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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎序論(3)―『嘆きの門』論~華族様の恋

  ―理想と現実―

序論(1)、(2)で紹介した『創造』『女人神聖』で扱われていた、「美しい他人の子を養育する」というテーマは、さらに、ほぼ同時期の未完の中篇『嘆きの門』においても扱われています。
この時期の谷崎潤一郎が、この異常な願望にいかに強く取り付かれていたかがうかがえます。

谷崎の基本哲学は、美しい者を上位に、醜い者を下位に置くいわば「美尊醜卑」の世界観です。
美しい者はこの世の貴族であり、何不自由なく遊んで暮らすべき存在です。しかし、現実は、必ずしも「美尊醜卑」の秩序だけで成り立ってはいません。
その美しさに見合わぬ境遇に堕ちてしまっている少年少女がたくさんいます。そのうちに美しかった少年少女も、いつしか境遇に負けてやつれ、年老い、美しさを失っていきます。
神聖冒涜ともいうべき状況です。自らの財産を彼らに捧げ、彼らにふさわしい境遇に上昇させたい。
その方が、醜い自分や自分の肉親が幸せになることよりも、ずうっと有意義なのではないか。このような考えが、谷崎にはあったはずです。

本当に恐ろしく異常な考えですが、「美」の尊さの前に、富や権力、道徳や人の尊厳、あるいは家族愛といった価値を跪かせる谷崎の哲学をよく反映したしたものと言えます。
その事がさらによくわかる『嘆きの門』を紹介して、序論を閉めたいと思います。

 ―「華族様」と呼ばれたウェイター―

『嘆きの門』の主人公は、銀座のカフェでウェイターをしている菊村という美少年です。
菊村の容姿の描写はこうです。

彼は仲間の奉公人から「華族様」と云う仇名を貰って居た。此処のカフェエに勤めているボーイたちは、一体に西洋人の好きそうなハイカラな顔だちをした、小奇麗な男ばかりであるが、しかし其の中でも今年十八になる菊村が一番年が若く、容貌も一と入水際立って居た。その目鼻立ちの上品なのと、性質のおっとりとした所とは、実際華族のお坊っちゃんのようで、小柄な、すっきりとした痩せぎすの体に給仕服を着せた様子は、ちょいと見ると学習院の生徒と間違えられさうであった。あんまり色が白く鼻筋が通って居て、洋服がよく似合うせいか、時々此処のバアへ飲みに来る西洋人が、「お前は合の子ではないか」と云って聞く事もあった。



菊村は、たびたび来店する美しい少女に恋します。少女の描写です。

少女は自分の左右に取り附いて来る男たちを満遍なく見廻しながら、口をきく度毎に花やかな生き生きとした笑いを浮かべた。


たしかに其の女は洋服の方がよく似合うし、体のこなしが凡て洋服にしっくり嵌まって居た。菊村は何となく西洋の活動写真の或る場面を見るような気がした。



少女はいつも取り巻きのような青年を複数連れていますが、ある日、三十二三の紳士を一人連れてきます。紳士はこんな様子です。

紳士は色の青白い、丸顔のむっちりとした、小柄に太った男で


兄が妹をいつくしむような、やさしい言葉づかいで頻りと少女の歓心を買って居た。


此の紳士も、話の合間々々に、妙な上目を使って、菊村の顔をぢっとまともに視詰めるのであった。



序論(1)、(2)を読んで下さった方には、この三人の関係がどのように展開していくのか、もう大体お分かりでしょうか。物語は期待通りに展開していきます。少女は菊村に話しかけるなり、高価そうなプレゼントをくれます。ある日には、二十歳くらいの書生を連れてきます。少女の書生に対する扱いはこうです。

菊村さんは此の男に気がねをして居るのね。此れは内に使って居る書生で、耳が遠くっておしなんだから大丈夫なの。」少女はあざけるが如き口調で云って、わざと書生の眼の前にあごを突き出して、人の悪い笑い方をした。



どうやら少女の方は、既にその端麗な容姿にふさわしい境遇にいるようです。
菊村が少女にすっかり夢中になった頃、少女は本題を切り出します。
以前少女と一緒に店に来た紳士が菊村を引き取って世話をしたいと言っているので、会って話を聞いてほしいというのです。
少女もその紳士に引き取られていて、菊村も引き取られた暁には少女と同様に好き放題にさせてくれるのだといいます。
にわかには信じがたい話ですが、菊村は紳士の話を聞いてみることにしました。
菊村を新しい世界に導く少女の姿は、一層美しく描かれます。

白い帽子のリボンに、白い洋服、白い襪、白い半靴―すがすがしい彼女の後ろつきが、暁の蓮の花が開いたように、爽やかな朝の空気に匂って居た。



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  ―美しい人間の権利―

紳士の家に案内された菊村は、紳士と面会します。
紳士は菊村を引き取りたいという真意を語ります。

私や此の子と同様に君は此の家の主人になるのだ。此の内に居る書生や下女には、勝手に君の用をさせるがいゝ。そうして君は此の子と兄妹のようにして暮らして行く。


先も云った通り君の希望はどんな事でも遂げさせて上げる。



さらに紳士は、なぜ菊村を引き取って世話をしたいのかを語ります。
谷崎の基本哲学がそのまま語られているといっていい部分です。

私は君のような美しい器量の少年が、カフェエのボーイと云う卑しい境遇に身を落として居るのを気の毒に思ったのだ。どうかして其の容貌に恥じないだけの満足な教育と、花やかな生活とを与えてやりたかったのだ。男であろうが女であろうが、凡べて容貌の優れた人間には、私はいつも深い同情を寄せずには居られない。たとえば此処に居る此の少女でも、そう云う理由から私が引き取って世話をして居る。


