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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎序論(2)―『女人神聖』論~貴族の兄妹、奴隷の兄妹

  ―醜い自分の子より、美しい他人の子―

谷崎潤一郎序論(1)で紹介した『創造』にはさらに、こんな恐ろしい一節もあります。

どうして世間の親たちは、美しい他人子よりも醜い自分の子の方が可愛いゝんだろう。己が親だったら、たとえ自分の子供でも醜い奴は奴隷のように虐待して、美しい他人の子供を養育するなり、可愛がるなりしてやるがな。



谷崎潤一郎作品の中では、外見の美しさだけが常に最高の価値ですが、それは親子の情という自然的、普遍的な価値をもあっさり踏みにじってしまうほどに絶対的なものなのです。

同時期の長篇『女人神聖』にも、同じような表現があります。
こちらはよりリアルです。『創造』の上記引用は、子供を持たない主人公の川端が自分の哲学を語ったものに過ぎません。
『女人神聖』では、十五歳の娘をもつ母親が、娘(雪子)と、同い年の美しい姪(光子)を実際に見比べてこんなことを思うのです。

二人の少女を見比べるようにしたが、いかほど親の慾目でも、自分の娘の器量の悪さを認めない訳には行かなかった。雪子とても色白の、丸ぽちゃの顔に愛嬌があって、満更醜い目鼻立ちではないけれど、光子の傍に並ばせると、残念ながら下女とお嬢様ほどの相違がある。おまけに体の発育が、同い年とは思えぬほどに遅れて居て、光子の方は早や身丈も五尺に餘り、ともすれば十六七の娘のように手でも足でも水々と伸びて居るのに、雪子はようよう十三四の子供のように痩せこびて萎けて居る。自分の娘の方が、生まれも育ちもよいと自惚れて居る母が見ても、二人の様子はまるであべこべの境遇に置かれたものとしか受け取れない。



このとき既に雪子の父も兄も、光子の美貌に夢中になっています。
そんな光子に反感を抱いている雪子の唯一の味方であるはずの母が、内心ではこんなことを思っていたわけです。
雪子が哀れではありますが、仕方のないことです。
谷崎作品の世界では、醜い人は美しい人には絶対に勝てません。光子と雪子では、生まれ持った人間の格が違うのです。

  ―華麗なシンデレラ・ストーリー―

だいぶ先走りましたが、『女人神聖』を詳しく紹介していきたいと思います。
主人公は、沢崎光子とその兄の由太郎です。
物語の冒頭では、二人は十三歳と十一歳の可憐で仲睦まじい兄妹として登場します。
二人がお洒落をして、手をつないで歩いていると、行く先々で人々の注目を集めます。
二人も自分たちの美しさを自覚し、誇っているようです。
二人の姿は、次のようにに描写してあります。

「あれを御覧。何と云う綺麗な兄妹だろう。」路を行く人は斯う云って、睦しそうに歩いて居る二人の様子を振り返っては眼を欹てる。「あれがまあ、大人同士の夫婦だったら、どんなに羨ましがられように。」と、芳町柳橋の藝者たちが、擦れ違いざまに投げかける冗談交じりの言葉さえ、二人の耳に聞こえる事が珍しくはない。その度毎に、兄も妹も小憎らしいほど済まし込んで、鼻の先に生意気な薄笑いを湛えながら、すうッと肩で風を切って通り過ぎるのが常であった。



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私は小児性愛の自覚はありませんが、この『女人神聖』冒頭の由太郎と光子の描写を読むと、いつも全身が疼くような激しい衝動に襲われます。
谷崎の作品には美しい少年少女がたびたび登場しますが、その中でも群を抜いて美しく描かれています。
こんなに綺麗で双子のようにそっくりな兄妹がお洒落をして歩いていたら、誰でも心を奪われずにはにはいられないでしょう。

