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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

女の忘却―僕はここにいるよ

「感情の一方通行」の一つ典型的な類型である、崇拝対象からの忘却を扱っていきます。

崇拝対象である女性側から男性への感情がゼロであることはどういうことでしょうか。
彼女にとってその男が「いる」ことと「いない」ことがまったく同じであること。
「いる」ことをまったく意識しない状態。
その状態が続くと、女は男が「いる」ことを忘れます。
これによって、ようやく女にとって男の価値が完全に無、ゼロである状態が完成するのではないでしょうか。

人の存在を「忘れる」ということは、最大の侮辱の一つでしょう。
被害者は加害者に対して加害行為を忘れるな、と訴え続けます。
社会活動家は恵まれない人々の存在を忘れるな、と呼びかけます。
子供は母親に自分の存在を忘れてほしくなくて泣き叫びます。
死者を弔う時には「決して忘れません」と誓います。
『大和物語』に収録された古典説話の悲劇「蘆刈」でも、妻は前夫のことを忘れていません。
ここが物語の救いになっています。
「忘れない」ことは救いです。
逆に「忘れられる」ことは救いを断たれた絶望です。
ゆえに、マゾヒストはそれをドミナに求めるのです。

凌辱した相手を忘れ、加害行為に何の罪悪感もわだかまりなく幸せに暮らすということは、相手の価値をまったくのゼロと認めていること。
逆にドミナにそれを求めること、美しいドミナの幸福な生活の中に自分に対する(望み通りの)加害行為に対する罪悪感やわだかまりのような不純なものが残ることを嫌う、完全な自己犠牲。
これこそが、「愛情の一方通行」を求めるマゾヒストの純粋主義ピュアリズムの完成形ではないでしょうか。

『ある夢想家の手帖から』第九二章で沼正三はザッヘル・マゾッホの短編『ポンパドゥールの奇行』を紹介しています。
絶対王政期のフランスでルイ15世の愛人として権勢を誇ったポンパドゥール公爵夫人へのオマージュ作品です。
デフォルジュという詩人がマルネヴィル家の令嬢アドリアンヌの歓心を買おうとして、彼女が嫌っているポンパドゥール公爵夫人を風刺する詩を作って頒布します。
ところがその直後、後の海軍大臣モールパ公爵との縁談が持ち上がり、アドリアンヌは公爵に心変わりしてデフォルジュを裏切ります。
「今はもうあなたよりも、公爵のほうが好きなのよ」
やけになったデフォルジュが公爵に喧嘩を売ると、アドリアンヌはデフォルジュを懲罰することを決めます。
アドリアンヌはポンパドゥール公爵夫人に風詩の作者がデフォルジュであることを証拠とともに密告します。
ポンパドゥール公爵夫人は司法に介入し、デフォルジュは終身刑を言い渡されて、犬小屋のような檻に収監されます。
アドリアンヌは首尾よく公爵と結婚し、公爵夫人となります。

デフォルジュが、檻の中に入れられたまま、さらし台の上に載せられ、パリの民衆の中の賤民たちが、この哀れな風刺詩人を、棒で突いたり、腐った林檎だの、ふんだのをぶつけたりした日、その同じ日に、モールパ侯爵とマルネヴィル令嬢の結婚式が、ノートルダム教会で挙行されたのは決して偶然ではなかった、公爵がわざとその日を選んだのだった。不幸な詩人は曝し台の檻の中から、四方ガラス張りの透明な馬車が、教会から帰っていくのを見た。その中には、彼の恋人が、美と幸福に輝きながら、良人おっとの横に座っていた。――アドリアンヌはもちろん彼を見なかった。彼女は、あまりに幸福だったので、自分の横に座っている美しい貴族の良人以外には、とても気がつかなかったのだ。


