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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

女の忘却―僕はここにいるよ

「感情の一方通行」の一つ典型的な類型である、崇拝対象からの忘却を扱っていきます。

崇拝対象である女性側から男性への感情がゼロであることはどういうことでしょうか。
彼女にとってその男が「いる」ことと「いない」ことがまったく同じであること。
「いる」ことをまったく意識しない状態。
その状態が続くと、女は男が「いる」ことを忘れます。
これによって、ようやく女にとって男の価値が完全に無、ゼロである状態が完成するのではないでしょうか。

人の存在を「忘れる」ということは、最大の侮辱の一つでしょう。
被害者は加害者に対して加害行為を忘れるな、と訴え続けます。
社会活動家は恵まれない人々の存在を忘れるな、と呼びかけます。
子供は母親に自分の存在を忘れてほしくなくて泣き叫びます。
死者を弔う時には「決して忘れません」と誓います。
『大和物語』に収録された古典説話の悲劇「蘆刈」でも、妻は前夫のことを忘れていません。
ここが物語の救いになっています。
「忘れない」ことは救いです。
逆に「忘れられる」ことは救いを断たれた絶望です。
ゆえに、マゾヒストはそれをドミナに求めるのです。

凌辱した相手を忘れ、加害行為に何の罪悪感もわだかまりなく幸せに暮らすということは、相手の価値をまったくのゼロと認めていること。
逆にドミナにそれを求めること、美しいドミナの幸福な生活の中に自分に対する(望み通りの)加害行為に対する罪悪感やわだかまりのような不純なものが残ることを嫌う、完全な自己犠牲。
これこそが、「愛情の一方通行」を求めるマゾヒストの純粋主義ピュアリズムの完成形ではないでしょうか。

『ある夢想家の手帖から』第九二章で沼正三はザッヘル・マゾッホの短編『ポンパドゥールの奇行』を紹介しています。
絶対王政期のフランスでルイ15世の愛人として権勢を誇ったポンパドゥール公爵夫人へのオマージュ作品です。
デフォルジュという詩人がマルネヴィル家の令嬢アドリアンヌの歓心を買おうとして、彼女が嫌っているポンパドゥール公爵夫人を風刺する詩を作って頒布します。
ところがその直後、後の海軍大臣モールパ公爵との縁談が持ち上がり、アドリアンヌは公爵に心変わりしてデフォルジュを裏切ります。
「今はもうあなたよりも、公爵のほうが好きなのよ」
やけになったデフォルジュが公爵に喧嘩を売ると、アドリアンヌはデフォルジュを懲罰することを決めます。
アドリアンヌはポンパドゥール公爵夫人に風詩の作者がデフォルジュであることを証拠とともに密告します。
ポンパドゥール公爵夫人は司法に介入し、デフォルジュは終身刑を言い渡されて、犬小屋のような檻に収監されます。
アドリアンヌは首尾よく公爵と結婚し、公爵夫人となります。

デフォルジュが、檻の中に入れられたまま、さらし台の上に載せられ、パリの民衆の中の賤民たちが、この哀れな風刺詩人を、棒で突いたり、腐った林檎だの、ふんだのをぶつけたりした日、その同じ日に、モールパ侯爵とマルネヴィル令嬢の結婚式が、ノートルダム教会で挙行されたのは決して偶然ではなかった、公爵がわざとその日を選んだのだった。不幸な詩人は曝し台の檻の中から、四方ガラス張りの透明な馬車が、教会から帰っていくのを見た。その中には、彼の恋人が、美と幸福に輝きながら、良人おっとの横に座っていた。――アドリアンヌはもちろん彼を見なかった。彼女は、あまりに幸福だったので、自分の横に座っている美しい貴族の良人以外には、とても気がつかなかったのだ。


ポンパドゥールとアドリアンヌにとってはデフォルジュに対する懲罰はここまでです。
2人は幸福な生活の中で、デフォルジュの存在そのものを忘れていきます。
しかし、デフォルジュの苦痛と屈辱はここからはじまるのです。
この鮮やかな対比コントラストが、この作品のキモですね。
無邪気なアドリアンヌの「裏切り」、貴婦人ポンパドゥールの「残酷」と「驕慢」も味わい深く美しいのですが、その後のこの2人の公爵夫人によるデフォルジュの存在の「忘却」はそれを圧倒的に上回るマゾ的な快楽を喚起します。
数年後のある日、ポンパドゥールはたまたま檻の鍵を見つけたことをきっかけにデフォルジュのことを「思い出し」、気まぐれにデフォルジュを放免します。
そしてまたすぐ、ポンパドゥールはデフォルジュのことは忘れ、今度は2度と思い出す事がないでしょう。
デフォルジュが放免されたことをきっかけに、アドリアンヌもほんの、ほんの一瞬だけデフォルジュの事を思い出します。