神様が美しい人間を造ったのは、美しい花を造ったのと同じように、此の世でその美しさを思う存分に発揮させたい為だからじゃないか。


日向に出せば美しい花の咲くものが、日陰に捨ててあるとすれば自然の法則に背いて居るのだ。人間にしたって理屈が二つある訳はない。美しい器量の人間が、それにふさわしい境遇を要求するのは、当然の権利なのだ。君は君の容貌に似つかわしい服装をして、君の器量に劣らない美しい少女を友達に持って、小鳥のように楽しい、快い、無邪気な生活を営むのが当然なのだ。そう云う生活をする為めに、君は此の世に生まれて来たのだ。


そうして、君の美しさが何処まで伸びて行くか、此の少女と君と、孰方が余計美しくなるか、その様子を側に居て見て居るのが、私には此の上もない楽しみなのだ。私はそんなことを道楽に生きて居る人間だと思って貰いたい。



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『創造』でも大いに語られたこの「美男美女賛美論」は、性衝動の一種であるマゾヒズムとはまた別個の思想であると考える向きもあるでしょう。
しかし私自身は、「菊村は紳士の言葉をどう受け取ったのか?」、「紳士の計らいを受け入れている少女は、紳士の説をどのように考えているのか?」「紳士は美少年と美少女に気違いじみた賛美論を捧げている間、どのように感じていたか?」などと想像すると、激しい性衝動に襲われます。
序論(1)で述べた通り、この「美男美女賛美論」こそが、谷崎のマゾヒズムの根底にあるのだと、私は考えています。

菊村が紳士の申出を受けたかどうかは、読者の想像に任されています。
妄想は膨らみます。菊村が、恋する少女と兄妹となり、新鮮で豊かな生活を送る事を選択しない理由はありません。そういう資格が自分にはあることを、彼は自覚しているはずです。
何不自由のない生活を送るうちに、菊村の中で、眠っていた貴族の血が目覚めるでしょう。書生や女中に対する扱いも、少女と同様のものに変わっていくことでしょう。
紳士との関係はどうでしょうか。
崇拝する者とされる者が、いつまでも親子のような関係でいられるでしょうか。
今までは紳士と少女は、親子のような、兄妹のような関係でしたが、少女に菊村というもっとふさわしい兄ができた以上、少女はあまり紳士を相手にしなくなるかもしれません。
そうなると、紳士はもっと卑屈な、媚を売るような態度で二人に接するようになりはしないでしょうか…。

紳士の家に仕える聾唖の書生は非常に印象的です。
少女は彼を、「此れ」と呼び、傍で内緒話をしても「大丈夫」な存在として扱っています。
つまり人格を全く認ていないのです。哀れとお思いでしょうか。
ここを読んで下さっている方なら、羨ましいと思われる方のほうが多いかもしれません。
彼にも様々な人生の可能性があったでしょうが、この家に書生として仕えること以上に幸せな人生などあり得るでしょうか。
彼の少女を仰ぎ見る気持ちはいかほどのものだったでしょうか。
誰からも崇拝される少女に一番近くで奉仕できることに悦びと誇りを感じていたことでしょう。
そんな彼は、菊村の登場には、どのような感情を抱いたでしょうか。
自分以上に少女に接近する資格を持った者が現れた事を悔しがるでしょうか。少女と二人きりになれる機会が減った事を悲しむでしょうか。
そうだとしても、そんな態度をおくびにも出すことは許されません。
菊村は彼の新しい主人となるのです。
彼は次第に、美しい主人が二人になったことに新たな悦びを感じるようになるかもしれません。
もし、菊村と少女が、紳士に内緒で兄妹の関係をを踏み越えるようなことがあったとしても、この書生の前で憚るような事はないでしょう…。
彼の視点から海賊版を作ってみても面白そうです。

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  ―醜い人間の定め―

菊村の恋の物語はここで終わりです。
物語はいきなり、紳士の過去の家庭生活の話へと移ります。
前半のファンタジックでロマンティックな雰囲気とは対照的に、後半はやけに所帯じみています。
紳士は岡田という詩人であること、つまりは『創造』の川端同様谷崎自身であることが明かされます。
岡田は家庭を全く顧みず、妻が神経を病んでも、ほとんどいたわることもせずに死なせてしまいます。
子供をかわいがった様子もありません。
なぜでしょうか。簡単です。
妻や子供が岡田を魅了するほど美しくはなかったからです。

