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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎のスクビズム(4)―『神童』『鬼の面』論~自慰と妄想の青春


「書生」とセルヴィリズム
かつて日本には、「書生」という階級の人たちがいました。
他人の家に下宿して、家事や雑務を手伝いつつ学校に通って勉強していた若者を、「書生」といいました。
住居を提供したのはたいてい上流階級の人々です。当時上流階級の家にはたいてい「女中」が雇われ、家事をしていましたが、さらに「書生」を住まわせて掃除や商売上の雑務、清書等をさせることが、一種のステイタスになっていたようです。
当時高等教育を受けられるものは限られていますから、ともすると主人一家の誰よりも学識があり、官界や財界に出れば洋々たる未来が待っている書生が、ぺこぺこと頭を下げて家事奉仕をさせられている、というシチュエーション、ちょっと憧れてしまいます。

家事奉仕といえば、沼正三は、長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』第二一章「召使い願望と侍童願望」において、家内奴隷として女性の傍で仕える「召使い願望セルヴィリズム」が、マゾヒズムの「入門的段階」であるとしています。
「書生」は、召使願望者セルヴィリストとしては理想的な状況といえるでしょう。

谷崎潤一郎の書生経験
谷崎潤一郎も、書生経験があります。
谷崎潤一郎の生家は、谷崎が幼少だった頃は裕福でしたが、父が事業に失敗して次第に零落し、谷崎が東京府立第一中学校在学中には学費の負担が困難になります。
谷崎の才能を見込んでいた校長や漢文担当教師の渡辺盛衛が父親を説得し、京橋区采女町の西洋料理店「精養軒」の北村重昌の家の家庭教師の仕事を紹介し、谷崎はなんとか学業を続けられることになります。
明治三十五年六月、十五歳のときから谷崎は北村邸に寄留し、第一高等学校に進学しますが、二十歳になった明治四十年六月、北村邸に行儀見習に来ていた穂積フクとの恋愛事件が発覚し、北村邸を放逐されてしまいます。

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築地精養軒

この間の出来事と自らの心理的変化を克明に記した自伝的小説が、大正五年に相次いで発表された中編『神童』と長編『鬼の面』です。
『神童』では高等小学校一年生から始まり、中学校進学と同時に主人邸に居候を始め、中学の四年生までを、『鬼の面』では高等学校の二年生から始まり、三年生の秋に恋愛事件の発覚によって主人邸を放逐され、その年の冬までが描かれています。
この二作からは、家庭教師として住み込んだ北村邸での谷崎の扱いが実際には書生に等しいものであったこと、そのことが、それまで傲慢で尊大であった谷崎に強い屈辱を与えたこと、そしてそれが谷崎のセルヴィリズムを刺激し、マゾヒズム文学を生きる道とする決意にいたったことが伺えます。
今回はこの二作をご紹介したいと思います。

年譜と『神童』『鬼の面』の設定を比較し、表に整理してみました。
年譜『神童』『鬼の面』
本人谷崎潤一郎瀬川春之助壺井耕作
倉五郎欽三郎禄三郎
お牧お朝
兄弟弟:精二
妹:園

他に三人いるが、生まれてすぐに里子に出される。
妹:お幸妹:お春
実家の住所生家
日本橋区蛎殻町(現在の中央区日本橋芳町)
谷崎六歳のとき転居
日本橋区南茅場町(現在の中央区日本橋茅場町)
谷崎十七歳のとき転居
神田区鎌倉河岸(現在の千代田区内神田)
両国の薬研堀(現在の墨田区両国)小島町(現在の台東区小島)
父の職業活版所、米穀仲買店を経営するが、不振のため谷崎九歳のときに廃業。
証券取引所に勤務。
谷崎十七歳のときに証券取引所を辞め、下宿屋を経営。
木綿問屋の一番番頭壺井が十四歳のときに事業に失敗し、浅草区役所に勤務
住み込み先の主人北村重昌井上吉兵衛津村堅吉
住み込み先の夫人お町
(後妻)
倉子
住み込み先の子女男子二人姉:鈴子
(お町の子)
弟:玄一
(先妻の子)
兄;荘之助
妹:藍子
女中頭お久お玉
純情な女中お辰お君
恋愛事件の相手穂積フクお君
住み込み先の住所京橋区采女町(現在の中央区銀座東)小舟町
(現在の中央区日本橋小舟町)
駿河台
(現在の千代田区神田駿河台)
住み込み先の家業西洋料理店「精養軒」木綿問屋「井上商店」銀行の重役
恩師府立第一中学校校長
勝浦鞆雄
漢文教諭
渡辺盛衛
小学校の校長
担任の教諭
漢学者
澤田弘道
住み込みを始めた時期十七歳
中学校二年生
六月
十三歳
中学校進学時
四月
十四歳
中学時代
放逐された時期二十二歳
高等学校二年生
六月
二十歳
高等学校三年生
十一月
物語の期間十二歳
高等小学校一年生