由太郎と光子の父は相場師で、そのために沢崎兄妹は浮き沈みの激しい生活を余儀なくされます。
それでも母親の甘やかしもあって、人並み以下の生活を味わうことはなく、成長していきます。
ところが、由太郎が十五歳、光子が十三歳の時、父が亡くなり、残された母と兄妹は母の姉が嫁いだ銀行頭取の河田家の援助を受け、何かと干渉されるという屈辱を味わいます。
この河田家の令嬢が雪子で、その兄が慶応の学生である啓太郎です。

光子が初めて河田邸を訪れたのは、十五歳の時、女学校に進学させるよう、河田家の主人に直訴するためでした。
先に引用した感想を雪子の母が抱いたのはこのときです。
このとき、河田家の主人と啓太郎は、この美少女にすっかり魅せられてしまい、光子の進学が認められたのはもちろん、その後も光子の我儘は何でも通用するようになります。
雪子はそれが面白くありませんから、光子に反感を抱きます。

間もなく沢崎兄妹の母が再婚すると、二人は河田家に引き取られます。光子は河田家の令嬢として扱われるようになりますが、由太郎は使用人のような扱いを受けます。
由太郎は立場を向上するために、雪子を誘惑します。雪子は美少年の誘惑に屈し、由太郎と関係を持って妊娠までしますが、駆落ちする寸前で眼が覚め、事の顛末を親に告げます。由太郎は河田家から追放され、そのうちに行方不明となってしまいます。
一方の光子は首尾よく啓太郎と結婚し、河田家の夫人となります。物語は次のような美しい一節で幕を閉じます。

河田家の令夫人となってからも、光子の容貌はますます美しくなり優って、屢々新聞や婦人畫報の写真欄を賑わし、三越や白木の廣告のモデルにさえも使われるようになった。彼女の名前は、才色双絶の年若き貴婦人として、普く都下に響き渡った。



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光子は最初から最後まで、優雅で華麗です。周囲の人々を魅了し、それを踏み台にして上昇していく光子の姿に、読んでいる方もいつしか心酔してしまいます。
谷崎の生み出した数々の魅力的なヒロインの中でも、最も「気品」を感じられるのは、この光子ではないかと思います。

光子のシンデレラ・ストーリーに酔いしれるだけで、この作品は十分に楽しめます。
しかし、中盤、光子が河田家を初めて訪問し、僅かの時間にその美貌ですっかり一家を征服してしまった辺りの期待感からすると、後半の展開は若干不満が残ります。

不満の一つは、光子があっさり啓太郎と対等に交際し、結婚してしまったことです。
啓太郎の容姿については、光子が河田家に最初に訪問した際に、次のように描写されています。

啓太郎は父に似た大きな口で、無遠慮に云いながら、二た言目には光子の方へちらちらと視線を向ける。慶応の野球部の選手と云うだけあって兄は妹にくらべると骨格逞しく、色の真黒な偉丈夫であるが、満面の皰と何となく卑しい眼つきとが、人相を恐ろしく獰猛に下品にさせて、これも決して好男子の部類には這入らない。



こんな男が、いくら河田家の跡取りだからといって、光子と対等に交際し、結婚するなど、許されていいのでしょうか。
外見の美醜で人を厳しく峻別し、美しい者(対象)を上位に、醜い者(自己)を下位に置く谷崎のマゾヒズムの基本思想からすれば、あってはならないことです。
むしろこの啓太郎の描写は、谷崎作品の基本パターンから言えば、マゾヒストの読者が感情移入して「対象」から受ける陵辱を疑似体験する「自己」がこの人物であるという「ラベル」を貼っているように見えてしまいます。啓太郎の描写を読んだ時、彼が不細工の分際で僭越にも光子に一目惚れした報いに、これからこの美少女の手でどのように罰せられるのか、期待感が爆発的に高まりました。
しかし、期待は裏切られました。一方、啓太郎の妹の雪子は、光子に河田家の令嬢の座を奪われ、由太郎に陵辱されて心身共にボロボロにされてしまいます。
谷崎の思想から言えば、これが醜い者に相応しい境遇なのです。同じ穢れた血を分けた啓太郎が、光子と結婚するというのはどうにも不自然で、納得できません。

