強く望むようになっていた。どうかすると、お町を目にするたびに、かつて貪った、茶碗蒸しだの、鰻の蒲焼だの、パイナップルといった「奥様の残り物」の味がよみがえった。夫婦の食事の下げ膳が台所に運ばれる時分になると、そわそわして台所の様子を伺っていたりしていた。春之助は、そんな気持ちがお町に通じまいかと祈るように念じたが、まさかそれが鈴子に通じるとは思ってもみなかった。
思えば、春之助に最初に施された「奥様の残り物」が、アイスクリームであったが、あのとき口にしたアイスクリームの衝撃的な甘みが、尊大で傲慢だった春之助の心を、少しずつ蕩かしていったように思われた。いや、もっと正確には、春之助の心をとろかしたのは、アイスクリームの甘みというよりも、そこにわずかばかり付着していたお町の唾液の甘みであっただろうということを、春之助は認めないわけにはいかなかった。
「さあ、これは母さんの食べ残しよ。召し上がれ。」
鈴子は春之助と差し向かいに座り、二つの器を畳の上に置いて、何を思ったか、自ら銀匙で中身をすくい、春之助の口の前に突き出した。
春之助は息を飲んで、目の前に突き出された白い固まりを見つめた。その滑らかな光沢は、嫌でもお町の瑠璃のような肌を連想させた。そのむこうでは、鈴子が小首をかしげ、愉快そうに目を輝かせていた。鈴子はどういうわけか今日に限って、お町の気に入りの、梅花の香油を髪に含ませているようであった。
なるほど鈴子は今日、わずかに残った俺の尊厳を完全に踏み潰しに来たのだな、と春之助は思い、断崖絶壁に立ったような気になったが、不思議と恐怖感はなかった。春之助は口を開き、吸い寄せられるようにして、銀匙を咥えた。
なつかしい甘みが口に広がり、全身が蕩けていくような快感が春之助を包んだ。あごが上がり、酔うように目を細めた春之助をみて、鈴子は我慢しきれずに吹き出してしまった。
「うふふふふ。とってもおいしいでしょう」
春之助は鈴子が銀匙を口から引き抜いたときの感触にさえ、快感を覚えた。
「これは私の食べかけよ」
もう一つの器からも、鈴子は同じように中身をすくって春之助の口の前に突き出した。
春之助は依然快楽に酔った阿呆のような表情のまま、口を開いて銀匙を咥えた。
再び甘みが全身に広がっていくにつれ、春之助は、今まで自分の体を支配していたお町の唾液に代わって、鈴子の唾液に全身が占領されていくのを感じた。これも鈴子の意図した通りなのだろうかと思うと、自分の意思よりも、鈴子の意思によって体が反応しているのが面白かった。
春之助はあざとくも、また鈴子が銀匙を引き抜くときの感触を楽しもうと期待した。
すると、その心を読んだかのように、鈴子は春之助の目を覗き込んだまま、ゆっくりと銀匙を引いた。春之助は全神経を舌と唇に集中させて銀匙に吸い付かせ、摩擦の快感を貪った。
と、唇から銀匙の丸い先端部が半分ほど覗いたところで、鈴子はぴたりと手の動きを止めた。そして、銀匙を再びゆっくりと口の中に差し込んでいった。うっとりと目を細めていた春之助は驚いて目を見開き、鈴子の表情を窺ったが、鈴子は相変わらず愉快そうにその反応を観察している。銀匙でrapeされるのだと知り、春之助は今更恐ろしくなったが、ゆっくりと挿入される銀匙が、唇と舌を摩擦する快感に、再びとろんと蕩けるような表情に戻ってしまった。
銀匙が三度春之助の口の中を往復し、四度目にゆっくりと挿入されているとき、春之助はついにejaculateしてしまった。鈴子は自分の微量の唾液と僅かな手の動きが少年に性的満足を与えたことを確認したようだが、なおも手の動きを止めなかった。春之助は必死に銀匙を咥えていたが、体に力が入らないらしく、頭がふらふらとぶれてしまっていた。
鈴子は春之助の前頭部に左手を置き、指に髪を絡めて掴み、頭を固定してやった。春之助は赤子が母を慕うように、鈴子の顔を見上げた。鈴子は春之助の瞳にいったん静まった浅ましい情欲の光が再び灯るのを認めた。それは、左手の指に力を加えるほど、輝きを増すようだった。
鈴子はふと、今自分の掌中にあるこの頭脳に、計り知れない学識が詰まっていることを思った。その頭脳が今は、自分の両手から与えられる刺激を貪ることに駆使されていることを思うと、愉快でたまらなかった。