十五歳
中学校四年生
十九歳
高等学校二年生の夏

二十歳
高等学校三年生の冬


学生としての谷崎潤一郎はもうそれはそれは神のように優秀でした。
『神童』の春之助も『鬼の面』の壺井も、途方もない学識を誇ります。
それゆえ、周囲の学生たちはもちろん、先生方や親までをも心の底で馬鹿にしています。
家庭では親はなんだかんだといって子を甘やかし、学校では嫉妬されるレベルを超えて尊敬を集めますから、少年はどんどん増長します。
しかし、そんな少年が、住み込んでいる主人宅ではまったくの使用人扱いなんですね。
春之助も壺井も名目は「家庭教師」なんですが、実態は「書生」。
使用人の中でも、家事に関しては女中頭の指示を受ける下っ端の扱いです。
これは少年の心に深い深い屈辱を与えますが、少年は心の中で主人一家や他の使用人たちを馬鹿にするという抵抗をしてプライドを守り、心のバランスを保ちます。
しかし、人を支配することに慣れた主人一家は、巧みにを少年を馴致し、羨望、卑屈、従順といった新しい感情をその傲慢な心を植えつけていきます。
これが、思春期の訪れとともに少年の心に大きな変化をもたらすことになります。

お町夫人の調教
『神童』の春之助を馴らしつけたのは井上夫人のお町です。
春之助は井上邸に来てお町夫人を一目見た瞬間から、その美しさに魅せられ、それまで保持していた価値観がぐらつくくらいの精神的衝撃を受けています。

それに此の婦人は、彼が此れ迄に知つて居る多くの女とは驚く程違つた、格段に濃い黒髪と、色沢のある皮膚と冴えた大きい瞳と、くつきりとした輪郭とを持つて居る。凡て女は容貌が美しいと賢さうに見えるものだが、今しも此の婦人が謹慎の態度を装つてうつむき加減に端座して居る有様は、いかにも聡明な思慮分別に富んだ、寧ろ非凡な脳髄の所有者らしく想像される。此の人が、此の妖艶な容貌の人が、自分たちと同じような日本語を語り、同じやうな表情で泣いたり笑つたりするとしたら、何だか其れがひどく不思議な現象の如く感ぜられる。


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自らをプラトンや仏陀やキリストの再来と信じ、親も教師も周りの人間全てを馬鹿にしきっていた少年が、お町を一目見た瞬間これですから、行く末が思いやられます。

お町が春之助を馴致するのに使ったのは、自らの「食べ残し」です。
幼少期は裕福だった家庭に育ち、甘やかされて育った春之助ですが、井上邸の食卓の豪華さに圧倒されます。
しかし、使用人扱いの春之助には、主人一家と同じものが供されないのはもちろん、質量ともに粗末な食事しか与えられず、実家にいたときよりもはるかにひもじい思いをさせられます。
春之助に飢餓感と、主人一家の食卓への羨望を植えつけたところで、お町は自分の食事や間食の「食べ残し」を春之助に与えます。
春之助は憧れの夫人が口をつけた、憧れの高級な食べ物を与えられ、残飯を供されている屈辱も忘れて浅ましく「奥様のお余り」を貪り食います。

或る日お久が「此のアイスクリイムは奥様のお余りだから頂いて御覧なさい。」と云って、寄越してくれたコツプの中のねつとりとした流動物を何の気なしに一と匙すくつて舐めて見ると、さながら舌がとろけるやうな、びっくりする程の甘さであつた。或る時は又「此れも奥様のお余り」だと云う食ひ残りの茶碗蒸しを夕飯の膳に供せられた。


彼は「奥様のお余り」を貰ふことが何より楽しくなつてしまつた。晩飯の時刻になれば心私かにお余りの下るのを待ち設けて、たまたまあてが外れるとひどく物足りない気持ちになつた。