人に手伝ってもらってやっと檻から這い出た彼は、二日たって、松葉杖をついて街に立った、そのとき、たまたま、海軍大臣モールパ公爵の馬車が通り過ぎた。車中にはアドリアンヌがすわっていて、騎馬で馬車の横を馳せる若い士官と話をしている。
「アドリアンヌ!」詩人は叫んだ。若々しい公爵夫人は、自分の名が呼ばれるのを聞いて、道端の乞食に冷淡な一瞥を与えた。――それがデフォルジュであることを彼女は認めた――そして、さげすみの笑みを浮べると、その視線は、ふたたび士官のほうに戻された。


なんと美しい対比でしょうか。
これだけなんですね。
長い間忘れていたデフォルジュが一瞬視界に入り、思い出し、そしてまた忘れる。
アドリアンヌにとってデフォルジュはそれだけの存在なんですね。
この完全な感情の一方通行が切ないじゃないですか。
ポンパドゥールとアドリアンヌの「忘却」について沼は次のように説きます。

人一人をこれほどの酷刑に処しておきながら、それが心になんのわだかまりも残してないのである。
これは、彼の人格が彼女にとってゼロであることを示している。
毎日憎しみを新たにし、毎日新たな凌辱を加えるというのは、ある意味では、相手の人格を無視しえず、それを克服しようとすることで、そのこと自体相手から影響を受けていることになる。
真の人格無視は、相手を忘却することに極まる。
それこそが真の凌辱であることが少なくないのだ。



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「ポンパドゥール公爵夫人」フランソワ・ブーシェ

『手帖』からもう一例。

第六二章および第六三章では、フランス植民地時代のアルジェルリアにおいて、富豪だが醜い小男のアルジェリア人が、植民地政府官僚の妻であるフランス人女性に恋し、その女性が自分を「飼養する」ことを条件に莫大な財産のすべてを贈与したエピソードが紹介されています。
沼はここから妄想を膨らませ、実際にフランス人夫妻がアルジェリア人を「飼養」し、望みどおりsouffre douleurなぶりものにした上で、彼の飼養をサーカスに委託した末の「忘却」場面まで記述しています。

十年もたって、世界漫遊中の富豪夫妻は、東洋のある都市でサーカスを見物し、そこで美少女の鞭に追われて犬のような芸をする矮人こびとを見出す。矮人こびとは富豪夫人を直ちに認識するが、夫人はもはや、富を彼女に贈った贈主を忘れている…

愛情の一方通行

男性マゾヒズムの純粋性
「SMは男女相互の愛情表現の一つの形」という説を聞くことがあります。
心の通った男女の信頼関係に基づく究極の愛の形だと。
中には、『痴人の愛』や『春琴抄』を持ち出してそれを例証しようとする人もいます。
しかしこの説は、男性マゾヒズムの側から見たら、何か不純なものを感じずにはいられません。
ドミナの側に自分への愛情ないし何らかの関心を要求するのは、男性マゾヒズムのピュアネスには本来不要なものです。
「必要ない」だけではなく、女性側から自分への関心は、かえって不純物となり、これがまったくゼロとなったとき、自己犠牲としての男性マゾヒスムの完全に純粋な結晶は生まれるのです。

『ある夢想家の手帖から』第六四章「愛情の一方通行」付記において沼正三は、田沼醜男から教わった概念として、「愛情の一方通行」を紹介しています。
「愛情の一方通行」は、マゾヒズムの男女関係をあらわした表現で、もちろん男から女への強い愛情と女から男への愛情のなさのセットを指しています。
女性側の「愛情のなさ」の中には、「裏切」「冷淡」「忘却」も含まれます。
女が男を誘惑しているときでも、それが男に対する愛情に裏打ちされず、なんらか別の目的のために男を騙しているのであれば、「愛情のなさ」に含まれます。
さらに沼は、(畜化願望者らしく)ペットに対する愛情や器物に対する愛着と同様の関心が女から男にあったとしても、「愛情の一方通行」は成立するとしています。
とはいえ、それとて女の関心にはあたりますから、そういった関心すらもないほうが、やはり純粋な「愛情の一方通行」と言うべきでしょう。

無題

当然ながら、女の男に対する恨み、憎しみ、恐怖、嫌悪といった負の感情も、「愛情の一方通行」にとっては不純物となります。
「愛情」に対立する概念は「無関心」ですから、男の「愛情」に報いるのはそういった女の負の感情ではなく、「無関心」でなければなりません。