その後、鈴子は春之助が四回目の絶頂に至ったのを確認すると、ようやく春之助を解放し、部屋を出て行った。その間に春之助は、鈴子が持ったまま動かさない銀匙を咥えて自ら頭を動かして出し入れさせられたり、引き抜かれた銀匙を犬のように舐めさせられたり、床に置かれた器を舐めさせられたり、さんざん卑猥な芸を覚え込まされた。
春之助は鈴子が出て行った後も、呼吸が落ち着くと、圧倒的な快楽の余韻に飲み込まれるように、置いていかれた銀匙や西洋皿を、いつまでもいつまでも狂ったように舐っていた。
『無明と愛染』の二次創作
沼正三『ある夢想家の手帖から』第三章「愛の馬東西談」で紹介されている「アリストテレスの馬」をfeatureしています。
時 南北朝の頃
所 ある山奥の廃寺
舞台暗闇。突然、酔いしれたような若い女の高笑いが響く。
愛染の声 あはははは、これ、太郎どの、御山の
舞台明るくなる。古びた寺の本堂の奥の間。中央に
上人 (四十前後の痩せた僧侶)が両手両膝をついて四つん這いになっている。その背中に、色香のなまめかしい愛染 (三十路過ぎの遊女。無明 の太郎の愛人)が、上臈が着るような美しい着物を着て、腰をかけている。
愛染 太郎どの、奥の間へ来て見てやらぬか。あの法師
奥から襖を開き、無明の太郎(名高い山賊、髭をぼうぼう生やした、体つきの逞しい男)、続いて楓(太郎の妻、哀れなみすぼらしい姿)が入ってくる。様子を見て、太郎はあっけにとられる。楓は情けない声を上げてその場に泣き崩れる。
太郎 これは、いったいどうしたことだ。
愛染 どうもこうも見てのとおりじゃ。
上人 はい、私は、今は愛染
太郎 上人、おぬしは、御山で教えを極めて、本物の法力を備えた聖であろうが。いかに迷うて、今更女の馬に何ぞなり下ごうたんじゃ。
愛染 (上人の背中に腰掛けたまま)ほれ、馬畜生、どうした。太郎どのに教えて進ぜよ。
上人 はい、私は、俗世にいる頃、やんごとなき姫君でいらっしった愛染明王に懸想し、毎日毎日恋文を書きましたが全て袖にされ、全てを忘れるために高野の御山に参りました。そこで修行に修行を重ね、ついに法力を会得し、一乗院の住職になったのでございます。しかし、心の中でいつも拝んでいたのは、神々しい愛染明王のお姿でした。そこな観世音の像も、愛染明王を懐かしみ、愛染明王のお姿に似せて造ったのでございます。今日この古寺の門を叩いたのも、きっと偶然ではなく、私が愛染明王を慕う気持ちが、自然にここに足を向けさせたんでしょう。私は愛染明王を一目見たときから、すぐに足元に身を投げ出して拝んでしまいたいと思うのを一生懸命に我慢していましたが、こうして奥の間で愛染明王と二人になると、もはや我慢はできず、愛染明王、愛染明王、どうか迷える私を導いてくださいと、這い蹲ってお願いをしたのでございます。すると、愛染明王は私に四つ這いになるよう命ぜられたのでございます。私はすぐさま四つ這いになりました。愛染明王は私の背に腰を掛られました。愛染明王の体が私の背に乗って、暖かい重みを感じたとき、私は悟ったのでございます。これこそ
愛染 あはははは、そういうことじゃ、太郎どの。妾は此奴の仏になったのじゃ。私が命を解いて、次の命令をするまで、此奴は永久でもここに四つ這っているのじゃ。太郎どのも此奴の背に乗るのじゃ。此奴は人の尻に教えを請い、背で悟りを開く畜生法師じゃ。そなたも、此奴に教えを施してやるのじゃ。
上人 太郎どの、どうか、この畜生の背に乗ってくだされ。今、愛染明王が太郎どのに私の背に乗れといった、そのときからもう、私の背は太郎どのに乗ってもらわずにはいられないのでございます。
太郎 あはははは。よくわかった、気狂い上人。おれもおまえに教えを説いてやろう。どうじゃ。
太郎、上人の背を跨いで乗る。愛染、満足そうに太郎に凭れ掛る。
愛染 太郎どの、明晩にも此奴を高野の御山に行かせて、此奴が住職をしている寺から金目のものを全部持ってこさせよう。それから、家にいるときは、此奴を召使にして楓の手伝いをさせよう。それから、あんたが仕事をするときは、此奴を子分にするといい。
太郎 ふん、そりゃいいが、此奴に殺しや盗みの手伝いができるのかい。
愛染 どうなんだい、畜生。