谷崎は、女性を軽んじる武家社会以来の日本の「男尊女卑」の風習を忌み嫌います。
そして、西洋や平安時代の日本のような、女性崇拝の風習に憧れを抱いています。
しかし、谷崎のそうした考え方の根底にある思想は、女性一般を上位に、男性一般を下位に置く「女尊男卑」の世界観とは全く異なります。
「全て美しい者は強者であり、醜いものは弱者であった」(『刺青』)という「美尊醜卑」の世界観に基づく、「美女崇拝」なのです。
ですから、美しくない女性に対しては、「男尊女卑」の社会でも見ることのないような悲惨な境遇に堕とすことに何のためらいも感じません。
また、「男は顔じゃない」といった、男性美を軽んじる風習も嫌っています。
岡田が美しい少年少女に夢中になって、自分の財産や家族を犠牲にするのも、「美尊醜卑」の世界観からすれば、自然の法則に従った行動なのです。

「美しい女性が自分を崇拝する男性を苛める」という露骨であからさまなマゾヒズムが、谷崎作品の基本パターンです。
馬鹿にされたり、騙されたり、土下座したり、足を舐めたりと、類型は多種多様です。
しかし、そのマゾヒズムの根底にあるのは、一貫して「美尊醜卑」の世界観です。
序論では、基本パターンからはやや外れるものの、谷崎の世界観が象徴的にではなく、はっきりと表現されている大正時代の傑作三篇を紹介しました。

タグ : マゾヒズム谷崎潤一郎沼正三家畜人ヤプーある夢想家の手帖から寝取られ三者関係白人崇拝嘆きの門

谷崎潤一郎序論(2)―『女人神聖』論~貴族の兄妹、奴隷の兄妹

  ―醜い自分の子より、美しい他人の子―

谷崎潤一郎序論(1)で紹介した『創造』にはさらに、こんな恐ろしい一節もあります。

どうして世間の親たちは、美しい他人子よりも醜い自分の子の方が可愛いゝんだろう。己が親だったら、たとえ自分の子供でも醜い奴は奴隷のように虐待して、美しい他人の子供を養育するなり、可愛がるなりしてやるがな。



谷崎潤一郎作品の中では、外見の美しさだけが常に最高の価値ですが、それは親子の情という自然的、普遍的な価値をもあっさり踏みにじってしまうほどに絶対的なものなのです。

同時期の長篇『女人神聖』にも、同じような表現があります。
こちらはよりリアルです。『創造』の上記引用は、子供を持たない主人公の川端が自分の哲学を語ったものに過ぎません。
『女人神聖』では、十五歳の娘をもつ母親が、娘(雪子)と、同い年の美しい姪(光子)を実際に見比べてこんなことを思うのです。

二人の少女を見比べるようにしたが、いかほど親の慾目でも、自分の娘の器量の悪さを認めない訳には行かなかった。雪子とても色白の、丸ぽちゃの顔に愛嬌があって、満更醜い目鼻立ちではないけれど、光子の傍に並ばせると、残念ながら下女とお嬢様ほどの相違がある。おまけに体の発育が、同い年とは思えぬほどに遅れて居て、光子の方は早や身丈も五尺に餘り、ともすれば十六七の娘のように手でも足でも水々と伸びて居るのに、雪子はようよう十三四の子供のように痩せこびて萎けて居る。自分の娘の方が、生まれも育ちもよいと自惚れて居る母が見ても、二人の様子はまるであべこべの境遇に置かれたものとしか受け取れない。



このとき既に雪子の父も兄も、光子の美貌に夢中になっています。
そんな光子に反感を抱いている雪子の唯一の味方であるはずの母が、内心ではこんなことを思っていたわけです。
雪子が哀れではありますが、仕方のないことです。
谷崎作品の世界では、醜い人は美しい人には絶対に勝てません。光子と雪子では、生まれ持った人間の格が違うのです。

  ―華麗なシンデレラ・ストーリー―

だいぶ先走りましたが、『女人神聖』を詳しく紹介していきたいと思います。
主人公は、沢崎光子とその兄の由太郎です。
物語の冒頭では、二人は十三歳と十一歳の可憐で仲睦まじい兄妹として登場します。
二人がお洒落をして、手をつないで歩いていると、行く先々で人々の注目を集めます。
二人も自分たちの美しさを自覚し、誇っているようです。
二人の姿は、次のようにに描写してあります。

「あれを御覧。何と云う綺麗な兄妹だろう。」路を行く人は斯う云って、睦しそうに歩いて居る二人の様子を振り返っては眼を欹てる。「あれがまあ、大人同士の夫婦だったら、どんなに羨ましがられように。」と、芳町柳橋の藝者たちが、擦れ違いざまに投げかける冗談交じりの言葉さえ、二人の耳に聞こえる事が珍しくはない。その度毎に、兄も妹も小憎らしいほど済まし込んで、鼻の先に生意気な薄笑いを湛えながら、すうッと肩で風を切って通り過ぎるのが常であった。



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私は小児性愛の自覚はありませんが、この『女人神聖』冒頭の由太郎と光子の描写を読むと、いつも全身が疼くような激しい衝動に襲われます。
谷崎の作品には美しい少年少女がたびたび登場しますが、その中でも群を抜いて美しく描かれています。
こんなに綺麗で双子のようにそっくりな兄妹がお洒落をして歩いていたら、誰でも心を奪われずにはにはいられないでしょう。