ポンパドゥールとアドリアンヌにとってはデフォルジュに対する懲罰はここまでです。
2人は幸福な生活の中で、デフォルジュの存在そのものを忘れていきます。
しかし、デフォルジュの苦痛と屈辱はここからはじまるのです。
この鮮やかな対比コントラストが、この作品のキモですね。
無邪気なアドリアンヌの「裏切り」、貴婦人ポンパドゥールの「残酷」と「驕慢」も味わい深く美しいのですが、その後のこの2人の公爵夫人によるデフォルジュの存在の「忘却」はそれを圧倒的に上回るマゾ的な快楽を喚起します。
数年後のある日、ポンパドゥールはたまたま檻の鍵を見つけたことをきっかけにデフォルジュのことを「思い出し」、気まぐれにデフォルジュを放免します。
そしてまたすぐ、ポンパドゥールはデフォルジュのことは忘れ、今度は2度と思い出す事がないでしょう。
デフォルジュが放免されたことをきっかけに、アドリアンヌもほんの、ほんの一瞬だけデフォルジュの事を思い出します。

人に手伝ってもらってやっと檻から這い出た彼は、二日たって、松葉杖をついて街に立った、そのとき、たまたま、海軍大臣モールパ公爵の馬車が通り過ぎた。車中にはアドリアンヌがすわっていて、騎馬で馬車の横を馳せる若い士官と話をしている。
「アドリアンヌ!」詩人は叫んだ。若々しい公爵夫人は、自分の名が呼ばれるのを聞いて、道端の乞食に冷淡な一瞥を与えた。――それがデフォルジュであることを彼女は認めた――そして、さげすみの笑みを浮べると、その視線は、ふたたび士官のほうに戻された。


なんと美しい対比でしょうか。
これだけなんですね。
長い間忘れていたデフォルジュが一瞬視界に入り、思い出し、そしてまた忘れる。
アドリアンヌにとってデフォルジュはそれだけの存在なんですね。
この完全な感情の一方通行が切ないじゃないですか。
ポンパドゥールとアドリアンヌの「忘却」について沼は次のように説きます。

人一人をこれほどの酷刑に処しておきながら、それが心になんのわだかまりも残してないのである。
これは、彼の人格が彼女にとってゼロであることを示している。
毎日憎しみを新たにし、毎日新たな凌辱を加えるというのは、ある意味では、相手の人格を無視しえず、それを克服しようとすることで、そのこと自体相手から影響を受けていることになる。
真の人格無視は、相手を忘却することに極まる。
それこそが真の凌辱であることが少なくないのだ。



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「ポンパドゥール公爵夫人」フランソワ・ブーシェ

『手帖』からもう一例。

第六二章および第六三章では、フランス植民地時代のアルジェルリアにおいて、富豪だが醜い小男のアルジェリア人が、植民地政府官僚の妻であるフランス人女性に恋し、その女性が自分を「飼養する」ことを条件に莫大な財産のすべてを贈与したエピソードが紹介されています。
沼はここから妄想を膨らませ、実際にフランス人夫妻がアルジェリア人を「飼養」し、望みどおりsouffre douleurなぶりものにした上で、彼の飼養をサーカスに委託した末の「忘却」場面まで記述しています。

十年もたって、世界漫遊中の富豪夫妻は、東洋のある都市でサーカスを見物し、そこで美少女の鞭に追われて犬のような芸をする矮人こびとを見出す。矮人こびとは富豪夫人を直ちに認識するが、夫人はもはや、富を彼女に贈った贈主を忘れている…

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コメント

「忘却」は「感情の一方通行」の極限であり、私にとって最高のシチュエーションです。

「凌辱した相手を忘れ、加害行為に何の罪悪感もわだかまりなく幸せに暮らすということ」は、
まるで虫を踏んで殺したのと同じ、女性にとっては今後、考えもしない本当に何でもない関係の終わりだが、
追従者にとっては終わっていない永遠な懐かしさと絶望だと思います。

これは道端の砂利のように認識さえできないということ。
少なくとも記憶はしてくれる主従関係よりさらにひどい、
何と言うマゾヒストの最後の地点だとも言えますね。

本当にぞっとします。

whiteさんのコメントからは本当にインスピレーションをいただいています。
「まるで虫を踏んで殺したのと同じ、女性にとっては今後、考えもしない本当に何でもない関係の終わりだが、 追従者にとっては終わっていない永遠な懐かしさと絶望」
このあたりを表現したくて、総論のシリーズを書き進めています。
whiteさんとはマゾヒズムの根源的なところで通じている気がします。
そしてそれは谷崎・沼のマゾヒズムと通じるものです。
ザッヘル・マゾッホなどの西洋の自立した個を前提にしたマゾヒズムとは微妙に違います。
今後はそんなところも書いていきたいです。

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