谷崎潤一郎のスクビズム(1)―『少年』論~スクビズムの楽園
マゾヒズムとは、性愛の対象である女性の美しさを讃え、その他のあらゆる価値、とりわけ男性としてプライド、人間としての尊厳を女性美への憧れの前に跪かせ、踏み躙ることに快楽を求める異常性愛であると私は考えています。
具体的には、対象女性に跪いたり、足や靴を舐める。
あるいは身に着けていたもの、排泄したものを口にする。下僕や奴隷となって命令に従い、働く。
はたまた犬、馬、家具といった人間以下の物に変身し、対象女性に使用される。多種多様なこれらの願望に共通するのは、対象女性を上位に、自らを下位に置こうと志向している点です。
沼正三は、『ある夢想家の手帖から』において、こうした願望を総称して「スクビズム(succubism)」と呼び、この概念をもって、正当マゾヒズムの諸相(三者関係は除く)をすべて説明できるとまで言い切っています。
沼は、スクビズムを次のような五類型に分けて説明しています。
①肉体的下位
対象女性の体を自らの体で下から支持するという願望。例えば椅子になって腰掛けられるというもの。
②肉体的下部
足への執着。
③観念的下部A
女性器や肛門への奉仕。
④観念的下部B
分泌物、排泄物への執着。
⑤観念的下位
人間と人間との関係としての下位、あるいは文化的・知能的に劣った存在への志向。
奴隷願望、畜化願望、アルビニズムもこの類型に含まれます。
沼は、『手帖』の中のスクビズムを扱った章で、谷崎潤一郎をこれでもかと引用しています。
それくらい谷崎作品はスクビズムの快楽に満ち溢れています。本記事からしばらくは、谷崎のスクビズムの魅力を紹介していきたいと思います。
―禁じられた遊び―
「谷崎の最高傑作は?」と問われると、かなり迷ってしまいますが、「マゾヒストが最初に読むべき谷崎作品は?」と問われれば、私は真っ先に『少年』を挙げたいと思います。
『少年』は、明治四十四年に発表された最初期の短編ですが、そこに描かれるスクビズムの露骨さ、過激さは驚くべきものです。
沼も『少年』を、スクビズムのほぼ全ての類型が現れている数少ない例として挙げています。
マゾヒストがこの作品を読めば、スクビズムのオンパレードに酔いしれるとともに、自分が周りの人に隠し続けている願望を、堂々と小説にして文壇に挑み、終には近代日本を代表する文豪となった人がいたことに、大きな感動を覚えることでしょう。
マゾヒストではない人が読んだら…引くと思います。
『少年』の形式は、語り手の「私」こと「萩原の栄ちゃん」が、「取り止めのない夢のような幼心」を抱いていた十歳位の少年時代の思い出を語るというものです。
登場するのは同級で良家の子息の塙信一、信一の姉の光子、塙家の馬丁の子で餓鬼大将の仙吉です。
ある春の日、「私」は信一に塙の屋敷に招待されます。
信一は学校では苛められっこで、「私」も一緒になって苛めていたのですが、友の気品と美しさに打たれ、壮麗な屋敷を見て「遠い不思議な国に来たような気がし」て、信一に対する蔑みの気持ちはすっかり憧れに変わってしまいます。屋敷には仙吉がいて、信一は仙吉と「私」をおもちゃにして、さまざまな乱暴な遊びをします。
仙吉は信一の命令に一切逆らおうとせず、乱暴な虐待もされるがままです。「私」もしだいに信一のおもちゃとして乱暴に苛められることに、快感を感じるようになります。
光子は「目元口元の凛々しい」美少女です。
雛祭りの日、光子も三人の遊びに加わります。信一は仙吉と「私」を使って姉を屈服させ、それ以降は、光子も信一のおもちゃになってしまいます。
「私」は信一に苛められる遊びにすっかり夢中になってしまい、「明けても暮れても信一や光子の顔は頭の中を去ら」ず、毎日のように塙の屋敷を訪ねるようになります。
彼らはどんな遊びをしていたのか、詳しく紹介していきます。
・泥棒ごっこ
信一は巡査になって盗賊の仙吉を捕まえ、帯で手足を縛って拷問にかけます。
仙吉の髪の毛を引っ張ったり、頬ぺたを摘まみ上げたり、目瞼の裏の紅い処をひっくりかえして白目を出させたり、耳朶や唇の端を掴んで振って見たり、芝居の子役か雛妓の手のようなきゃしゃな青白い指先が狡猾に働いて、肌理の粗い醜く肥えた仙吉の顔の筋肉は、ゴムのように面白く伸びたり縮んだりした。