では、女の男に対する、サディスティックな加虐願望はどうでしょうか。
これとて、女性の側から男性の側に向かう関心の一つの形態にすぎないわけですから、純粋な「愛情の一方通行」にとっては不純なものと言うべきでしょう。

沼の盟友だった森下高茂は当時、マゾヒズムにおける男女関係には男女間の合意が必要であると説いたようで、沼はこれに対して一般論としては誤りであり、「相互の精神的愛情と共感があらかじめ存した上でならば、ほとんど、次元の低い「性的前戯としてのマゾ・プレイ」に近くなってしまう」と主張しています。

自己犠牲の純粋主義
谷崎潤一郎は、徹頭徹尾この「愛情の一方通行」を愛し、この男性マゾヒズムの純粋性をこの世で最も美しい感情として描いた作家です。

わたしが昔からあなたを愛して居なかったのに不思議はない。
しかし、あなたがわたしを愛さぬと云う法はありませぬ。
(『麒麟』)


それが最もよく現れた作品は間違いなく傑作戯曲『恋を知る頃』でしょう。

僕はお前が死ねと云へば、何時いつでも死ぬよ。


という、十二三歳の少年・伸太郎の、年上の少女・おきんに対する、一切の見返りを求めない純粋な恋。
そして、恋人と幸せになるために邪魔な伸太郎を殺害するおきん。
おきんにとって信太郎の命を奪うことは、邪魔な物をどけるような、埃を吹き払うような行為にすぎません。
この完璧に完全に純粋な「愛情の一方通行」こそ、谷崎のマゾヒスムの真髄です。
本作についてはいずれ作品論で詳しく論じますが、この戯曲の上演が計画された際、検閲にかかって上演が中止となった経験を、怒りを込めて書いた小説『検閲官』にも、『恋を知る頃』に込められた谷崎のマゾヒスムの真髄を伺うことができます。

信太郎と云う主人公が、十一二歳の子供でありながら召し使ひの女に恋する、その女には別に思い合つた男があつて、その男とぐるになつて信太郎を殺して家の財産を横領しようと企てゝ居る、それを知りつゝその女の手に甘んじて殺される、――殺されるのが何よりも嬉しい、――此の少年の心の中に燃えて居るものは、此の世の中の理屈では解釈の出来ないものです。(中略)一途に或る物に憧れて居る心持ち、死んでもなお憧れてまない心持ち


一度でもほんたうの恋を経験したことがある者は、誰しも人間の心の奥には肉欲以外の精神の快楽があることを、無窮の生命の泉があることを疑ふものはないからです。
淫欲が激しく起これば起こるほど、その淫欲の蔭に却つて高潔なインスピレーションが湧き上がるのを覚えるからです。


この純粋主義ピュアリズムは、前述した『手帖』第六四章付記の最後の記述にも符合します。

自己の実存ダーザインを問われるような転落感、死の本能に支えられるニルヴァーナの静悦こそがマゾヒスムの理想形態だと考える


伸太郎のおきんに対する気持ちは、譲治のナオミに対する気持ち、佐助の春琴に対する気持ちと通底しています。
谷崎作品の主人公はドミナの前ではみな、伸太郎と同じく初恋を知った少年の心に退行しているのです。
「SMは男女相互の愛情表現」「相互の信頼を確かめ合うもの」などと説くのはよいですが、そこに安易に『痴人の愛』や『春琴抄』を持ち出すことには、私は強い違和感を覚えます。

谷崎作品に見られる、味わい深い「愛情の一方通行」をもう少し見ていきましょう。

男性側の愛情・崇拝の表明の一例です。

「己おれは自分の為めにお前の行動を束縛したり、干渉したりする気はないんだよ。己はお前を心の底から信用して愛して居るよ。お前に不満足を与へたり、不自由を与へたりすれば、己だってやっぱり好い気持ちはしないんだ。お前がしたいと思ふ事は何でもするがいヽ。好きな人ならいくらでも交際するがいヽ。ただ己がどのくらゐお前を愛して居るか、それさへ解ってくれヽば、別に何も云ふ事はない。
己を幸福にするのも、不仕合はせにするのも、みんなお前の心一つにあるんだ。お前は己を殺す事も生かす事も出来るんだ。」(『春の海辺』)


「あなたは僕に対してどんなにでもえらくなれます。神にも、悪魔にも、暴君にもなれます。あなたと別れると云ふ考へが、僕には既に死ぬよりも悲しい事になつて了つたんです。」
「三千子さん、どうぞあたしの命をあなたの自由にして下さい。あたしはどんな目に会わされても、あなたに捨てられさえしなければ仕合せです。幸福な人間です。……」(『捨てられる迄』)


下賎げせんの女子供ですら、言葉を交わすのを汚らはしいと思うて居る私へ、雲の上人のあなた様から其のやうに仰せ下さるのは、何だか夢のやうでござります。木で彫つた御仏の像が口をきくより、私には余計不思議でござります。」(『法成寺物語』)