上人 はい、世の中でなにが正しいとされているか、なにが邪悪とされているかなどということは、もう私には関係ありません。私は愛染明王に帰依したのでございます。愛染明王が、私の仏になったのでございます。私の経典は愛染明王のことばでございます。愛染明王が命ずること、愛染明王が思うこと、愛染明王が欲すること、これが私にとっての正しいことでございます。ゆめゆめ、その是非を逡巡するなどという畏れ多いことは思いません。私は意思も、迷いも、拘りも、誇りも、全て捨てたのでございます。いいえ、捨てたと申しますよりも、先ほど背に愛染明王を乗せたときに、すぅと、何の苦もなく、それらのものが消えていったのでございます。これこそ、涅槃でございましょう。私にとって八正道とは、愛染明王の道でございます。正しく見るとは、愛染明王の仰せの是非に一切の疑いを挟まない盲目でございます。正しく思うとは、常に愛染明王を恋い慕い、伏して敬う崇拝でございます。正しく語るとは、愛染明王に求められざるときには声も上げられぬ
愛染 あはははは。そういうことじゃ。太郎どの、今宵は勝利の祝杯じゃ。この世に生きながらにして仏になった祝いじゃ。あはははは。畜生、進め、囲炉裏まで連れて行くのじゃ。
太郎、愛染の肩を抱き、愛染に激しい口づけをする。上人は四つ這って背中に二人を乗せたまま、襖の奥へと這って進んでいく。残された楓、泣き崩れたまま叫ぶ。
楓 神も仏もない時代じゃ。この世はあさましい鬼の棲み家じゃ。
『鶯姫』の二次創作
沼正三『ある夢想課の手帖から』第三章「愛の馬東西談」で紹介されている「アリストテレスの馬」をfeatureしています。
大伴老人が、テニスコートのベンチに腰掛けている。そこへ、壬生野春子(子爵令嬢、十四五の美少女、純白のブラウスに紺のスカートの洋装)が現れ、隣に腰掛ける。
壬生野春子 先生、お待たせしたかしら。
老人 いいや、しかし、少し早く来てしまったんだよ。
壬生野春子 今日は、テニスクラブの練習がお休みだから、先生と二人っきりでお話がしたくてお呼び出しをしたのよ。でもだいぶ約束の時間に遅れてしまったわ。先生はどれくらい早くにいらしてたの。
老人 いや、実は、君から呼び出されたんで、ついうれしくて、いてもたってもいられなくて、一時間も前に来てしまったんだよ。
壬生野春子 うふふふふふ。先生は私のことが好きなのね。
老人 いや、好きというんじゃないが…、なんというかその、君はなんとなく、名前といい、顔つきといい、物腰といい、私が憧れている平安朝のお姫様を思わせるところがあって、教場にいても、たまにうっとりと見惚れてしまうことがある。私は君が私に挨拶をしてくれるのが毎日楽しみでならない。たまに話かけてくれたりすると、なんだかありがたいような、もったいないような気がして有頂天になってしまう。あるいは君が鈴木さんたちと一緒になって、私を小突いたり、転ばせたりしてからかってくれたときも、同じような気持ちになってしまうんだ。もうそんなときは、その日一日中君の顔やら声やらが頭を離れず、授業をしていても上の空になってしまう。
壬生野春子 うふふふふふ。先生はやっぱりそんな風に私を想っていらしたのね。
老人 ああ、私も教師としてはいかんいかん、と思うんだが、君に対しては、生徒というよりも、昔の庶民が殿上のお姫様を仰ぎ見るような気持ちしか、どうしても持てないんだよ。いまもこうして、教師が生徒に対するよな口を利いているのが、ふさわしくないような、申し訳ないような気持ちがしている。どうか、気を悪くしたり、怖がったりしないでほしい。耄碌した老人の戯言だと思ってくれたまえ。
壬生野春子 いいえ、私ちっとも怖かなんかないし、悪く思ってなんていなくってよ。私、先生を見ていると、十二のときに亡くなった、じいやの事を思い出すわ。私の生まれる前から内に仕えてた人でね、「春子様春子様」といって、とってもかわいがってくれたのよ。
老人 君の内は、今は子爵様だけれども、昔は本物の御公家様だったんだろうねぇ。
壬生野春子 ええそうよ。じいやはそのころから内に仕えていた人だから、私がどんな我儘をいっても、「へぇ、へぇ」なんていって畏まっていたわ。
老人 なんだか、その方の気持ちが、よくわかるような気がするな。
壬生野春子 じいやとは、いろんなことをして遊んだわ。じいやに目隠しをして、鬼ごっこをしたり、じいやの背中に乗って、お馬さんごっこをしたり、じいやは読み書きができたけど、難しい字は読めなかったから、私が御本を読んであげたりもしたわ。じいやはそれが大好きで、自分で御本を持ってきて、「春子様春子様」って言って、ねだったりしたわ。はぁ、なんだか私、じいやが懐かしくなってしまったわ。ねえ先生、今日は先生がじいやの代わりになってくださらない?