由太郎と光子の父は相場師で、そのために沢崎兄妹は浮き沈みの激しい生活を余儀なくされます。
それでも母親の甘やかしもあって、人並み以下の生活を味わうことはなく、成長していきます。
ところが、由太郎が十五歳、光子が十三歳の時、父が亡くなり、残された母と兄妹は母の姉が嫁いだ銀行頭取の河田家の援助を受け、何かと干渉されるという屈辱を味わいます。
この河田家の令嬢が雪子で、その兄が慶応の学生である啓太郎です。

光子が初めて河田邸を訪れたのは、十五歳の時、女学校に進学させるよう、河田家の主人に直訴するためでした。
先に引用した感想を雪子の母が抱いたのはこのときです。
このとき、河田家の主人と啓太郎は、この美少女にすっかり魅せられてしまい、光子の進学が認められたのはもちろん、その後も光子の我儘は何でも通用するようになります。
雪子はそれが面白くありませんから、光子に反感を抱きます。

間もなく沢崎兄妹の母が再婚すると、二人は河田家に引き取られます。光子は河田家の令嬢として扱われるようになりますが、由太郎は使用人のような扱いを受けます。
由太郎は立場を向上するために、雪子を誘惑します。雪子は美少年の誘惑に屈し、由太郎と関係を持って妊娠までしますが、駆落ちする寸前で眼が覚め、事の顛末を親に告げます。由太郎は河田家から追放され、そのうちに行方不明となってしまいます。
一方の光子は首尾よく啓太郎と結婚し、河田家の夫人となります。物語は次のような美しい一節で幕を閉じます。

河田家の令夫人となってからも、光子の容貌はますます美しくなり優って、屢々新聞や婦人畫報の写真欄を賑わし、三越や白木の廣告のモデルにさえも使われるようになった。彼女の名前は、才色双絶の年若き貴婦人として、普く都下に響き渡った。



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光子は最初から最後まで、優雅で華麗です。周囲の人々を魅了し、それを踏み台にして上昇していく光子の姿に、読んでいる方もいつしか心酔してしまいます。
谷崎の生み出した数々の魅力的なヒロインの中でも、最も「気品」を感じられるのは、この光子ではないかと思います。

光子のシンデレラ・ストーリーに酔いしれるだけで、この作品は十分に楽しめます。
しかし、中盤、光子が河田家を初めて訪問し、僅かの時間にその美貌ですっかり一家を征服してしまった辺りの期待感からすると、後半の展開は若干不満が残ります。

不満の一つは、光子があっさり啓太郎と対等に交際し、結婚してしまったことです。
啓太郎の容姿については、光子が河田家に最初に訪問した際に、次のように描写されています。

啓太郎は父に似た大きな口で、無遠慮に云いながら、二た言目には光子の方へちらちらと視線を向ける。慶応の野球部の選手と云うだけあって兄は妹にくらべると骨格逞しく、色の真黒な偉丈夫であるが、満面の皰と何となく卑しい眼つきとが、人相を恐ろしく獰猛に下品にさせて、これも決して好男子の部類には這入らない。



こんな男が、いくら河田家の跡取りだからといって、光子と対等に交際し、結婚するなど、許されていいのでしょうか。
外見の美醜で人を厳しく峻別し、美しい者(対象)を上位に、醜い者(自己)を下位に置く谷崎のマゾヒズムの基本思想からすれば、あってはならないことです。
むしろこの啓太郎の描写は、谷崎作品の基本パターンから言えば、マゾヒストの読者が感情移入して「対象」から受ける陵辱を疑似体験する「自己」がこの人物であるという「ラベル」を貼っているように見えてしまいます。啓太郎の描写を読んだ時、彼が不細工の分際で僭越にも光子に一目惚れした報いに、これからこの美少女の手でどのように罰せられるのか、期待感が爆発的に高まりました。
しかし、期待は裏切られました。一方、啓太郎の妹の雪子は、光子に河田家の令嬢の座を奪われ、由太郎に陵辱されて心身共にボロボロにされてしまいます。
谷崎の思想から言えば、これが醜い者に相応しい境遇なのです。同じ穢れた血を分けた啓太郎が、光子と結婚するというのはどうにも不自然で、納得できません。

もう一つの不満は、こちらは納得できないという程ではないのですが、美男である由太郎が、後半徐々に転落していく事です。前半の由太郎は、明らかに読者が憧れる「対象」でした。美しい子供時代はもちろん、少年時代も、自分に惚れた浜村という優等生を弄び、巴という芸者に貢がせ、雪子も労せず騙します。私は男色の自覚はありませんが、こんな由太郎の毒牙になら、かかってしまいたくなります。ただ常に、由太郎は光子にだけは勝てません。そして、終盤身を堕としていくにつれて、光子に嫉妬と崇拝の入り混じった感情を抱くようになります。なんと、「対象」であったはずの由太郎が光子を崇拝する読者が感情移入する「自己」に変わってしまったのです。これは谷崎作品の中でも極めて珍しいパターンです。ただ、これについては谷崎の意図もわかります。この頃の谷崎は「女性美」と「男性美」の対立を大きなテーマにしていましたが、ここで、「女性美」の最終的勝利を宣言したのだと思います。ただ私は、男でも女でも美しい人はこの世界の貴族であり、醜いものは男でも女でもその奴隷であるという谷崎の基本哲学を信奉していますので、聖らかな血を光子と分け合った由太郎がここまで堕ちてしまうのは、なにか不自然な感じがします。