華魁の為めに働くことなら、私はたとい命を捨てゝも惜しいとは思いません。かなわぬ恋に苦しんで居るより、私はいっそ、華魁がそれ程までに慕って居るあなたの為めに力を貸して、お二人の恋を遂げさせて進ぜましょう。(『人面疽』)



一方、自分を崇拝する男に対する女性側の扱いはこんな感じです。

「お金があるうちだけは、奴隷にでも何でもして上げてよ。それから後は知らないけれども。」(『饒太郎』)


「ひどい目に遇ったっていいじゃないか、それがパパさんは好きなんじゃないか。さあ、二百圓置いておいで」(「赤い屋根」)


「やらせてくれと云うのならそれは誠に有難い、篤志な事だ、ではやって貰いましょう」というのが彼女の態度であった(中略)馬鹿な男だが別に損にもならないから、まあ好い加減に相手になって置いてやろう―ーそう云う腹でいたのだ(『アヹ・マリア』)


隠居が死ぬと程なく彼女は少なからぬ遺産を手に入れて、舊俳優のTと結婚しましたが、恐らくあの時分から人目を忍んで其の男に会って居たのでしょう。
搾り取るだけのものは搾り取ってしまったし、(中略)老人の死ぬのを待ち切れずにそろそろ本性を露わして来たのでした。(『富美子の足』)


「死ぬなら勝手にお死に」(『人面疽』)


男性側からの、ねっとりとまとわりつくような、幼児が母にすがりつくような、信者が神仏を拝み倒すような卑屈な愛情・崇拝の表明と、女性側の、ごみや塵埃を扱うような優雅な冷淡さの対比、まさに「愛情の一方通行」が、谷崎作品の男女関係を貫く基調になっています。
それはひとえに、『検閲官』で表明した「一途に或る物に憧れて居る心持ち、死んでも猶なお憧れて已やまない心持ち」の純粋主義ピュアリズムを、徹頭徹尾表現した結果に他ならないのです。

谷崎潤一郎のトリオリズム(1)―『饒太郎』論~新たなる快楽の扉


告白の書 
今回は、谷崎が自分の性癖と文学の本質を洗いざらいぶちまけた、自伝的小説『饒太郎』をご紹介したいと思います。
谷崎のマゾヒズムおよびマゾヒズム文学の歴史を理解する上では、絶対に読む必要のある本当にすごい作品です。
発表は大正三年、石川千代と最初の結婚をする前の独身時代の作品で、おおまかには初期の作品といっていいでしょう。本作は、文壇デビュー直後に瞬く間に文壇的地位を確立した当時の谷崎の生活と、そこを起点に、半生を振り返り、自分の性的嗜好についての理論と実践をぶちまけている告白の書です。

主人公は、一年半ほど前から「文壇に盛名を馳せて」いる、泉饒太郎じょうたろうという名の作家です。
(余談ながら、この「泉饒太郎」という人物名は、谷崎の敬愛する文豪:泉鏡花の本名:泉鏡太郎からとられていると思われますが、鏡花をモデルにした人物ではなく、谷崎自身をモデルにした人物です。)
饒太郎の性的嗜好についてははっきりとこう書かれています。

つまり正直に簡単に打ち明けて了えば、彼は生来の完全な立派な、そうしてすこぶる猛烈なMasochistenなのである。


―即ち彼はただに異性から軽蔑される事を喜ぶのみならず、出来るだけ冷酷な残忍な取り扱いを受けて、むしろ激烈な肉体的の痛苦を与えて貰う事を、人生最大の歓楽として生きて居る人間なのである。


饒太郎は自らの性的嗜好について、「恐らくその性癖は彼の生まれない以前から、運命付けられて居たのかも知れない」と、先天性のものであることを推測しています。
饒太郎がそれを初めて自覚したのは、「まだ六つか七つの幼年時分」(当時は数え年が一般的)に、歌舞伎を観劇した際、公暁に切り殺される三代将軍源実朝を「非常に羨ましく」感じたときです。
饒太郎は学校の「腕力の弱い容貌の美しい或る友達」が公暁役になり、自分は実朝役になって切り殺される光景を想像し、次のような体験をします。

までかつて経験した事のない快感が、一種不思議な不可抗力を以って胸の奥にどよめくのを覚えた。


同好の者であれば皆覚えのあるこの感覚。
最初に自覚した年齢は人それぞれ違うでしょうが、やはりかなり幼少のときからこの快感を知っていた人が多いのではないでしょうか。
谷崎はマゾヒズムという性癖が先天性のものであると了解していたようです。