もう一つの不満は、こちらは納得できないという程ではないのですが、美男である由太郎が、後半徐々に転落していく事です。前半の由太郎は、明らかに読者が憧れる「対象」でした。美しい子供時代はもちろん、少年時代も、自分に惚れた浜村という優等生を弄び、巴という芸者に貢がせ、雪子も労せず騙します。私は男色の自覚はありませんが、こんな由太郎の毒牙になら、かかってしまいたくなります。ただ常に、由太郎は光子にだけは勝てません。そして、終盤身を堕としていくにつれて、光子に嫉妬と崇拝の入り混じった感情を抱くようになります。なんと、「対象」であったはずの由太郎が光子を崇拝する読者が感情移入する「自己」に変わってしまったのです。これは谷崎作品の中でも極めて珍しいパターンです。ただ、これについては谷崎の意図もわかります。この頃の谷崎は「女性美」と「男性美」の対立を大きなテーマにしていましたが、ここで、「女性美」の最終的勝利を宣言したのだと思います。ただ私は、男でも女でも美しい人はこの世界の貴族であり、醜いものは男でも女でもその奴隷であるという谷崎の基本哲学を信奉していますので、聖らかな血を光子と分け合った由太郎がここまで堕ちてしまうのは、なにか不自然な感じがします。

  ―もしも…海賊版『女人神聖』―

このように、大好きな作品に不満な部分があると、「どうすれば理想の展開になったのか」と、妄想は激しく刺激されます。ここからは、私が私の理想に沿って描いたもう一つの『女人神聖』をご紹介します。

『女人神聖』は、由太郎と光子の美しい兄妹と、啓太郎と雪子の醜い兄妹の物語です。「すべて美しい者は強者あり、醜い者は弱者であった。」(『刺青』)という谷崎の基本哲学からいえば、由太郎と光子がその美しさで啓太郎と雪子を屈服させ、支配するというのが基本構図となるはずです。しかし実際には、啓太郎は光子と対等に付き合って結婚し、由太郎は最後の最後で雪子に裏切られて河田家を追放されるという「ねじれ現象」が起こります。

なぜこうなったのでしょうか。光子と啓太郎が出会ったとき、光子は十五歳(数え年か)、啓太郎は慶応の学生といいますから、二十歳前後でしょうか。
啓太郎はこの美少女に一目で夢中になってしまいます。啓太郎は卑劣にも河田家の長男という立場と年齢差をうまく使って、美醜の隔絶という越えられるはずのない壁を越えて、光子を手中にしてしまいます。
そして、由太郎を召使のような境遇に貶めた張本人も、啓太郎です。つまり、由太郎と光子の「美」が啓太郎の「権力」を潰しきれなかったことが、ねじれた結末につながったのです。

もしも、二組の兄妹の出会いが、もっと早かったらどうなっていたでしょうか。そう、あの物語冒頭に描かれた、可憐で仲睦まじい双子のような子供時代の由太郎と光子の純粋無垢な美しさになら、河田家の人々ももっと素直に膝を屈したのではないでしょうか。
河田家の中で、沢崎家の父が亡くなる以前に、沢崎家と接触を持っていたのは、啓太郎と雪子の母(由太郎と光子の伯母)だけです。
この人は本当に鋭い人で、沢崎家の美しい兄妹を自分の子供らに近づけると、ろくなことにならないと察知して、あえて接触する機会を避けていたようです。