  ―もしも…海賊版『女人神聖』―

このように、大好きな作品に不満な部分があると、「どうすれば理想の展開になったのか」と、妄想は激しく刺激されます。ここからは、私が私の理想に沿って描いたもう一つの『女人神聖』をご紹介します。

『女人神聖』は、由太郎と光子の美しい兄妹と、啓太郎と雪子の醜い兄妹の物語です。「すべて美しい者は強者あり、醜い者は弱者であった。」(『刺青』)という谷崎の基本哲学からいえば、由太郎と光子がその美しさで啓太郎と雪子を屈服させ、支配するというのが基本構図となるはずです。しかし実際には、啓太郎は光子と対等に付き合って結婚し、由太郎は最後の最後で雪子に裏切られて河田家を追放されるという「ねじれ現象」が起こります。

なぜこうなったのでしょうか。光子と啓太郎が出会ったとき、光子は十五歳(数え年か)、啓太郎は慶応の学生といいますから、二十歳前後でしょうか。
啓太郎はこの美少女に一目で夢中になってしまいます。啓太郎は卑劣にも河田家の長男という立場と年齢差をうまく使って、美醜の隔絶という越えられるはずのない壁を越えて、光子を手中にしてしまいます。
そして、由太郎を召使のような境遇に貶めた張本人も、啓太郎です。つまり、由太郎と光子の「美」が啓太郎の「権力」を潰しきれなかったことが、ねじれた結末につながったのです。

もしも、二組の兄妹の出会いが、もっと早かったらどうなっていたでしょうか。そう、あの物語冒頭に描かれた、可憐で仲睦まじい双子のような子供時代の由太郎と光子の純粋無垢な美しさになら、河田家の人々ももっと素直に膝を屈したのではないでしょうか。
河田家の中で、沢崎家の父が亡くなる以前に、沢崎家と接触を持っていたのは、啓太郎と雪子の母(由太郎と光子の伯母)だけです。
この人は本当に鋭い人で、沢崎家の美しい兄妹を自分の子供らに近づけると、ろくなことにならないと察知して、あえて接触する機会を避けていたようです。

そこで、沢崎家の父の不幸が、もう少し早く、物語冒頭の由太郎十三歳、光子十一歳の頃に訪れていたらと仮定してみます。
「兄の由太郎が位牌を捧げ、妹の光子が香炉を抱えて先頭に立つと、二人の顔立ちの美しさが一段と冴え渡って、一層可憐の情を増した」という葬式の様子を見た河田夫人はすっかり心を奪われてしまい、不器量な割りに恵まれた自分の子供らより、その美しさに不釣合いな境遇に堕ちた由太郎と光子の方が気がかりになる奇妙な感情を覚えます。
食卓で啓太郎が自分の手料理をうまそうに食べているとき、「由太郎はひもじい思いをしていないだろうか」とか、雪子に新しい着物を買ってやるとき、「ああ、これが光子だったらどんなに綺麗だろうか」と、ついつい思ってしまうのを抑えられなくなります。
そこで、正月やら、祭りやら、何かと理由をつけて沢崎兄妹を三田の河田邸に招き、歓待します。
かくして、二組の兄妹は出会ってしまうのです。

この頃、雪子は光子と同い年の十一歳、啓太郎は十五六才の思春期の少年です。
原作では啓太郎は由太郎を疎んじ、雪子は光子に反発しますが、この年代では同性の美しさに対する警戒心も備わっていないでしょうから、無防備な河田兄妹の心は、「絵草紙から抜け出たような」美しい兄妹の魅力に抗う術もなく、虜になってしまいます。
その様子は例えばこんなふうに描かれます。

「兄さん、今度は不動様の縁日に、光ちゃんたちを誘って行きましょうよ。」
雪子は由太郎と光子に会いたくて仕方がないのだが、自分独りでは流石に植木店の沢崎の家までは行けないので、何かというとこんな風に兄に持ちかける。
「仕方ないなあ。」
こんな事を言いながらも、その実啓太郎も麗しい従兄妹に会いたいものだから、しょっちゅう妹を連れて、遥々植木店の沢崎家を訪問し、二人を連れ出した。
啓太郎と雪子が一緒の時でも、由太郎と光子はいつもと同じように仲良く手を繋いで歩いた。雪子は光子の少し後ろを歩き、いつも二人の機嫌を伺うように話しかけていた。
啓太郎はというと、三人を見守るようにさらに後ろから付いて歩いていた。幼い三人を後ろから見ていると、楽しい子供の世界から自分だけが仲間はずれにされたような、切ない気持ちになった。無邪気にはしゃいで、由太郎と光子への憧れを隠そうともせず、まるで道化か幇間のように振舞う妹が羨ましかった。
ふと、三人が野良犬をからかっているのを見て、啓太郎に奇妙な考えが浮かんだ。俺が野良犬のまねをして四つん這いになってワンワン吠え出したらどうだろう。あの可愛い兄妹は、俺をからからかってくれるだろうか。整った口の端を上げて、上品にコロコロと笑うんだろうか。大人の体になってしまった俺が、あの楽しそうな子供の輪の中に入っていくにはそうするしかないんじゃないだろうか、と。
その時もう少し陽が傾いていて、もう少し人通りが少ない場所であったら、啓太郎は考えを実行に移していたかもしれない。
その頃から啓太郎は四六時中従兄妹の事を考えるようになり、学業にも野球にも身が入らず、付き合っていた女学生も酷くつまらない、くだらないもののように思えてきてあっさりと捨ててしまった。