炭俵の中から佐倉炭の塊を取り出し、唾をかけて仙吉の額にこすりつけ始めた。仙吉は滅茶々々にされて崩れ出しそうな顔の輪郭を奇態に歪めながらひいひいと泣いて居たが、しまいには其の根気さえなくなって、相手のなすがまゝに委せた。
人は、身体の各部位について、尊卑を意識しています。
例えば、食べ物を足で扱ったり尻の下に敷いたりすることを避けるのは、口や手よりも足や尻が穢れたものだという意識があるからです。
基本的に、身体の上部は尊い、下部は卑しいという意識があります。
具体的には顔面とりわけ口が最も尊く、頭部→胸部→胴体→手→股間→足の順に卑しくなっていくイメージではないでしょうか。
当然、マゾヒストが対象に身体的に陵辱されることを望むときは、自分のなるべく尊い部位を、対象のなるべく卑しい部位を使って陵辱されることを望むことになります。
ここでは、仙吉の顔面を信一の手が陵辱しています。
信一の手の美しさと、仙吉の顔面の醜さの対比も、同じ部位を対比するよりも落差が大きく、強い効果をもたらしています。
・狼ごっこ
信一が狼となり、旅人の「私」と仙吉を喰い殺します。
やがて信一は私の胸の上へ跨って、先ず鼻の頭から喰い始めた。私の耳には甲斐絹の羽織の裏のさやさやとこすれて鳴るのが聞え、私の鼻は着物から放つ樟脳の香を嗅ぎ、私の頬は羽二重の裂地にふうわりと撫でられ、胸と腹とは信一の生暖かい体の重味を感じている。潤おいのある唇や滑かな舌の端が、ぺろぺろと擽るように舐めて行く奇怪な感覚は恐ろしいと云う念を打ち消して魅するように私の心を征服して行き、果ては愉快を感ずるようになった。忽ち私の顔は左の小鬢から右の頬へかけて激しく踏み躙られ、その下となった鼻と唇は草履の裏の泥と摩擦したが、私はそれも愉快に感じて、いつの間にか心も体も全く信一の傀儡となるのを喜ぶようになってしまった。
美少年の唇や舌で肌を舐められては、マゾヒストでなくても快感を覚えてしまうかも知れませんが、「私」はその肉体的快楽と引き換えに信一に土足で乗られ、顔を踏み躙られるという屈辱に甘んじ、それすら快感を覚えるようになってしまっています。
・狐ごっこ
「私」と仙吉が旅人になり、女に化けた光子の狐に化かされ、散々な目に会わされますが、信一の侍が二人を救って狐を退治してくれます。
「二人とも化かされているんだから、糞を御馳走のつもりで喰べるんだよ」
光子は面白くて堪らぬようにゲラゲラ笑いながら、自分の口で喰いちぎった餡ころ餅だの、滅茶苦茶に足で踏み潰した蕎麦饅頭だの、鼻汁で練り固めた豆炒りだのを、さも穢ならしそうに皿の上へ堆く盛って私たちの前へ並べ、
「これは小便のお酒のつもりよ。―さあお前さん、ひとつ召し上がれ」と、白酒の中へ痰や唾吐を吐き込んで二人にすすめる。
「おおおいじい、おおおいしい」
と舌鼓を打ちながら私も仙吉も旨そうに片端から残らず喰べてしまったが、白酒と豆炒とは変に塩からい味がした。
「これからあたしが三味線を弾いて上げるから、二人はお皿を冠って踊るんだよ」
光子がはたきを三味線の代わりにして「こりゃこりゃ」と唄い始めると、二人は菓子皿を頭へ載せて、「よい来たよいやさ」と足拍子を取って踊りだした。
汗、唾液、鼻汁、尿などの分泌物・排泄物は、分泌・排泄される直前までは身体の一部ですから、身体の延長として捉えることができますが、身体に不要な残り滓ですし不衛生ですから、尊卑の意識としては身体のどの部分よりも卑しいものとなります。
マゾヒストとしてはこれを尊ぶことで、対象の身体は自らの身体とはるかに隔絶して尊いものと意識することができます。
また、対象の足や股間部はいくら尊んでも舐めるまでです。
分泌物・排泄物は口にして、自らの身体に取り込むことができます。
対象の身体の残り滓が自らの身体を造っているという意識は、対象と自身の身体を隔絶をさせたまま結合させるというマゾヒストの矛盾した願望を達成してくれます。
ここでは美しい令嬢の鼻汁、痰、唾が、卑しい二人の少年のご馳走になっています。
・犬ごっこ
信一だけが人間で、「私」、信一さらに光子までもが犬になります。
早速仙吉は四つ這いになって、座敷中を威勢よく駆け廻る。その尾について私が駈け出すと光子も何を思ったか、
「あたしは雌犬よ」
と、私達の中へわり込んで来て、其処ら中を這い廻った。
「ほら、ちんちん。…お預けお預け」などと三人は勝手な芸をやらされた揚句、
「よゥし!」
と云われれば、先を争ってお菓子のある方へ跳び込んで行く。
