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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎序論(1)―『創造』論~美男美女崇拝

  ―人は見た目が十割―

谷崎潤一郎は、明治四十三年、自ら創刊に加わった雑誌に短編『刺青しせい』を発表して文壇デビューします。
『刺青』の冒頭に、次のような有名な一節があります。

「すべて美しい者は強者あり、醜い者は弱者であった。」



デビュー作の冒頭部分でありながら、この一節は、その後の谷崎作品を貫く基本的な思想をあっさりと述べてしまっています。
これは言い換えると、「人の容貌や肉体の美しさこそこの世の最高の価値である」ということです。
作品の中に美女を登場させ、その美しさ(それも内面ではなく百パーセント外見の美しさ)に、権力、社会規範、人の尊厳といった人工的な価値を体現する主人公を屈服させるというのが、谷崎の基本パターンです。
谷崎のマゾヒズムは、この「綺麗な人に対するどうしようもない憧れ」を根源としているのであって、決して女性一般を崇拝するフェミニズムではありません。
醜い女性は美女によって惨めに辱められます。また、男性であっても美しければ崇拝の対象になります。

ここで、谷崎のマゾヒズムが「美男美女崇拝」を根源としていることがよく分かる作品を紹介したいと思います。
大正四年に発表された『創造』という短編です。
この作品は計五部からなり、各部がそれぞれ違う組み合わせの二人の会話で成り立っており、地の文はないというユニークな構成になっています。
主人公は「川端」という芸術家です。谷崎は、彼に語らせる形で自らの思想をこの短編に凝縮させていると私は考えています。
川端は、自らの肉体について、次のように言っています。

しかし、何より悲しいのは己の此の醜い顔だ。醜い肉体だ。…そら、あすこの鏡に映って居る己の姿を御覧。何と云う光の鈍い、浅薄な瞳の色だろう。何と云う下品な不恰好な鼻の形だろう。黄でもなく、白でもなく、黒でもなく、何と云う曖昧な不愉快な皮膚の色だろう。あの頬骨のいやに尖って突き出て居る工合を見ろ。それからあの不細工な肩を見ろ。ちっぽけなけち臭い胴を見ろ。貧しい両腕の筋肉を見ろ。哀れな短い脚を見ろ。あの体中の何処かの部分に少しでも美と云うものが認められるかお笑い草に捜して見ろ。



このように、川端は、自らの外見に強い劣等感を抱いています。
そして、それほど醜い自分が美しい芸術を創造することは不可能だと絶望してしまいます。
そこで川端は、美しい男女を養子にして、彼らの産む美しい子を「創造」するという狂気に満ちた計画を思いつき、実行します。

川端は養子にした少年を次のように讃えます。

お前のような高貴な容貌と端正な肉体を持った人間が、醜い己を父と呼ぶのはあまりに不釣合いだ。あまりに不適当だ。


何と立派な体格だろう。あの筋肉のむくむくと隆起した胸だの股だのの塩梅は、まるでミケランジェロのアダムの絵のようだ。


お前の顔はどうして又そんなに優雅なのだろう。上品で厳粛で沈痛なくらい整って居て、希臘ギリシアのパルテノンのフリイズから抜け出てきたようだ。



養女にした少女:お藍に対してはこうです。

お前の深い瞳の底には、汲んでもきせぬ愛の泉が湧いて居る。お前の紅い唇の端には、昆虫の生血を貪る毒草のように誘惑の花が咲いている。


お前のしなやかな、なまめかしい皮膚の色は、男の心を悪酔いさせる音楽のようだ。



無題

川端は財産を使って二人のために庭園付きの贅沢な邸宅を用意し、そこに住まわせます。そして、二人の美しい子が九歳になるのを見届けて、生涯を終えます。

これを「美男美女崇拝」と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。谷崎の中では、美しい者へ強烈な崇拝と、自らの醜い外見への卑下が結びつき、外見の美醜を絶対的な価値基準とした秩序が構築されています。すなわち、美しい者(対象)を上位に、醜い者(自己)を下位に置くスクビズムです。諸作品に様々な形態で表れるマゾヒズムは、すべてこのスクビズムの具体的な表現として説明することができます。