さて、河田夫人は、さっさと沢崎の母を再婚させ、由太郎と光子を河田邸に引き取ります。
河田家の主人も、由太郎と光子の凛とした美しさに内心心酔しており、また、最近何をやらせても振るわない息子に失望していたこともあって、二人を正式な養子にします。啓太郎と雪子は歓喜し、ますます卑屈な態度をもって由太郎と光子を迎えます。
憧れの従兄妹と一つ屋根の下暮らすことになった啓太郎の心理は、次のように描写されます。

啓太郎は、前から何となく思っていた考えを、最近になって確信するようになった。この河田の家も財産も、そもそも由太郎と光子のために用意されていた物なのだと。この壮麗な美術品を眺めて絵になるのは、俺のにきび面か、錦絵のような由太郎の横顔か。この高価な椅子に腰掛けるのに相応しいのは、幼児のような妹の足か、スラリと伸びた光子の足か。これほど明らかなことはあるまい。
では、俺と雪子は何の為にこの家に生まれたのか。それは、俺の心に芽生えている気持ちを内省してみれば分かる。俺達は、由太郎と光子を迎えるためにこの家に付属して予め用意されていた召使なのだ。そうでなければ、俺のこのどうしようもない卑屈な欲望をどう説明すればよいのだ。

時は過ぎ、由太郎、光子、雪子も思春期を迎える頃、啓太郎は何とか大学へ進学しますが、ますます美しくなる光子への歪んだ慕情を募らせ、Onanismに目覚めて光子の手巾やら履物やらを物色するようになります。それを咎めた雪子との会話です。

「兄さん、いい加減にそんなことはお止めなさいな。そのうち光子さんにも勘付かれるわよ。」
「ふん、あの人は当の昔に俺の本性には気付いているさ。初めて会った時から、俺はあの人に対してこういう卑しい欲望を抱いていたんだ。そうして、そんな気持ちをいつも見透かされているような気がして、まともに目を合わせることもできやしなかった。その癖隙を見てはちらちらと盗み見ているんだから、こそ泥の習性なんぞ、いつも目の当たりにしているようなもんさ。お前だって、光子さんの爪を研いだ後、爪の粉を小瓶に集めていたじゃないか。」
「それはあんまりキラキラして綺麗だったから、捨てるのがもったいなくて取って置いただけだわ。ずいぶん昔の話しだし、それに、兄さんみたいに卑しいことに使ったりはしないわ。」
「俺はもう、昔のように無邪気にあの人たちの召使でいることができなくなってしまったんだ。由太郎もあちこちで色んな男や女を弄んでいて、もう俺の相手なんぞしてくれなくなった。お前もいつまでも光子さんの女中のようなことをやっていられるわけじゃない。俺達にとっちゃ今もあの人達が全てだが、あの人達にとっちゃ俺達にさせる用事はもう済んでいるのさ。俺達が生まれた目的はもう果たされたんだから、これから残りの人生はただ今までの思い出だけを頼りに生きていかなきゃならん。最後の別れの慰みに、これくらい頂いたって罰は当たらないだろう。」

啓太郎は盗んだ光子の「思い出」と僅かばかりの金を握り締めて自ら河田家を飛び出し、そのまま行方をくらまします。河田の主人は啓太郎を勘当して代わりに、慶應に進学して、ギリシアの彫像のように男らしく成長した由太郎を跡取りに据えます。
光子は数多の求婚者の中から、美しい財閥の長男を選び、「盛大なる華燭の典」を挙げます。
雪子はそれを見届けてから、かつて河田邸の書生をしていた法学士の下に嫁ぎます。最後にその後の啓太郎の、彼に相応しい境遇が語られます。

下賎な身分となって帝都の片隅に暮らす啓太郎は、年若き貴婦人となった光子の活躍を耳にするたび、幸福な少年時代を懐かしみ、光子の「思い出」をひしひしと抱きしめた。

以上が私の海賊版『女人神聖』です。この海賊版に登場するスクビズムの諸形態は、いずれも別の谷崎作品に登場するものです。
いずれの形態も、美しい人への憧れと、醜い自分に対する卑下をたまらず体で表現した(したくなった)ものであると私は考えていますので、啓太郎の光子に対する気持ちの表現として自然と出てきてしまいました。
スクビズムの諸形態については、また別の記事で詳しく紹介していきたいと思います。