妄想の日々
饒太郎のマゾヒズムは十一、二歳になるころには、いよいよ盛んになります。

惨酷にいじめられる聯想れんそうなしには生きて行くことが出来なくなって、始終うとうとと荒唐無稽な芝居の筋書きを胸に描いては人知れず恍惚エクスタシイの境に入った。


「筋書き」とはたとえば、隣の家の「お芳っちゃん」という十四、五歳になる娘のお供をして無人島に配流され、「一生自分は忠実な奴隷となって娘の頤使いしに甘んじつゝかしずいて居る場面」だったり、「おせん」という小間使いの娘に「絞め殺されて、眼球を抉られ四肢をばくせられ、死体となってたおれて居る自分の姿を想像」したり(この妄想は戯曲の傑作「恋を知る頃」に結実します)、というものです。
饒太郎が妄想の中で崇拝したのは「身分の高い、美しい男女」であったり、逆に「下賎な人間にいじめられるほうが却って余計面白い」と感じることもありました。
後に発表される、少年時代を回想した自伝的小説「神童」と「鬼の面」では、ちょうどこのころから自慰行為の快楽に目覚め、昼夜を問わず自慰にふけったことが告白されていますから、当然これらの妄想は自慰行為を伴ったものだと考えられます。
鶏と卵のように、妄想が自慰を産み、自慰が新たな妄想を産んだことでしょう。
中学から高校、大学と進学して年を経るにつれ、饒太郎の性癖は「ますます著しく、だんだん彼の頭の働きの全部を占領するように」なっていきます。

性癖の正体―クラフト・エビングとの出会い
大学一年生のときには、饒太郎は「クラフトエビングの著作」に出会い、自分と同様の性癖を持つ人々が世界中に存在することを知ります。

此の書物の教える所に依れば、彼が今迄胸底深く隠しに隠して居た秘密な快楽を彼と同様に感じつゝある者が、世界の至る所に何千何萬人も居るのである!それ等の人々のコンフェッションや、四方の国々のprostituteの報告を読めば、彼等がどのくらい細かい点まで全然饒太郎と同じような聯想れんそうに耽り、同じような矛盾に悩まされて居るかと云う事は、怪しくもまざまざと曝露されている。


自分の性癖が自分のものだけではなく、「同好の士」が世界中にいるのだということを知ったときの感動。
現代のマゾヒストであれば相当早い段階でこれを知ることができますが、この時代にあっては、大読書人であった谷崎であったからこそ、たどり着けた真実でした。

さらに饒太郎が「クラフトエビングの著作」に出会って感動したことが二点ありました。
一つは、ルソーやボードレールがマゾヒストであったこと、ダンテ、シェークスピア、ゲーテの作品にも「著しくその傾向」があること、すなわち西洋ではマゾヒストが文豪として多く世に立ち、マゾヒスムが文学になっていることを知ったことです。

もう一点は、西洋には、マゾヒストの欲望をかなえる性産業が確立されている、ということを知ったことです。

維納ウィーンでも巴里パリでも伯林ベルリンでも欧州の著名な大都の夜の巷に色を鬻<ひさ>ぐ娼婦の間には、Boot-fetichismとかFlagellationとか、その外さまざまのMasochismに関する悪戯が、物好きな色恋の一種の形式として普通に行われて居るらしく思われる。


※Flagellationは鞭撻愛好

西洋の女性―殊にProstituteの嫖客に接する態度がいかにも活發で刺戟的で、微温的な婦人の夢想だもし難い強烈な色彩と、複雑な手段と進歩した仕組みの下に、いろいろの形式でありとあらゆる歓楽の注文に応ぜんとする露骨な気風の存する事であった。



実践と著作
ここにいたって、饒太郎の自慰用妄想は、二つの方向で饒太郎の脳内を飛び出し、外に発露していくことになります。 
一つの方向は、「著作」です。
饒太郎は自慰用妄想をそのまま小説にして文壇に挑みます。

彼は文学者として世に立つのに、自分の性癖が少しも妨げにならないばかりか、自分はMasochistenの藝術家として立つより外、此の世に生きる術のない事を悟った。


彼の所謂いわゆる文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない


これは本当にすごいことです。
西洋においてマゾヒズムが文学になっていることを知ったといっても、それを当時の日本で理解していた人はほとんどいません。
誰にも理解されないかもしれない、奇異の目で見られるだけで終わるかもしれない、弾圧の対象になるかもしれない、この国にかつて誰も通ったことのない道を「此の世に生きる術」とすることを、ここまで自信満々に決意する。
そして結果として、西洋のマゾヒズム作家の誰も得たことのない地位を日本の文壇に築いてしまった。
こんなすごい人が「先輩」であり、「祖」であることを、本当に誇りに思います。