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文字通りの「餓鬼扱い」ですね。
沼正三は、長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』で、捕虜時代に、水分を与えられずに極限まで渇いたところで英軍司令官夫人の尿を与えられたときの強烈な体験を記していますが、お町夫人の調教も、それに近いものを感じてしまいます。
人を支配することに慣れた人というのは、どうすれば人の心を支配できるか、内心密かに抵抗する気持ちをも摘み取ってしまえるか、よく知っているんですね。

こうして尊大だった春之助の自尊心は押しつぶされ、完全に婦人の忠僕となってしまいます。

夫人に取って容易たやす些細ささいな心づけが、春之助にはどんなに嬉しくも有難くも感ぜられたことであろう。
「瀬川、此れをお前さんに上げるから取つてお置きよ。」
かう云つて、夫人が象牙のやうな美しい手を伸べて、自ら春之助のてのひらへ温情のこもつた恵み品物を載せてれる度毎たびごとに、彼は我知らず勿体もつたいなさに胸の時めくのを覚えた。


此の夫人の為めならばどんな悪事でも働きかねないやうな、浅ましい了見が彼の胸の中にむらむらと萌すことさへあつた。



沼正三は、子が母を慕うように、ひたすら純粋にドミナを慕う気持ちを、セルヴィリズムと特別に区別して侍童願望パジズムと呼んでいます。
余計なことを考えず、四六時中寝ても覚めても一人のドミナを慕い、侍っていたい。
ピュアでプラトニックな初恋に近い感情かもしれません。
究極のマザコンである谷崎潤一郎はまた、究極の侍童願望者パジストでもあります。
十三歳で母と別れた住むことになった春之助が、美しい女主人のお町を慕う気持ちこそ、典型的な、そして理想的なパジズムといっていいでしょう。

令嬢藍子の調教
『鬼の面』の壺井は、物語が始まった時点で既に、主人の津村邸に住み込んでから五年近くが経過していますから、かなり卑屈な根性が備わってしまっています。
そんな壺井の下僕根性を利用し、さらに育てるのが令嬢の藍子です。
藍子は親に隠れて江藤という青年と交際しています。
壺井は一応藍子を監督指導する家庭教師であり、秘密交際などは諌めなければいけない立場なのですが、美しい藍子と逞しい江藤という両家の令息令嬢同士似合いのカップルの交際を黙認してしまいます。
それをいいことに藍子は、江藤との恋文の投函と受け取りを壺井に依頼します。差出人を偽って書いても、何度も手紙を往復するうちに互いの家の者に気づかれてしまうのを恐れるためです。

或る朝、壺井が登校の時間に邸の門を出て二三町行くと、後からこつこつと小さな靴の踵を鳴らしつゝ藍子が追い付いて、
「壺井さん」
と、声をかけた。彼女も丁度学校へ行くところであつた。
「ちょいと壺井さんにお頼みがあるの。済まないけれど此の手紙をあなたの名前で名宛を書いて、今日のお午までに出してくれない?成る可く此の近所の郵便箱へ入れないで本郷から出して貰ひたいの。」
彼女は息せき切つて早口に斯う云ひながら、手に持つて居る四角な封筒を壺井の胸へ押しつけた。
「はあ、よござんす、畏まりました。


「それから、佐藤四郎と云ふ名前で、壺井さんに宛てゝ返事が来るかも知れないから、さうしたら封を切らずに私に寄越しておくんなさい。」
さう云った時、藍子は始めてにこにこと笑ひかけたが、壺井はますます事務的な句調で、
は、承知しました。
と、鞠躬如きっきゅうじょとして命令を聞き取つた。


「第三者との恋文の受け渡しを命じる」というテーマは、トリオリストの「西の横綱」レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』で、ヒロインのワンダが主人公のセヴェリンに、「ギリシア人」宛の手紙を届けさせる場面が有名ですね。
トリオリストの「東の横綱」谷崎潤一郎もこれが大大大好きで、本作の他にも、『恋を知る頃』『少将滋幹の母』にも同様の場面が出てきます。
ただ、同じような行為でも、『毛皮を着たヴィーナス 』で行われているものと、谷崎作品で行われているものには、大きな違いがあると私は考えています…が、それはまた別の記事で論じたいと思います。

自意識の目覚めと女性美への憧れ
『神童』の春之助は、十五歳になったとき、縁日でを購入します。
鏡は自意識の象徴と言われます。
自らの精神的な優越を自尊心の拠り所としていた春之助は、毎日鏡を眺め、自らの肉体の醜さに思い悩むことになります。