  ―トリオリズムとアルビニズム―

では、トリオリズム(三者関係)アルビニズム(白人崇拝)はどうでしょうか。これらも、谷崎の場合には、「美男美女崇拝」がその根源となっています。谷崎は、それについても川端にはっきりと語らせています。

川端は一度離婚しています。それについてこう語っているのです。

ところがT子は結婚してから間もなく己を捨てゝしまった。己を捨てゝSの所へ走ってしまった。そうして今でもSと睦まじく同棲している。あの当時は恨んだ怒ったりしたけれど、今日になって考えれば、己はT子の執った行為を少しも無理だとは思わない。成る程Sの所には己の家程の財産はないだろう。しかし彼奴あいつの顔はどうだ、彼奴の肉体はどうだ。こゝにSの写真があるが、まあ此のパッチリとした瞳を見ろ。豊かな腕の肉を見ろ。生き生きとした唇の色を見ろ。それから気高い、威厳のある鼻つきを見ろ。


T子が己と同等の審美眼を持って居るなら、醜い己を捨てゝ美しいSの所へ走ったのは寧ろ当然の選択として許してやらなければならない。



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「寝取られ」を耐え忍ぶというのは典型的なトリオリズムです。谷崎はザッヘル・マゾッホや沼正三に負けないトリオリストですが、谷崎の場合、トリオリズムも結局「美男美女崇拝」の一つの発露であることがここで明らかにされています。美しい者と醜い者との間に厳しい上下関係を定めるスクビズムの秩序の下では、美女と対等に付き合えるのは美男だけということになります。もし醜い男に美しい妻がいたとしたら、それは秩序を乱す不自然な状況であって、妻が美しい男の下へと去っていくのは、「寧ろ当然」ということになります。谷崎にとって「寝取られ」は、美男美女と自己との上下関係を実感できるスクビズムの一つの類型なのです。

川端が養子の肉体美を賞賛する際、「ミケランジェロのアダム」ギリシアの彫像を引き合いに出している所から、川端が肉体美の理想を白人に求めていることが明らかにされています。また、川端が自己の肉体の醜さを卑下している表現は、瞳の色、皮膚の色、低い鼻、頬骨、小さな体と、白人の肉体と比較した場合の日本人の肉体の醜い部分を一つ一つ挙げつらっているように読めます。また、次のようなことも言っています。

日本人程暗黒な、卑賤な、非芸術的な形態を持って居る種族はないと思うね。西洋人は無論の事だが、獅子だとか羊だとか鳩だとか鴎だとか云う禽獣の類ですら、沢山集まればそこに一種の美感を生ずるものだけど、日本人の顔だけは集まれば集まる程醜悪の度を増すばかりなのはおかしいじゃないか。



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谷崎は沼に負けない強烈なアルビニストですが、外見の美しさが絶対的な価値基準となる谷崎の思想において、人の外見を基本的に規定する人種が大きな問題になるのは当然といえます。谷崎の審美眼によると、日本人の中でも「S」や、養子にした少年やお藍のような美男美女は例外で、日本人は基本的に醜く、西洋人(白人)は基本的に美しいということになります。人種が異なる訳ですから、その美醜の隔絶はより深刻になります。これに、西洋文明の優越性、白人が有色人種を支配してきた実績が加わると、白人(対象)が優越人種で、日本人(自己)が劣等人種であるという実感がグッとリアルになります。だからアルビニズムは深刻なのです。詳しくは別に述べますが、ここではアルビニズムもやはり美男美女崇拝の一つの形態だということを強調しておきます。

  ―マゾヒストの「理想世界」―

谷崎の基本思想が、美しい者を上位に、醜い者を下位に置くスクビズムにある事を述べてきました。では、この美醜を絶対の価値基準とする秩序を、徹底的に実現していくとどうなるのでしょうか。