そこで、沢崎家の父の不幸が、もう少し早く、物語冒頭の由太郎十三歳、光子十一歳の頃に訪れていたらと仮定してみます。
「兄の由太郎が位牌を捧げ、妹の光子が香炉を抱えて先頭に立つと、二人の顔立ちの美しさが一段と冴え渡って、一層可憐の情を増した」という葬式の様子を見た河田夫人はすっかり心を奪われてしまい、不器量な割りに恵まれた自分の子供らより、その美しさに不釣合いな境遇に堕ちた由太郎と光子の方が気がかりになる奇妙な感情を覚えます。
食卓で啓太郎が自分の手料理をうまそうに食べているとき、「由太郎はひもじい思いをしていないだろうか」とか、雪子に新しい着物を買ってやるとき、「ああ、これが光子だったらどんなに綺麗だろうか」と、ついつい思ってしまうのを抑えられなくなります。
そこで、正月やら、祭りやら、何かと理由をつけて沢崎兄妹を三田の河田邸に招き、歓待します。
かくして、二組の兄妹は出会ってしまうのです。

この頃、雪子は光子と同い年の十一歳、啓太郎は十五六才の思春期の少年です。
原作では啓太郎は由太郎を疎んじ、雪子は光子に反発しますが、この年代では同性の美しさに対する警戒心も備わっていないでしょうから、無防備な河田兄妹の心は、「絵草紙から抜け出たような」美しい兄妹の魅力に抗う術もなく、虜になってしまいます。
その様子は例えばこんなふうに描かれます。

「兄さん、今度は不動様の縁日に、光ちゃんたちを誘って行きましょうよ。」
雪子は由太郎と光子に会いたくて仕方がないのだが、自分独りでは流石に植木店の沢崎の家までは行けないので、何かというとこんな風に兄に持ちかける。
「仕方ないなあ。」
こんな事を言いながらも、その実啓太郎も麗しい従兄妹に会いたいものだから、しょっちゅう妹を連れて、遥々植木店の沢崎家を訪問し、二人を連れ出した。
啓太郎と雪子が一緒の時でも、由太郎と光子はいつもと同じように仲良く手を繋いで歩いた。雪子は光子の少し後ろを歩き、いつも二人の機嫌を伺うように話しかけていた。
啓太郎はというと、三人を見守るようにさらに後ろから付いて歩いていた。幼い三人を後ろから見ていると、楽しい子供の世界から自分だけが仲間はずれにされたような、切ない気持ちになった。無邪気にはしゃいで、由太郎と光子への憧れを隠そうともせず、まるで道化か幇間のように振舞う妹が羨ましかった。
ふと、三人が野良犬をからかっているのを見て、啓太郎に奇妙な考えが浮かんだ。俺が野良犬のまねをして四つん這いになってワンワン吠え出したらどうだろう。あの可愛い兄妹は、俺をからからかってくれるだろうか。整った口の端を上げて、上品にコロコロと笑うんだろうか。大人の体になってしまった俺が、あの楽しそうな子供の輪の中に入っていくにはそうするしかないんじゃないだろうか、と。
その時もう少し陽が傾いていて、もう少し人通りが少ない場所であったら、啓太郎は考えを実行に移していたかもしれない。
その頃から啓太郎は四六時中従兄妹の事を考えるようになり、学業にも野球にも身が入らず、付き合っていた女学生も酷くつまらない、くだらないもののように思えてきてあっさりと捨ててしまった。

さて、河田夫人は、さっさと沢崎の母を再婚させ、由太郎と光子を河田邸に引き取ります。
河田家の主人も、由太郎と光子の凛とした美しさに内心心酔しており、また、最近何をやらせても振るわない息子に失望していたこともあって、二人を正式な養子にします。啓太郎と雪子は歓喜し、ますます卑屈な態度をもって由太郎と光子を迎えます。
憧れの従兄妹と一つ屋根の下暮らすことになった啓太郎の心理は、次のように描写されます。