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谷崎潤一郎序論(1)―『創造』論~美男美女崇拝

  ―人は見た目が十割―

谷崎潤一郎は、明治四十三年、自ら創刊に加わった雑誌に短編『刺青しせい』を発表して文壇デビューします。
『刺青』の冒頭に、次のような有名な一節があります。

「すべて美しい者は強者あり、醜い者は弱者であった。」



デビュー作の冒頭部分でありながら、この一節は、その後の谷崎作品を貫く基本的な思想をあっさりと述べてしまっています。
これは言い換えると、「人の容貌や肉体の美しさこそこの世の最高の価値である」ということです。
作品の中に美女を登場させ、その美しさ(それも内面ではなく百パーセント外見の美しさ)に、権力、社会規範、人の尊厳といった人工的な価値を体現する主人公を屈服させるというのが、谷崎の基本パターンです。
谷崎のマゾヒズムは、この「綺麗な人に対するどうしようもない憧れ」を根源としているのであって、決して女性一般を崇拝するフェミニズムではありません。
醜い女性は美女によって惨めに辱められます。また、男性であっても美しければ崇拝の対象になります。

ここで、谷崎のマゾヒズムが「美男美女崇拝」を根源としていることがよく分かる作品を紹介したいと思います。
大正四年に発表された『創造』という短編です。
この作品は計五部からなり、各部がそれぞれ違う組み合わせの二人の会話で成り立っており、地の文はないというユニークな構成になっています。
主人公は「川端」という芸術家です。谷崎は、彼に語らせる形で自らの思想をこの短編に凝縮させていると私は考えています。
川端は、自らの肉体について、次のように言っています。

しかし、何より悲しいのは己の此の醜い顔だ。醜い肉体だ。…そら、あすこの鏡に映って居る己の姿を御覧。何と云う光の鈍い、浅薄な瞳の色だろう。何と云う下品な不恰好な鼻の形だろう。黄でもなく、白でもなく、黒でもなく、何と云う曖昧な不愉快な皮膚の色だろう。あの頬骨のいやに尖って突き出て居る工合を見ろ。それからあの不細工な肩を見ろ。ちっぽけなけち臭い胴を見ろ。貧しい両腕の筋肉を見ろ。哀れな短い脚を見ろ。あの体中の何処かの部分に少しでも美と云うものが認められるかお笑い草に捜して見ろ。



このように、川端は、自らの外見に強い劣等感を抱いています。
そして、それほど醜い自分が美しい芸術を創造することは不可能だと絶望してしまいます。
そこで川端は、美しい男女を養子にして、彼らの産む美しい子を「創造」するという狂気に満ちた計画を思いつき、実行します。

川端は養子にした少年を次のように讃えます。

お前のような高貴な容貌と端正な肉体を持った人間が、醜い己を父と呼ぶのはあまりに不釣合いだ。あまりに不適当だ。


何と立派な体格だろう。あの筋肉のむくむくと隆起した胸だの股だのの塩梅は、まるでミケランジェロのアダムの絵のようだ。


お前の顔はどうして又そんなに優雅なのだろう。上品で厳粛で沈痛なくらい整って居て、希臘ギリシアのパルテノンのフリイズから抜け出てきたようだ。



養女にした少女:お藍に対してはこうです。

お前の深い瞳の底には、汲んでもきせぬ愛の泉が湧いて居る。お前の紅い唇の端には、昆虫の生血を貪る毒草のように誘惑の花が咲いている。


お前のしなやかな、なまめかしい皮膚の色は、男の心を悪酔いさせる音楽のようだ。



無題

川端は財産を使って二人のために庭園付きの贅沢な邸宅を用意し、そこに住まわせます。そして、二人の美しい子が九歳になるのを見届けて、生涯を終えます。

これを「美男美女崇拝」と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。谷崎の中では、美しい者へ強烈な崇拝と、自らの醜い外見への卑下が結びつき、外見の美醜を絶対的な価値基準とした秩序が構築されています。すなわち、美しい者(対象)を上位に、醜い者(自己)を下位に置くスクビズムです。諸作品に様々な形態で表れるマゾヒズムは、すべてこのスクビズムの具体的な表現として説明することができます。

  ―トリオリズムとアルビニズム―

では、トリオリズム(三者関係)アルビニズム(白人崇拝)はどうでしょうか。これらも、谷崎の場合には、「美男美女崇拝」がその根源となっています。谷崎は、それについても川端にはっきりと語らせています。

川端は一度離婚しています。それについてこう語っているのです。

ところがT子は結婚してから間もなく己を捨てゝしまった。己を捨てゝSの所へ走ってしまった。そうして今でもSと睦まじく同棲している。あの当時は恨んだ怒ったりしたけれど、今日になって考えれば、己はT子の執った行為を少しも無理だとは思わない。成る程Sの所には己の家程の財産はないだろう。しかし彼奴あいつの顔はどうだ、彼奴の肉体はどうだ。こゝにSの写真があるが、まあ此のパッチリとした瞳を見ろ。豊かな腕の肉を見ろ。生き生きとした唇の色を見ろ。それから気高い、威厳のある鼻つきを見ろ。