老人 ああ、私でよければ、よろこんでその方の代わりになろう。
壬生野春子 それでは、先生、お馬さんになって、私を背中に乗せてちょうだいな。
老人 しかし、ここでしては、誰かに見られると具合が悪いだろう。
壬生野春子 誰も来やしないわ。テニスクラブがお休みのときは、ここへは誰も来ないのよ。ね、先生、お馬になってくださるわね?
老人 しかしだね…
壬生野春子 先生、怖がることはないわ。私、お馬には優しくしてあげるんだから。さ、はやくはやく。膝をついて、四つん這いになってごらんなさいな。
老人 よし、それではやくお乗り。しかし、だれにも喋っちゃいかんよ。
老人、両手両膝をついて四つん這いになる。春子、老人の背中にふわりと横乗りに乗る。
壬生野春子 さぁ、お進みなさい。そうそう。コートを一周してごらんなさい。そうよ、いい調子よ。もっと速度をあげて。おほほほほほ。先生、お上手よ。
老人、春子を乗せてテニスコートを一周する。その間に、木陰から鈴木道子、木村常子、中川文子(以上三人、春子より少し年長の友人、袴姿の和装)が現れて、ベンチのところで待っている。道子は手に縄跳びを、常子は小さな座布団を持っている。老人が春子を乗せたまま到着すると、三人の少女は得意そうににやにや笑いながら騎馬を取り囲む。
鈴木道子 先生、なんて格好ですの。いくら壬生野さんがお気に入りだからって、背中にお乗せするなんて、少し贔屓のし過ぎじゃありませんこと?
老人 はぁ、はぁ、これは、その…、はぁ、はぁ。
鈴木道子 おほほほほほ。おかしいこと。一生懸命走りすぎたのね。先生、先生には悪いんだけれども、今日は私たちまた、先生を騙して徒をしたのよ。先生は壬生野さんの言うことなら何でも聞くみたいだけど、本当にどこまでやって見せるのか、試してみようと思ったの。そしたら壬生野さんは、「先生を四つん這いにして背中に乗って見せる、みなさんも一緒に乗せてあげる」なんておっしゃるので、本当にそんなことをなさるのか、壬生野さんに先生を呼び出してもらって、私たちはそこの木陰から様子を見ていたのよ。木村さんが調子に乗って、こうして手綱と鞍も持ってきたのだけれど、でも、本当にお馬さんになるなんて思わなかったわ。中川さんなんて、「先生はきっとそんなことをなさる方じゃないわ」って、憤慨してらしたのよ。
中川文子 先生、私、先生のことがよくわかりましたわ。教壇に立っていらっしゃるときよりも、今のほうがいきいきしていらっしゃるんですもの。
壬生野春子 (老人の背中に腰掛けたまま)先生は、きっと贔屓なんてなさらないから、みなさんのことも一緒に背中に乗っけてくださるわ。そうですわね、先生。
老人 ああ、ああ。みなさんでお乗りなさい。その代わり、駄馬なんだから二人づつしか乗らないよ。
少女一同 おほほほほほ。
中川文子 ああおかしい。でも、先生は壬生野さんのお馬なんだから、私たちが乗るにしても、壬生野さんと一緒に乗ってあげなきゃ悪いわ。
木村常子 それじゃあほら、これはお姫様専用の鞍よ。
常子、座布団を老人の背中に乗せる。春子、その上にふわりと座りなおす。
鈴木道子 私が最初に乗らせてもらいますわ。
道子、老人の背中に、春子の後ろに横乗りで乗る。春子より少し乱暴な乗り方。
鈴木道子 これは手綱よ。口にくわえるのよ。
道子、縄跳びの両端を持って、老人の顔に引っ掛けるように投げる。老人、縄をくわえる。
鈴木道子 さあ、お進み。もう一周よ。そうら、もっとはやく。
。老人、今度は二人の少女を乗せて、テニスコートを一周する。ベンチのところへ戻ってくると、今度は常子が道子に変わって春子の後ろに乗る。また一周して戻ってくる。すると、常子と入れ替わって文子が乗る