啓太郎は、前から何となく思っていた考えを、最近になって確信するようになった。この河田の家も財産も、そもそも由太郎と光子のために用意されていた物なのだと。この壮麗な美術品を眺めて絵になるのは、俺のにきび面か、錦絵のような由太郎の横顔か。この高価な椅子に腰掛けるのに相応しいのは、幼児のような妹の足か、スラリと伸びた光子の足か。これほど明らかなことはあるまい。
では、俺と雪子は何の為にこの家に生まれたのか。それは、俺の心に芽生えている気持ちを内省してみれば分かる。俺達は、由太郎と光子を迎えるためにこの家に付属して予め用意されていた召使なのだ。そうでなければ、俺のこのどうしようもない卑屈な欲望をどう説明すればよいのだ。

時は過ぎ、由太郎、光子、雪子も思春期を迎える頃、啓太郎は何とか大学へ進学しますが、ますます美しくなる光子への歪んだ慕情を募らせ、Onanismに目覚めて光子の手巾やら履物やらを物色するようになります。それを咎めた雪子との会話です。

「兄さん、いい加減にそんなことはお止めなさいな。そのうち光子さんにも勘付かれるわよ。」
「ふん、あの人は当の昔に俺の本性には気付いているさ。初めて会った時から、俺はあの人に対してこういう卑しい欲望を抱いていたんだ。そうして、そんな気持ちをいつも見透かされているような気がして、まともに目を合わせることもできやしなかった。その癖隙を見てはちらちらと盗み見ているんだから、こそ泥の習性なんぞ、いつも目の当たりにしているようなもんさ。お前だって、光子さんの爪を研いだ後、爪の粉を小瓶に集めていたじゃないか。」
「それはあんまりキラキラして綺麗だったから、捨てるのがもったいなくて取って置いただけだわ。ずいぶん昔の話しだし、それに、兄さんみたいに卑しいことに使ったりはしないわ。」
「俺はもう、昔のように無邪気にあの人たちの召使でいることができなくなってしまったんだ。由太郎もあちこちで色んな男や女を弄んでいて、もう俺の相手なんぞしてくれなくなった。お前もいつまでも光子さんの女中のようなことをやっていられるわけじゃない。俺達にとっちゃ今もあの人達が全てだが、あの人達にとっちゃ俺達にさせる用事はもう済んでいるのさ。俺達が生まれた目的はもう果たされたんだから、これから残りの人生はただ今までの思い出だけを頼りに生きていかなきゃならん。最後の別れの慰みに、これくらい頂いたって罰は当たらないだろう。」

啓太郎は盗んだ光子の「思い出」と僅かばかりの金を握り締めて自ら河田家を飛び出し、そのまま行方をくらまします。河田の主人は啓太郎を勘当して代わりに、慶應に進学して、ギリシアの彫像のように男らしく成長した由太郎を跡取りに据えます。
光子は数多の求婚者の中から、美しい財閥の長男を選び、「盛大なる華燭の典」を挙げます。
雪子はそれを見届けてから、かつて河田邸の書生をしていた法学士の下に嫁ぎます。最後にその後の啓太郎の、彼に相応しい境遇が語られます。

下賎な身分となって帝都の片隅に暮らす啓太郎は、年若き貴婦人となった光子の活躍を耳にするたび、幸福な少年時代を懐かしみ、光子の「思い出」をひしひしと抱きしめた。

以上が私の海賊版『女人神聖』です。この海賊版に登場するスクビズムの諸形態は、いずれも別の谷崎作品に登場するものです。
いずれの形態も、美しい人への憧れと、醜い自分に対する卑下をたまらず体で表現した(したくなった)ものであると私は考えていますので、啓太郎の光子に対する気持ちの表現として自然と出てきてしまいました。
スクビズムの諸形態については、また別の記事で詳しく紹介していきたいと思います。
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谷崎の耽美主義

耽美派の作家と評される谷崎。
辞書によると、耽美主義とは、
「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮」
を指すとのこと。つまりは
「世の中で価値があるのは、美しいことだけ」
という考え方でありましょう。
谷崎の場合、その"美"とは、瑞々しい林檎の美や山紫水明の美ではなく、レーシングカーやサラブレッドの美でもなく、あくまでも人の肉体的な美に尽きるのですね。