もう一つの方向は、「実践」です。
饒太郎は妄想と自慰だけでは飽き足らなくなります。

何とかして一度はその想像を実際に経験してみたい。美しい婦人の手に依ってならば、どのような残忍な苦悩を享けても、あるいは人知れず殺されてしまっても差支えないから、一生のうちに一度此の肉体を虐げて貰いたい。


という希望を抑えきれず、ついに妄想を実践に移していきます。
谷崎は徹底的な実践派のマゾヒストです。
饒太郎がは著作と実践の関係についてこう言います。

おれのほんとうの創作は著述よりも実生活にあるのだ。己の芸術家たる所以ゆえんは、己のライフ其の物に存して居るのだ。


小説の上でその美を想像するよりも、生活にいてその美の実態を味わう方が、彼にとって余計有意味な仕事となって居る。


とあるように、谷崎にとって実践は著作のための手段ではなく目的であり、著作はその実践の記録するために生まれた副次的なものに過ぎません。
青春時代は「妄想」と「自慰」が鶏と卵となっていたのですが、作家となってからは、「実践」と「著作」が鶏と卵となり、果てのない連鎖を引き起こしていきます。

しかし当時の日本において、この「実践」は容易ではありません。
西洋のようにマゾヒストの願望を理解する「Prostitute」(娼婦)のいない東京において饒太郎は、さまざまな階級の娼婦に、余分な金を与えて頼んでみますが、「そんな恐ろしい事は出来ない」と言われ、応じてもらえません。

「どうぞ私をひどい目に遇わせて下さい。蹴ろうとなぐろうとふん縛ろうと勝手にして、死ぬような目に遇わせて下さい。」
酔いに紛れて彼は屢々しばしばそんな事を頼んで見たが、可笑しがったり気味悪がったりして真に受ける者は一人もなく


そこで饒太郎はこう考えます。

自分の気に適った女を捜し出して、次第々々に豪胆な、残忍な性質を具備するように教育するのが一番捷径しょうけいである。


この「自分好みのドミナを育成する」という発想は、谷崎の実践の基本姿勢で、これが後に「捨てられる迄」を経て大傑作長編「痴人の愛」に結実します。

若く美しい富豪の未亡人:蘭子と懇意になった饒太郎は、蘭子を理想のドミナに育成しようと試みます。
饒太郎は道化のようにペコペコと卑屈な態度をとり、自分を卑下して蘭子を賛美し、貞淑だった蘭子が次第に増長していくのを待ちました。
しかし蘭子は、ピストルで饒太郎を脅したり、平手で顔を叩いたりするまでには変化しますが、饒太郎に惚れてしまったがゆえに、それ以上饒太郎を虐待することが出来ません。
「男は女を愛し敬い、女は男を虐げ卑しめる」関係を望む饒太郎は、蘭子に愛想をつかせてしまいます。

理想のドミナ
饒太郎は友人の待合(売春斡旋業者):松村から、おぬいという娘を紹介されます。
お縫が実は相当に素行の不良な少女だと知って興味を抱いた饒太郎は、お縫を一目見ると激しく心を惹かれ、松村に大金を収めてお縫を愛人にします。
デートをしてもなかなか心を開かないお縫に対して饒太郎は、蘭子にしたような時間をかけた育成を断念し、「相手が仮面を脱ぐのを待つ迄もなく、此方から進んで、自分が憐れむべきMasochistenであると云う秘密を了解させ、邪悪なる妖婦の本領を自分の前に発揮するように頼んでみる」事を決意します。
蘭子のように打ち解けた関係を形成してしまってからでは、相手の女は自分を虐待するのが難しくなると考えたのです。
饒太郎は自分のパトロンである富豪に借りている邸宅の西洋館にお縫を連れ込み、一気に決意を実行に移します。

「どうぞお願いだから、僕をお前の乾分こぶんのように取り扱っておくれ。乾分で悪ければ奴隷でもいゝ。飼い犬でもいゝ。餌食でもいゝ。」
「たとえばこゝに麻縄と鞭があるね。一番僕を赤裸にして、此の麻縄でふん縛って、鞭でピシピシ打って貰いたいんだ。ねえ、唯其れだけで五拾円にもなるんだから、何でもない事だろう。」
「今となればもう何も彼も白状するが、僕は性来、女に可愛がられるよりも、いじめられるのを楽しみにする人間なんだ。
お前のような若い美しい女たちに、打たれたり蹴られたり欺されたりするのが、何よりも嬉しい。出来るだけ残忍な、半死半生な目に遇わされて、血だらけになって、うなったり悶えたりさせてくれれば、世の中にこれ程有り難い事はないんだ。」