中川文子 大丈夫かしら、先生は、疲れて息が上がってしまってるんじゃないかしら。
壬生野春子 だいじょうぶよ、中川さん。先生はお優しい中川さんをお乗せすることができて、喜んでいらっしゃるわ。その証拠にほら、手綱をしっかりとくわえていらっしゃるでしょう。
中川文子 まあ、いじらしいこと。
少女一同 おほほほほほ。
老人、二人の少女を乗せて、さらにテニスコートを一周する。ベンチのところへ戻ってくると、三人の少女はベンチにかけて待っている。
鈴木道子 壬生野さん、私を、アンコールでもう一度乗せてくださらない?私、今度は運動場の方へも周ってみたいわ。
壬生野春子 (老人の背中の座布団に腰掛けたまま)ええ、もちろん結構よ。
道子、文子に代わって老人の背中に乗る。老人、息が上がったのか、くわえていた縄を放してしまう。下に落ちた縄をすぐにくわえなおそうと、頭を下げようとするが、その前に、道子が上手に老人の鼻に縄を引っ掛け、ぐん、とひっぱる。老人、操り人形のようにかくん、と上向いてしまい、口が大開になる。道子、そのまま手綱をぴんと張らせて老人の顔を固定する。
鈴木道子 先生、誰が手綱を放しいていいと申しましたの。
老人 (少し口をぱくぱくさせ、ようやく声を振り絞る)はぁ、はぁ、す、すまない…うっかり手綱を落としてしまったんだ。どうか赦してくれ。どうか、もうしばらく、私の背中に乗っていてくれ。みんな一周りづつしてしまったんで、もう飽きてしまって、君たちが帰ってしまうんじゃないかと少しさみしかったんだ。鈴木さんがアンコールだって言ってくれたんで、うれしくって、はりきってしまったんだよ。どうか赦してくれ。お詫びに学校中を乗り回してくれてもいい。
鈴木道子 おほほほほほ。ええ、では、飽きるまで乗り回してあげますわ。
壬生野春子 (老人の背中の座布団に腰掛けたまま、老人はなおも手綱で顔を固定されている)先生、お口が利けるうちにお伺いしておきますわ。先生はもっともっと、こうして私たちに、背中に乗っていてほしいんですね?
老人 ああ、君たちさえよければ、またこうして馬になりって、君たちを背中に乗せてやりたい。
壬生野春子 それでは、これからもたまにお馬にしてあげますけど、私が頼まなくても、鈴木さんや、木村さんや、中川さんの誰かがお馬になれといったら、すぐにお馬になるんですよ。
老人 ああ、もちろんだよ。
壬生野春子 この手綱と鞍は、先生にお預けしておきますから、持っておいて、馬になるときは忘れずに持ってきてくださいね。
老人 ああ、大切に持っておくよ。それに、乗馬鞭は私が用意しておこう。
壬生野春子 それから、これからは、私たちの召使になって、なんでも言うことをきいてくださいます?
老人 ああ、君たちの言うことなら何でもきく。手をついて挨拶しろといえばする。地面に額を擦りつけろといわれればする。私にとって君たちはもう、それくらい怖ろしくて偉い存在になってしまったんだよ。
木村常子 先生、私たちの言いつけも、壬生野さんの言いつけと同じ様にきくんですよ。
中川文子 みくびって無礼をしたり、言いつけに逆らったりしたら、すぐに壬生野さんに告げ口してきつく躾けてもらうんですからね。
老人 ああ、そんな怖ろしいことにならんよう、気をつけるよ…
少女一同 おほほほほほほ。
鈴木道子 ではさっそく、学校を一周りしていただきましょう。
道子、手綱を少し緩めて老人にくわえさせる。老人、二人の少女を乗せてすぐさま進みだす。木村常子、中川文子、ベンチから立ち上がり、騎馬のあとを追う。そのまま一同下手に下がっていく。
春子、まるで観客席に語りかけるように、独り言をつぶやく。
壬生野春子 どう?私の恐ろしいことが分って?