美しい肉体への憧れがエロスと結びつくとき、"美"とは異性そのものの象徴となります。
そして、
「このような圧倒的な"美"の前に跪き、わが身を低くすることによって、その"美"の至高を讃えたい。その"美"に心も体も捧げつくして仕えたい」
と願い、かつ、そう願うことで性的興奮を惹起するという性向が、マゾヒズムというものでございましょう。

そうだとすると、そこで讃えられるべき"美"とは、ホモセクシュアルやバイセクシュアルを前提にしない限り、異性の肉体的な美に限られることになります。

ところが、この作品や、谷崎序論(1)で紹介されている「創造」では、異性たる女性の美のみならず、同性である男性の美も讃えられています。

これは、「美しい異性の相手たるにふさわしいのは、美しき同性である」と規定して、美しくない自己(を投影した登場人物)を両者の下位におき、そのことによって性的興奮を得る、トリオリズムの一形態とみるべきなのでしょうか。

「創造」においては、そうだと言えるかもしれません。
ところが、「女人神聖」においては、「美しいカップル」は互いを異性として見ることを予め封じられた兄妹です。後に兄が妹に対して「嫉妬と崇拝の入り混じった感情」を抱くようになるにしても。

また、「美しき兄」は、ついにはその上位者たる立場から放逐され、永遠の下位者たるべき啓太郎が上位者たる光子と結ばれてしまうのですから、
「上位の異性を含むカップルに、下位者として接することに悦びを見出す」という、トリオリズムの視点から見ようとすると、その枠組みから外れてしまうことになります。
「啓太郎が、光子と結婚するというのはどうにも不自然で、納得できません」
とのご高説のとおりです。

ご紹介の「女人神聖」をあくまでもマゾヒズム文芸として見た場合、このあたりがよくわからないのでございます。

ひょっとすると谷崎は、マゾヒズムとともに、それとは別個のものとして(つまり、彼のマゾヒズムと幹を同じうする別の枝として)、純粋に人間の肉体の美を讃えたかったのではないだろうか、なんて気もするのでございます。

to馬山人さん

コメントありがとうございます。
初めて頂いたコメントがあまりにも深く、鋭い内容でしたので、いっそう感激しております。
お返事を書いてみました。本文同様、自分の性癖に正直に、かつなるべく論理的に書いたつもりです。あわせて参考にしていただけると幸いです。

さて、馬山人さんは、「女性上位時代」の管理人たる馬仙人その人とお見受けいたしました。人違いでしたらごめんなさい。御本尊でいらっしゃいましたら、本当に本当に光栄です。初めて貴サイトを拝見したときの衝撃は本当に忘れられません。これからも御指導よろしくお願いいたします。

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ご指摘の通り、谷崎が至高の価値を置いている「人間の美」の中心は、異性である女性の美です。作品の中で崇拝対象となっている人物も、ほとんどが女性です。にもかかわらず、私が序論で崇拝対象には美しい男性も含まれることを強調したのは、女性一般を上位に、男性一般を下位に置く「女尊男卑」の世界観と、谷崎の世界観とを、似て非なるものとして区別したかったからです。谷崎文学は、いわば「美尊醜卑」の世界です。その「美」の中心に、異性の肉体のイメージがあり、「醜」の中心に自己認識があるのだと思います。

谷崎作品で崇拝の対象となる美しい男性は、ほとんどが美しい女性を含む集団の一員として登場します。崇拝対象が一人の異性ですと、崇拝対象との関係は合意の上に成立する個人的な上下関係という感覚が付きまといますが、崇拝対象が集団となることによって、生まれ持った「人間の格」の違いに基づくより安定した上下関係を感じられます。この上位者集団の最も典型的な例がトリオリズムの上位者カップルです。上位者集団を人種に拡大するとアルビニズムになります。そして『女人神聖』においては、決して典型的とはいえない兄妹が、見事に「上位者集団」として描かれていると思うのです。