こう云って信一は座敷を出て行ったが、間もなく緋縮緬のちゃんちゃんを着た本当の狆を二匹連れて来て、我々の仲間入りをさせ、喰いかけの餡ころだの、鼻糞や唾吐のついた饅頭だのを畳へばらばら振り撒くと、犬も狆も我れ勝ちに獲物の上へ折り重なり、歯をむき出し舌を伸ばして、一つ餅菓子を喰い合ったり、どうかするとお互に鼻の頭を舐め合ったりした。お菓子を平らげて了った狆は、信一の指の先や足の裏をぺろぺろやり出す。三人も負けない気になってその真似を始める。
「ああ擽ぐったい、擽ぐったい」
と、信一は欄干に腰をかけて、真っ白な柔らかい足の裏を迭る迭る私達の鼻先へ突き出した。
「人間の足は塩からい酸っぱい味がするものだ。綺麗な人は、足の指の爪の恰好まで綺麗に出来て居る」
こんな事を考えながら私は一生懸命五本の指の股をしゃぶった。
狆はますますじゃれつき出して仰向けに倒れて四つ足を虚空に踊らせ、裾を咬えてはぐいぐい引っ張るので、信一も面白がって足で顔を撫でてやったり、腹を揉んでやったり、いろいろな事をする。私もその真似をして裾を引っ張ると、信一の足の裏は、狆と同じように頬を踏んだり額を撫でたりしてくれたが、眼球の上を踵で押された時と、土踏まずで唇を塞がれた時は少し苦しかった。
マゾヒストの「下への衝動」は、時に、対象に人間として陵辱されることに飽き足らず、人間以下の存在として扱われる願望にいたります。
典型的には犬や馬などの愛玩動物への変身願望です。
「犬派」「馬派」という言葉があるくらい、マゾヒストにはポピュラーな願望です。
谷崎はどちら派かといえば犬派でしょうか。沼正三も犬派です。
しかし両名とも、どちらもお好きなようです。欲張りですね。
ちなみに猫や狐は崇拝対象となる高貴な動物であって、変身願望の対象にはなりません。
ここで描かれているとおり、犬への変身願望は対象の足への執着と強く結びついています。
―女王誕生―
さて、ここまで読みすすめて、マゾヒストの読者は、めくるめくようなスクビズムのオンパレードに陶酔しながらも、一点だけ違和感を覚えるはずです。
それは、ごっこ遊びの中で美少女である光子が、「私」や仙吉と一緒に弟の信一に陵辱されている点です。
光子が陵辱されている場面には、サディズムと見まごうような描写もあります。
男性マゾヒズムの大原則から外れた光子の状況が、読んでいてどうしても気になります。
大丈夫です。谷崎は全て計算ずくです。
谷崎は大原則を貫きます。谷崎の「美尊醜卑」の世界観の中で、男性美とりわけ美少年の高貴な美しさは非常に高い価値を置かれています。
しかし、それも神秘的な女性美には、絶対に勝てません。
本作においても、読者は最後に、鮮やか過ぎる女性美の大逆転勝利を見せつけられることになります。
ある日、信一が屋敷を留守にしていた時、「私」と仙吉は、光子に西洋館に連れて行くようねだります。
西洋館へは、信一も行ったことがないようです。
光子は晩になったら連れて行くと約束をし、「私」はいったん家に戻り、晩になって再び屋敷に忍び込みます。
ところが光子も仙吉も現れないので、「私」は、怯えながらも好奇心に駆られ、独りで不気味な西洋館の奥へ奥へと侵入します。
そこへ、洋服を着た(いつもは着物)光子が現れ、「私」をさらに奥の部屋へと案内し、仙吉に会わせてくれます。
「さあ、あかりを付けて仙吉に会わせて上げようね」
ピシッと鑽火を打つように火花が散って、光子の手から蝋燐寸が燃え上ると、やがて部屋の中程にある燭台に火が移された。
「ほら仙吉は此処に居るよ」こう云って、光子は蝋燭の下を指した。見ると燭台だと思ったのは、仙吉が手足を縛られて両肌を脱ぎ、額へ蝋燭を載せて仰向いて座って居るのである。顔と云わず頭と云わず、鳥の糞のように溶け出した蝋の流れは、両眼を縫い、唇を塞いで頤の先からぽたぽたと膝の上に落ち、七分通り終え尽くした蝋燭の火に今や睫毛が焦げそうになって居ても、婆羅門の行者の如く胡坐をかいて拳を後手に括られたまま、大人しく端然と控えて居る。
「おい、お前も己も不断あんまりお嬢様をいじめたものだから、今夜は仇を取られるんだよ。己はもうすっかりお嬢様に降参して了ったんだよ。お前も早く詫って了わないと、ひどい目に会わされる。…」
こう云う間も蝋の流れは遠慮なくだらだらと蚯蚓の這うように額から睫毛へ伝わって来るので、再び仙吉は目をつぶって固くなった。