饒太郎の懇願を黙って聞いていたお縫は金を受け取ると、「そんなら裸におなんなさいまし」と命じ、要求どおり饒太郎を麻縄で俯きに縛り上げてしまいます。
それを仰向けにするときも、「足で蹴返してくれゝばたくさんだ」という要求のとおりにし、饒太郎の用意していた麻薬を嗅がせて気絶させ、それを放置して出て行ってしまいます。
お縫はまさしく饒太郎が捜し求めていたドミナでした。
その後は毎日西洋館で鞭や鎖を使うのも厭わず饒太郎の要求をかなえていき、対価としてさんざん金を巻き上げていきます。

お金があるうちだけは、奴隷にでも何でもして上げてよ。それから後は知らないけれども。


といいのけるお縫は、まさしく理想のドミナです。
お縫と一致する不良少女の娼婦は、本作とほぼ同時期の出来事を別の側面から回想した「異端者の悲しみ」にも登場しますから、谷崎が実際に探し当てたドミナがモデルになっているものと思われます。

スクビズムの楽園
西洋館には饒太郎とお縫以外には女中や使用人も含めて立ち入ることがありません。
「何かが始まる時には、必ず四方の窓掛けが下がって、扉の錠が卸されるので、外から様子は解らない」状態になります。
この西洋館は、外部から物理的に隔絶されて、外の社会とはまったく異なった秩序が形成され、マゾヒストの願望を思うさまにかなえられる夢空間となります。
『少年』の塙の屋敷や、『富美子の足』の七里ガ浜の別荘と同じ、「スクビズムの楽園」です。
この楽園の中で行われていた「何か」の内容は、詳らかに描写はしてくれていませんが、マゾヒストのみなさんであれば容易に、またそれぞれの好みに合わせて想像することができるでしょう。
作品ではそれをかすかに示唆する記述がなされています。

突然室内から不思議な音響……ぴしり、ぴしり、と、あたかも鞭でなぐって居るような音響が洩れる事に気が付いた。すると翌日また一人が、ちゃりん、ちゃりんと鎖を引き擦るような響きがして、同時に床板をどたんばたんと激しく何者かゞ転がり廻って居る音を聞いた。


饒太郎はお縫のような理想のドミナをそう何度も得ることは難しいことを悟っていため、「今度のような快楽は一生に一度の快楽である」と考えて夢中になってお縫との行為にのめりこみます。

マゾヒストは快楽の追求者です。
妄想と自慰、そして実践。
マゾヒスト向けの風俗産業のない時代・国に生まれた饒太郎は、自らドミナを求めて蘭子を育て、それに飽き足らなくなるとお縫を得てついに理想の状況を手にしました。
饒太郎がたどり着いたスクビズムの楽園。
これはマゾヒスト・饒太郎の到達点のはずです。
しかし、一度理想を手にしてしまうと、しだいにそれでは飽き足らなくなってきてしまうのがマゾヒストです。
手にした理想を失いたいという願望、更なる深みへ落ちて行きたいという願望が、しだいに生まれていきます。

饒太郎は、お縫との行為を邪魔するあらゆるものを遮断する理想の楽園たる西洋館へ、自ら「侵入者」を迎えることで、新たなる快楽の地平への扉を開いてしまいます。

新たなる快楽の扉
饒太郎には、庄司という美しい青年の友人がいました。
庄司は最初、饒太郎に憧れて弟子を志願してきたのですが、庄司の美貌が気に入った饒太郎は、弟子ではなく友人として庄司と付き合うことにします。
庄司はある大きな料理屋の息子で、相当に裕福です。
そして偶然にも、お縫はかつて庄司の家で奉公しており、そのころお縫と庄司は恋仲だったのです。
お縫は庄司の家で盗みを働き、追い出されて松村に引き取られていたのでした。
饒太郎と関係を持つようになって、自由と金を手にしたお縫は、庄司とよりを戻そうと手紙を出します。
饒太郎の前で庄司によって暴露にされたその手紙の内容が、たまらなく刺激的です。

わたくしは毎日毎日邸の西洋館へ這入り込んで一日その男の相手を勤めて居ります。
明後日も午後の一時から夕方の六時ごろまで其処へ参りますから、帰りに是非是非お目にかゝりとう存じます。
(中略)
この男は少し気違いじみた人間で何でもわたくしの云うなり次第になるんです。
お金でも着物でも、寄こせと云えばいくらでも寄越すのです。
一日でも顔を見せてやらないと、すぐにわたくしの所まで迎いに来るくらい夢中になって居ります。
此の泉と云う人はほんとに奇妙な男でございます。
何でもわたくしにひどい目に遇わして貰えば其れが嬉しいそうで、毎日毎日たゞわたくしに打たれたり蹴られたりして喜んで居ります。
それ故わたくしは此の人にどんな無理な事でも命令することが出来るのでございます。