T子が己と同等の審美眼を持って居るなら、醜い己を捨てゝ美しいSの所へ走ったのは寧ろ当然の選択として許してやらなければならない。



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「寝取られ」を耐え忍ぶというのは典型的なトリオリズムです。谷崎はザッヘル・マゾッホや沼正三に負けないトリオリストですが、谷崎の場合、トリオリズムも結局「美男美女崇拝」の一つの発露であることがここで明らかにされています。美しい者と醜い者との間に厳しい上下関係を定めるスクビズムの秩序の下では、美女と対等に付き合えるのは美男だけということになります。もし醜い男に美しい妻がいたとしたら、それは秩序を乱す不自然な状況であって、妻が美しい男の下へと去っていくのは、「寧ろ当然」ということになります。谷崎にとって「寝取られ」は、美男美女と自己との上下関係を実感できるスクビズムの一つの類型なのです。

川端が養子の肉体美を賞賛する際、「ミケランジェロのアダム」ギリシアの彫像を引き合いに出している所から、川端が肉体美の理想を白人に求めていることが明らかにされています。また、川端が自己の肉体の醜さを卑下している表現は、瞳の色、皮膚の色、低い鼻、頬骨、小さな体と、白人の肉体と比較した場合の日本人の肉体の醜い部分を一つ一つ挙げつらっているように読めます。また、次のようなことも言っています。

日本人程暗黒な、卑賤な、非芸術的な形態を持って居る種族はないと思うね。西洋人は無論の事だが、獅子だとか羊だとか鳩だとか鴎だとか云う禽獣の類ですら、沢山集まればそこに一種の美感を生ずるものだけど、日本人の顔だけは集まれば集まる程醜悪の度を増すばかりなのはおかしいじゃないか。



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谷崎は沼に負けない強烈なアルビニストですが、外見の美しさが絶対的な価値基準となる谷崎の思想において、人の外見を基本的に規定する人種が大きな問題になるのは当然といえます。谷崎の審美眼によると、日本人の中でも「S」や、養子にした少年やお藍のような美男美女は例外で、日本人は基本的に醜く、西洋人(白人)は基本的に美しいということになります。人種が異なる訳ですから、その美醜の隔絶はより深刻になります。これに、西洋文明の優越性、白人が有色人種を支配してきた実績が加わると、白人(対象)が優越人種で、日本人(自己)が劣等人種であるという実感がグッとリアルになります。だからアルビニズムは深刻なのです。詳しくは別に述べますが、ここではアルビニズムもやはり美男美女崇拝の一つの形態だということを強調しておきます。

  ―マゾヒストの「理想世界」―

谷崎の基本思想が、美しい者を上位に、醜い者を下位に置くスクビズムにある事を述べてきました。では、この美醜を絶対の価値基準とする秩序を、徹底的に実現していくとどうなるのでしょうか。

美しい者は貴族となり、贅沢の限りを尽くして何不自由なく幸せに遊んで暮らし、醜い者は奴隷となって貴族の放つ美しい光を頭上に浴びながら一生働く。

谷崎の思想を究極まで突き詰めると、このようなマゾヒストの「理想世界」に行き着くはずです。私は、谷崎の脳内には、このような「理想世界」が描かれていたと確信しています。しかし、谷崎はそれを具体的に作品に描き出すことは、終にしませんでした。時代状況や立場が許さなかったというよりも、谷崎自身が、現実世界に「理想世界」を投影した物語を描くことにこだわったのだと思います。谷崎の表現力で、「理想世界」の一大絵巻が描かれていたら、どんなに素晴らしかったでしょうか。これはもう想像して楽しむしかありません。

『創造』には、谷崎の描く「理想世界」を想像する端緒となるような表現があります。川端が養子にした美男美女カップルのために用意した部屋は、まさに貴族の生活にふさわしい壮麗さです。

あの部屋の中は綺麗だぞ。いつ何時お前が来てもいゝように、すっかり支度が整えてあるのだ。壁には夢の国の絵が畫いてある。床には猛獣の毛皮が敷いてある。お前の据わる椅子の蓐は、珍しい織物で張り詰めてある。お前の寄りかゝる柱の根もとには、甘い香料が焚き燻べてある。箪笥の中にはお前の体に似合うような、衣装だの宝石だの腕輪だのが揃って居る。お前が恋を恐れなければ、あの部屋の物は残らずお前の所有になるのだ。



さらに、川端がお藍の美しさを讃える表現に、このようなものがあります。

丁度神様の通り過ぎた土地が浄められると同様に、お前の手足の触れるところには忽ち歓びの影がさす。お前の腰掛けて居る椅子の周囲にも、お前の手を置いて居るテエブルの上にも、今迄此の部屋に見られなかった『神秘』がいつしか宿って居る。



まるで椅子やテーブルが、お藍に腰掛けられ、手を置かれて喜んでいるかような表現です。このような表現から、谷崎の思い描いていた「理想世界」の一端を垣間見られたような気がするのは、私だけでしょうか。

谷崎が終に具体的に描かなかったマゾヒストの「理想世界」は、沼正三の『家畜人ヤプー』において、見事に描かれました。『家畜人ヤプー』が、『奇譚クラブ』という風俗雑誌において連載開始されたのは一九五八年ですから、このとき谷崎は存命です。谷崎が『家畜人ヤプー』を読んだかどうか、それはもはや誰にも分かりません。

『創造』は、文庫本三十八ページ分の、あまり注目もされていない短編ですが、谷崎のマゾヒズムの根源からその行き着く先までが凝縮された、極めて重要な作品であると私は考えています。

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