彼は自分の容貌がいかに醜いかと云う事を、最近まで気が付かずに居たのである。また、醜い容貌を持つて生まれた人間が、いかに恥づべく憐れむべきかを、此の頃になつて始めて痛切に感じ出したのである。


そして、自らの醜さと対照的な女性の美しさへの憧れを、日に日に強くしていきます。
春之助が芸者上がりのお町夫人の使いで、芸者街へ行った際の感慨です。

さう云う空気と情調の中に朝夕を送つて居るうら若い婦人共の研きに研いた明眸皓歯めいぼうこうしをまざまざと見せられる時、春之助は自分の身の上を獣の如く卑しみ疎んじた。等しく此の世に人間として生を受けながら、彼等と自分とは何故斯くまで違ふのであらう。にきびは愚か一点の汚れのない、瑠璃るりのやうに滑らかな肌の色と云ひ、水の如く柔らかな絹物の衣裳の下から、なよなよと匂ひこぼれる手足の肉の婀娜あだつぽさと云ひ、彼等の体の到るところに溢れ輝く「美」の表現の豊かさを眺めれば、さながら美しい一篇の詩を読むやうな夢心地へ引き入れられる。まことに彼等の肉体は生きた詩であり、生きた宝玉であつた。それだのに春之助の姿はまあどうであらう。彼と彼等とは肉体を形成する物質の組成と成分が根底から異なつているらしかつた。神が彼らを造るのに宇宙の面に浮き上がる清澄な精気を以つて固めたとすれば、春之助の体は底によどんだ糞土を以つて造られたのではあるまいかといぶかしまれた。


あの少女等は美しきが故に大人と等しいすべての享楽を与えられて居る。奢侈しゃしも生意気も恋も虚言も、「美しきが故に」彼等は実行の特権を持つて居る。彼等の手管に欺かれるのは欺かれる者の愚かである。彼等の恋に惑溺わくできするのは溺れる者の罪である。「あらゆる悪事が美貌の女に許されなければならない。」―――春之助は自然とさう云ふ考へに導かれて行つた。


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そしてさらには、自分にとって雲の上のような存在の美少女たちと、対等に交際する資格を有する逞しく美しい青年達への羨望が心に芽生え、膨らんでいきます。
『鬼の面』の壺井が、学友を仰ぎ見るときの嘆息です。

壺井は自ら顧みて皰だらけな醜怪しゅうかい極まる己の容貌に想到する時、自分は到底、恋愛を語る資格のない宿命を持つて生まれたのかと、そゞろに遣るせない悔恨かいこんの情に駆られるのであつた。令嬢だの芸者だのと対等に暖かい睦言むつごとを交し得る僚友の身の上を、彼は唯天上に住む別種の人間の特権として、遥かに仰ぎ見て居るより仕方がなかつた。


藍子の恋人江藤の肉体を覗き見た時の感想です。

贅沢な家に育てられて、贅沢な生活をして来た人は、裸体になっても其の品格を包むことは出来ない。―――壺井は青年の姿を見ると、なぜだかそんな事を思つた。筋骨の秀でた、体幹の大きい、労働者のやうな頑丈な体格を持つて居ながら、その青年の四肢の格好には何処となくすつきりとした、典雅な曲線がなだらかに波打つて居る。藍子は仕合はせな相手を見付けたものである。


当ブログの谷崎潤一郎序論(1)~(3)でさんざん強調した「美尊醜卑」「美男美女賛美論」の世界観が、こうして出来上がっていったのです。

自慰と妄想の青春
『鬼の面』の壺井はある日、一念発起し、書物を捨てて外に出かけて体を動かして遊び、人と交際し、自分も恋愛に挑戦してみようと決意します。
今でいう「リア充」を目指したわけです。
しかし、そんな壺井の心から、こんな囁きが聞こえてきます。

お前のやうな男には、此の遊園地の仲間入りをさせる訳には行かないのだ。お前はお前の部屋に戻つて、自分独りで勝手なことをするがいゝ。お前はお前独特の秘密な慰みがあるだらう。楽しい習慣を持つて居るだらう。お前はお前の大好きな妄想の波に溺れ沈んで、やがて自滅する人間なのだ。


なんという悲しい卑屈さなんでしょう…。
結局壺井は海岸で戯れている藍子と江藤を覗き見て、そのまぶしさに圧倒されて、すごすごと自分の部屋に帰ってしまいます。
それにしても「独特の秘密な慰み」「楽しい習慣」ってなんなんでしょうか。
答えはちゃんと書いてあります。