『女人神聖』にはまずこの上なく美しい兄妹が登場し、読者を魅了します。私などはこの時点で、「いつ苛めてくれるんだろう…」と期待してしまいます。そこに、醜い兄妹が登場します。まるで光と影のような対比です。そして、不自然にも富と権力を持ってるのは醜い兄妹の方です。私は、この構図を認識したとき、「美しい兄妹が醜い兄妹を甘い毒牙にかけて富と権力を奪うのか、はたまた醜い兄妹の方が進んで美しい兄妹の足元へそれらを捧げるのか…」という方向に妄想を爆発的に膨らませました。この心理作用は、明らかにマゾヒズムです。そしてこれは、作品を契機に私が我田引水的に構想したというよりも(そこまでの構想力がありません。)作品の延長上に自然に導かれた妄想という感じがします。その後の本作の展開は期待通りにいきませんでしたが、ここまで妄想が膨らんでしまうこと自体が、素晴らしいマゾヒズム文学であると考え、紹介いたしました。

改めてご挨拶

白野様

これは失礼いたしました。
先ず最初に自己紹介とお礼を申し上げるべきでした。
"馬山人"は、サイト「女性上位時代」のお相手を務める"馬仙人"の、代理人でございます(藁)。
弊サイトへのリンクを貼っていただいてありがとうございます。

ネットの世界では、とかく実践の視点から語られがちなマゾヒズム。もとより、有りていに言えば特殊な性慾に関する事柄ですから、実践は大いに結構です。
しかしながら、マゾヒズムとは実践に尽きるものではありますまい。
通例の性を扱った文学作品を「文学」として真面目に議論する場はいくらでもあります。
それと同じように、マゾヒズムを文学にまで昇華した作品や人について、文学として真面目に議論する場があってもよいのではないでしょうか。
そのように考えますので、マゾヒズム文学をマゾヒストの読者の視点から紹介する貴サイトにリンクを張っていただきましたことを、とても嬉しく、また光栄に存じております。

弊サイトでも、沼正三のマゾヒズムについての稿を載せるべく、去年より準備を進めておりますが、何しろぐーたらが身上ゆえ、中々進捗いたしませぬ。
沼正三のマゾヒズムを解するマゾヒストの論には、共通するところが多くなるのは避けられませんが、一方、沼正三ファンの見解や感性にも、人によって異なる所があろうかと思われます。
「なるほど、こういう見方、考え方もできるのか」
と、新たな視点に気づいたりするのは、沼への理解を深める上で大いに資するものでございましょう。

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16日(木)コメント欄ご高説を拝読して

<私が序論で崇拝対象には美しい男性も含まれることを強調したのは、女性一般を上位に、男性一般を下位に置く「女尊男卑」の世界観と、谷崎の世界観とを、似て非なるものとして区別したかったからです。谷崎文学は、いわば「美尊醜卑」の世界です。その「美」の中心に、異性の肉体のイメージがあり、「醜」の中心に自己認識があるのだと思います>

とのご高説に接し、なるほどと、腑に落ちる心地がいたしました。
"「美尊醜卑」の世界"とは、実に分かり易い表現でございます。

to 馬山人さん

お返事ありがとうございます。
初めて貴サイトを拝見したのは、5年位前だったと思います。沼・谷崎を、マゾヒストの視点から語っている文章を、そのとき初めて目にし、強い衝撃を受けました。
その仙人にコメントを頂けるとは、本当に光栄です。

ブログを始めても、しばらくはそんなに人目につかないだろうと思っていたのですが、つい先日も大好きなトリオリズムのサイトの管理人さんに、「注目している」とのお言葉を頂き、さらには馬仙人にコメントを寄せて頂いたので、驚いています。
これからも気負わず、精一杯自論をぶつけていきたいと思いますので、ご指導よろしくお願いします。

仙人の沼正三論、楽しみにしております。

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