…ですから此の男に麻酔を嗅がせて眠らせて置けば、毎日でもあなたとゆっくり御話をする時間がございます。
…今に此の人は私のために裸になって了うかも知れません。
…若旦那様、私がこんな悪魔になって了った事をお許し下さいまし。
(中略)
もう此の頃は毎日毎晩、あなたのお美しい、絵のようなお顔が眼の前にちらちらして居りますのよ。


いやはや…すごいですね。
すごい。
私はこのお縫が庄司に宛てた恋文の中に、トリオリズムの快楽の真髄のすべてが見事に書き込まれていると思います。
一つは、饒太郎の感情が完全に100%お縫に向かっているのに、お縫の感情は完全に100%庄司に向かっている、この「感情の一方通行」。
二つ目は、同性である庄司と饒太郎のお縫から見た男性的魅力=人間としての価値の圧倒的な差をダイレクトに味わわされること、すなわち「美尊醜卑」のヒエラルキーを痛感させられることです。
三つ目は集団心理による加害行為の過激化です。
生来性悪で残忍なお縫ですが、饒太郎の性癖を庄司に暴露して庄司という仲間を自分の側に加えることで、集団心理を得て、饒太郎と一対一の状況よりも饒太郎に対する加害行為の精神的ハードルが下がっていることがうかがえます。
どんな世界でも3人いればイジメが成立しうるのと同じです。
強者たるお縫にさらに多数者としての増長が加わり、弱者たる饒太郎はさらに少数者としての惨めさを味わうことになるのです。
四つ目には、饒太郎を庄司との逢瀬に利用しようする「手段化」です。
金銭のみを媒介にした隷属関係とトリオリズムが非常によくマッチする(谷崎作品にはこれが非常に多いです)のは、貨幣が人類が生み出したすべての「目的」を実現しうる究極の「手段」だからです。

このお縫の手紙は、あえてドミナの側の視点から見ることで、トリオリズムの快楽の真髄を非常に官能的に詰め込んだ見事な一節ですね。

さて、饒太郎は手紙の暴露を受けて、自分とお縫の二人だけで築き上げてきたスクビズムの楽園である西洋館へ、庄司を誘い込みます。
このときの心理描写に、トリオリズムという新たなる快楽の地平への扉を開けんとする瞬間の、マゾヒストらしい「落ちていく悦び」が見事に表現されています。

青年が強者の形を備えれば備える程、彼はますますMasochismの原則に従って壓倒あっとうされる事を喜ぶように傾き始めたのである。
(中略)
饒太郎は青年を案内して西洋館へ這入って行った。
彼の胸の中には、或る新しい楽しみが密かに計劃けいかくされて居た。



そして物語は、最も美しいクライマックスへと展開します。

饒太郎はふと眼を覚ました。彼はいつも通り自分の四肢を縛られて、仰向けにかされて居る事に心付いた。
我にかえった一二分間、しきりにぱちぱちと眼を瞬いて居たが、やがてぱっちりと瞳を据えると、殆ど自分の顔の真上に二つの顔があるのを見た。
あの青年と娘が睦じそうにソオファへ腰掛けて、自分達の足元に打ち倒された彼の姿を眺めて居る。
(中略)
娘は面白そうに笑った。
「庄司君、僕は毎日斯う云う目に会わされて居るんだよ。どうだい、僕の気違いだと云うことが解ったかい。」
(中略)
「君とお縫のためならば、どんなに侮辱されても平気なもんだ。だから其の代り、二人とも僕を捨てないでくれ給え。僕は君たちの奴隷となって使って貰えれば結構なんだから。」


この構図!
スクビズムとトリオリズムの見事なミックス。
上位者と下位者のコンポジション。
谷崎の最も得意とする描写です。
上位者の顔と下位者の顔の位置関係、その隔絶を辛うじて媒介するかのような上位者の足。
着衣の上位者と全裸の下位者。
完全に自由な上位者と完全に自由を奪われた(委ねた)下位者。
短い描写で見事に表現していますね。
本当に官能的で美しいです。

谷崎のマゾヒスムは、常に西洋崇拝とトリオリズムとともにあります。
一度新しい快楽の扉を開けてしまった者は、なかなか元の部屋に戻っては来れません。
本作は谷崎が自身の性癖を余すとことなくぶちまける中で、トリオリズムという快楽の扉を開けた瞬間のあの恐ろしく、それでいて包み込まれるような衝動を、見事に表現した作品です。
繰り返しになりますが、必読中の必読です。

タグ : 谷崎潤一郎マゾヒズム小説三者関係寝取られ

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