忌まはしい夜の習慣は、彼が唯一の慰みとなつて、殆ど凶暴に近いほど激しくなつた。彼は我から廃滅を喜ぶが如く、命限り根限りその慰みに魂を浸らせた。娘のお君を始めとして、藍子や倉子やお玉の幻が、交わる交わる彼の頭脳と肉体を腐りただらせた。


この「習慣」については『神童』にも青春期の重大事としてしっかり書かれています。

生まれて始めて、ふとした機会から彼が其の罪悪の楽しさを味はつたのは、一年以上も前のことであつた。程なく彼は其れが道徳上の罪悪である事を悟り、浅ましい所業である事をも察した。さうして、其れが生理的にも如何程いかほど戦慄すべき害毒をもたらすかを感付いた頃には、もはや牢乎ろうことして動かし難い習慣となつて居たのであつた。彼は無意識の間にお町夫人の容色を恋い慕い、令嬢鈴子の肉体に憧れた。芳町の新路へ使ひにやられて、芸者や半玉の姿を見て来た晩などは、殊更ことさら幻の悪戯に悩まされ、餌を嗅ぎつけた野獣のやうに悶え廻つた。どうかすると彼は昼間でも便所へ這入つて三十分ぐらゐは顔を見せない事さえあつた。


そうです。「習慣」とは、オナニーのことなのです。
沼正三は『手帖』の中で「マゾヒストは例外なくオナニストであ」ると断言していますが、谷崎潤一郎もやっぱりオナニーの快楽を知っていたんですね。
ここでは「誰を妄想していたか」は書いていますが、「どんな妄想をしていたか」はあえて書いていません。
しかし、そんなことは、幼少期からマゾヒスティックな妄想をしていたと告白している『饒太郎』を持ち出すまでもなく、明らかですね。
…それにしても、これの作品が発表された大正五年といえば谷崎はすでに文壇に地位を確立し、妻子もいる立場。よくぞここまで書きますね…。

恋愛事件
『鬼の面』には、一般に谷崎潤一郎の「初恋」と言われている穂積フクとの恋愛事件の事も描かれています。
しかし、その記述は意外なほどに淡白なものです。
壺井は津村邸を短期間で出て行った女中のお君と恋文を何通か交わし、一度だけ往来で会った、これだけです。
あれほど恋愛に憧れていた壺井ですが、いざやってみると、どうしてもお君に本気になることができません。
お君に会いに行ったときなど、お君の従姉妹の芸者の美しさに心を奪われてしまった程です。
穂積フクに対する谷崎の想いは、彼の作品中で、主人公がヒロインに対して抱く凄まじい心的傾斜とは、似ても似つかない淡白なものだったのではないか、と私は思っています。

マゾヒズム文学の誕生
青春期を書生という立場で過ごした谷崎潤一郎は、この時期に自分が「何者であるか」「何をするためにこの世に生を受けたのか」をはっきりと悟ったようです。
『神童』の最後は、ある夜春之助が布団の中で次のようなことを考える場面で終わります。

恐らくおれは霊魂の不滅を説くよりも、人間の美を歌ふために生まれて来た男に違いない。己はいまだに自分を凡人だと思ふことは出来ぬ。己はどうしても天才を持つて居るやうな気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間の美を讃え、享楽を歌えば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。


『鬼の面』の壺井も物語終盤に次のように悟ります。

彼等は壺井程深刻に痛烈に、女性を渇仰かつごうし要求しては居ないのである。壺井程完全に女の肉体美を認めて、それに己の全生命を浸し漬けて、惑溺わくできし得る勇気感受性はないのである。
「自分にはたしかにそれだけの勇気と感受性とがある」
と、壺井は念を押すやうに腹の中で云つて見た。


こうして、谷崎潤一郎は、自らの性癖の生み出す妄想を物語に紡ぎ出すことを、生涯の生業とすることを決意したのです。
この自身と勇気。ちょっと考えられません。既にマゾヒズムが認知され、それに関する様々な創作物の市場が確立されている現代とは訳が違います。
さらにすごいのが、誰も通ったことのない道を切り開いた開拓者でありながら、以後誰も超える事の出来ない実績を作ってしまったことです。
世界的にはザッヘル=マゾッホのほうが名は知られているかもしれませんが、文学的な評価は谷崎潤一郎とは比較になりません。
世界最高のマゾヒズム文豪を生んだ国に生まれ、彼の作品を母国語で読める。この幸せを、改めて感じずにはいられません。
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