「栄ちゃん、もうこれから信ちゃんの云う事なんぞ聴かないで、あたしの家来にならないか。」
「何でもあたしの云う通りになるだろうね」
「…」私は真っ蒼な顔をして、黙って頷いた。
「お前は先仙吉と一緒にあたしを縁台の代わりにしたから、今度はお前が燭台の代わりにおなり」
忽ち光子は私を後ろ手に縛り上げて仙吉の傍へ胡坐を掻かせ、両足の踝を厳重に括って、
「蝋燭を落とさないように仰向いておいでよ」と、額の真中へあかりをともした。私は声も立てられず、一生懸命燈火を支えて切ない涙をぽろぽろこぼして居るうちに、涙よりも熱い蝋の流れが眉間を伝ってだらだら垂れて来て眼も口も塞がれて了ったが、薄い眼瞼の皮膚を透してぼんやりと燈火のまたたくのが見え、眼球の周囲がぼうッと紅く霞んで、光子の盛んな香水の匂いが雨のように顔へ降った。
「二人共じっとそうやって、もう少し我慢をしておいで。今面白いものを聞かせてあげるから」
こう云って、光子は何処かへ行って了ったが、暫くすると、不意にあたりの静寂を破って、ひっそりとした隣の部屋から幽玄なピアノの響きが洩れて来た。
丁度二人は、「浮かれ胡弓」の噺の中の人間のように、微妙な楽の音に恍惚と耳を傾けた儘、いつまでもいつまでも眼瞼の裏の明るい世界を視詰めてすわって居た。
私は、このシーンがマゾヒズム文学史上最も美しい場面だと思っています。
光子による陵辱は、信一による乱暴な陵辱と違い、エレガントでスマートです。
しっかりと計算された調教です。
まるで魔法のように二人の少年を屈服させてしまいました。
燭台・椅子などの家具・道具への変身願望は、愛玩動物への変身願望以上に、対象から存在意義を否定される感覚が強くなります。
家具・道具の存在意義は、それのもたらす効用のみにあって、それそのものはなくなっても、代わりがあれば持ち主はなんとも思いません。
光子は少年達に嗅覚と聴覚から快楽を与えつつ、顔の上の蝋燭を支えさせることで、自分達が光子の前では全身全霊をかけても部屋の明かりを灯す家具に過ぎない存在である事を思い知らせることに成功したのでした。
さて、本当の快楽はここからです。その後の少年達の様子が、簡潔に描かれています。
その明くる日から、私も仙吉も光子の前へ出ると猫のように大人しくなって跪き、たまたま信一が姉の言葉に逆らおうとすると、忽ち取って抑えて、何の会釈もなくふん縛ったり撲ったりするので、さしも傲慢な信一も、だんだん日を経るに従ってすっかり姉の家来となり、家に居ても学校に居る時と同じように全く卑屈な意気地なしと変わって了った。三人は何か新しく珍しい遊戯の方法でも発見したように嬉々として光子の命令に服従し、「腰掛におなり」と云えば直ぐ四つ這いになって背を向けるし、「
吐月峰 におなり」と云えば直ちに畏まって口を開く。次第に光子は増長して三人を奴隷の如く追い使い、湯上りの爪を切らせたり、鼻の穴の掃除を命じたり、Urineを飲ませたり、始終私達を側へ侍らせて、長くこの国の女王となった。
信一と光子の立場が逆転してからの描写はこれだけです。これだけで十分なのです。逆転後の秩序が、マゾヒストが本当に望む理想世界だということは、谷崎が一番よく分かっています。自然と、光子と少年達が繰り広げるめくるめく理想世界に、妄想が膨らみます。このあたりがまた、谷崎作品の楽しいところだと思います。自らの妄想を描き出すだけでなく、読者に妄想させるのです。この作品全体が、この簡潔に描かれた「逆転後の世界」を妄想する参考として書かれていると考えてもいいかもしれません。
それぞれの読者が妄想するその後の少年達の世界。現実世界でどんな事があっても、、いつでも「取り止めのない夢のような幼心」を抱いていた少年時代に戻れる快楽の世界。スクビズムの楽園がそこにあります。
追記:畜化願望について、沼正三は「馬派」と認識していましたが、『手帖』において「犬派」を宣言している箇所を見つけましたので、本文を訂正いたしました。
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コメント
to M破門中さん
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to Sさん
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