美しい者は貴族となり、贅沢の限りを尽くして何不自由なく幸せに遊んで暮らし、醜い者は奴隷となって貴族の放つ美しい光を頭上に浴びながら一生働く。

谷崎の思想を究極まで突き詰めると、このようなマゾヒストの「理想世界」に行き着くはずです。私は、谷崎の脳内には、このような「理想世界」が描かれていたと確信しています。しかし、谷崎はそれを具体的に作品に描き出すことは、終にしませんでした。時代状況や立場が許さなかったというよりも、谷崎自身が、現実世界に「理想世界」を投影した物語を描くことにこだわったのだと思います。谷崎の表現力で、「理想世界」の一大絵巻が描かれていたら、どんなに素晴らしかったでしょうか。これはもう想像して楽しむしかありません。

『創造』には、谷崎の描く「理想世界」を想像する端緒となるような表現があります。川端が養子にした美男美女カップルのために用意した部屋は、まさに貴族の生活にふさわしい壮麗さです。

あの部屋の中は綺麗だぞ。いつ何時お前が来てもいゝように、すっかり支度が整えてあるのだ。壁には夢の国の絵が畫いてある。床には猛獣の毛皮が敷いてある。お前の据わる椅子の蓐は、珍しい織物で張り詰めてある。お前の寄りかゝる柱の根もとには、甘い香料が焚き燻べてある。箪笥の中にはお前の体に似合うような、衣装だの宝石だの腕輪だのが揃って居る。お前が恋を恐れなければ、あの部屋の物は残らずお前の所有になるのだ。



さらに、川端がお藍の美しさを讃える表現に、このようなものがあります。

丁度神様の通り過ぎた土地が浄められると同様に、お前の手足の触れるところには忽ち歓びの影がさす。お前の腰掛けて居る椅子の周囲にも、お前の手を置いて居るテエブルの上にも、今迄此の部屋に見られなかった『神秘』がいつしか宿って居る。



まるで椅子やテーブルが、お藍に腰掛けられ、手を置かれて喜んでいるかような表現です。このような表現から、谷崎の思い描いていた「理想世界」の一端を垣間見られたような気がするのは、私だけでしょうか。

谷崎が終に具体的に描かなかったマゾヒストの「理想世界」は、沼正三の『家畜人ヤプー』において、見事に描かれました。『家畜人ヤプー』が、『奇譚クラブ』という風俗雑誌において連載開始されたのは一九五八年ですから、このとき谷崎は存命です。谷崎が『家畜人ヤプー』を読んだかどうか、それはもはや誰にも分かりません。

『創造』は、文庫本三十八ページ分の、あまり注目もされていない短編ですが、谷崎のマゾヒズムの根源からその行き着く先までが凝縮された、極めて重要な作品であると私は考えています。
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タグ : マゾヒズム谷崎潤一郎沼正三家畜人ヤプーある夢想家の手帖から寝取られ三者関係白人崇拝創造美男美女崇拝

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コメント

美尊醜卑

美尊醜卑の世界感に凄く惹かれています。勿論、自分は醜です。美しい者が正義であり勝者、醜い者は存在自体悪であり常に敗者でなければならない。そうした考えでブサ彦物語というのも書いてました。事情があり途中で公開やめましたが、醜いブサ彦が美しいカップルに全てを奪われていきます。財産は当然として親子の絆までも。最期は美しいカップルの為に自らの命を絶ちます。そんなことを妄想してます

to 足奴隷さん

はじめまして。「ブサ彦物語」、大ファンです。現在公開中のページをリンクさせていただきました。綺麗な人を見たときに感じる感動、快感、憧れ。何物にも替えがたいものだと思います。存在しているだけでこんなすばらしい感覚を他人に味合わせることができる美男美女は、本当に尊敬してしまいます。一方醜い人は他人に不快感を与えます。この両者が平等ってのはおかしいですよね。ブサ彦は存在意義を教えてくれたカップルに恩返しが出来て本当に幸せ者だと思います。親子の絆よりもカップルへの憧れをとる場面は未公開なのでしょうか。ぜひ読んでみたいです…。

醜い者が美しい者に完全に滅ばされる。最高です。ブサ彦の続きはどうしても載せられませんでした。美しいカップルの為に病気の母を見殺したりその葬式とかとにかく不道徳すぎるし、カップルの足型の焼き印を顔にされるとかブス女と無理矢理結婚させられ美男美女カップルの肥やしになるとか公開できない内容になってます

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