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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

沼正三の谷崎潤一郎論

私は、沼正三とは「谷崎の子」である、と考えています。
谷崎作品に規定されたセクシャリティに、従軍体験や占領体験、語学・文学・法学・SFを含む森羅万象に対する博学が、そこに覆いかぶさっていったのが、沼正三のマゾヒズム文学ではないでしょうか。
沼正三の長大なエッセイ集、「ある夢想家の手帖から」の中の谷崎潤一郎論を引用していきます。(常時追加)


総論
 この文豪は、端的に一個のマゾヒストであって、彼の文学の首尾を貫くものが「ドミナ崇拝」「美女への崇跪」であることは、全集を読めば明らかである。その作品系列は足フェチシズムからスクビズム、コプロラグニーまで正統マゾヒズムのあらゆる様相を展示しており、マゾヒストの愛読に堪える。事実彼の作品ほどわが国におけるマゾヒストの春の目覚めの機縁となったものはあるまい。ドイツ文学におけるマゾッホとは比較にならぬ高い文壇的地位を占めるこの作家を同時代人に持つことは、現代日本のマゾヒストの幸福である。(第四章「ナオミ騎乗図」)

 初期の谷崎が「精神上の苦痛よりも寧ろ肉体上の苦痛を与えて貰ひたい」(『饒太郎』)といっているのは、正統マゾヒズムの立場に遠いが、彼自身がこのころは真の自覚に達していないと見るべきもので、全作品を通観すれば、正統派なることは疑いを容れない。――この種の考察では中村光夫の評論も中河与一の伝記小説もはなはだ不充分である。(第四章「ナオミ騎乗図」付記第二)

 女に踏まれたいという気持ち(スクビズム)を実際に感じたことのない人に、『富美子の足』に踏まれて息を引きとった隠居の老人の歓喜が、『魔術師』における穿物や絨氈になりたいという切なる願いが、また、『瘋癲老人日記』の主人公の墓に女の足を彫らせようとする気持ちが、本当に理解できるのか、その理解なしに谷崎文学を十分に味わえるのか、を私は疑うものだが、その点たいていの批評家は失格である。(中略)『饒太郎』ではクラフト・エビングへの言及さえあるのだが、勉強が足りない。
 ★野口武彦氏の『谷崎潤一郎論』中「マゾヒズムの逆説」は、この点彼のマゾヒズムを初めて本格的に取り扱ったものと言えよう。(第一四章「白人崇拝」)

足部崇拝(スクビズム第二類型)
 マゾッホと並び、マゾヒズムの作家として東西の双璧である谷崎潤一郎の作品にも第二類型場面が満ち充ちていることは人の知ることである。足を舐めたり、足で顔を踏まれたりする『少年』、女の靴を磨く『アヱ゛・マリア』、敷物や履物に変身する『魔術師』、足蹴にされる『赤い屋根』、女に踏まれながら死ぬ『富美子の足』、女の足型で仏足石を作って墓の上に乗せる『瘋癲老人日記』…数え上げてゆけばキリがない、ここでは、中期の名作『赤い屋根』から一節を引こう。(引用省略)(第一三三章「スクビズム」)

汚物愛好(スクビズム第四類型)
 わが国の作家ではやはり谷崎潤一郎であろう。初期の『幇間』のおなら場面、『悪魔』や『続羅洞先生』の洟汁ハンケチ、『少年』の各場面、『春琴抄』の上厠の世話、『少将滋幹の母』や『乱菊物語』における平仲説話の扱い、『瘋癲老人日記』における颯子の月々突つき散らした鱧や鮎(残飯!)を貪る老人…等々、意図的な第四類型スクビズム描写という点では、余人の追随を許さないのは当然として、そうでなく、単に排泄行為に触れたスカトロジックな言及という点でも、日本の文学者中いちばん多いと思われる。『異端者の悲しみ』には上厠の際の連想が述べられる。『細雪』にも上厠の際ひとりごとをいう男が出てくる。美女の下痢も描かれる。『鍵』にも病人の看護で溲瓶が駄目で導尿する場面があるなど…随筆的な文章ではなおさらで、『厠のいろいろ』や『過酸化マンガン水の夢』のように便所のことを一生懸命に描いた作家がほうがはるかにいるとは思われない(排泄は人間生理の必然事であるから、いわゆる自然主義作家により谷崎のほうがはるかに自然主義的だったという逆説の一証左ともいえよう)。ここでは、映画女優の等身大の精巧な人形を三十体も作ってスクビズム欲求を満たす『青塚氏の話』の末尾近く最も迫力ある一節および『武州公秘話』中、若き日の武州公が城主の奥方である桔梗の方専用の厠である縦穴の途中に掘られた横穴を発見した有名な『上臈の厠のこと』のくだりを抄しておく。(引用省略)(第一三三章「スクビズム」)

 元末の画家(四大家の一人)として知られる倪雲林は厠に鵝鳥の羽をうずたかく積ませたというが、これも奇人狂人に近かったこの人に近かったこの人の清潔好きが、排泄物を一瞬にもぐりこませ隠してしまうそういう仕掛けを考案させたのに違いない。――ちなみに、谷崎は「倪雲林の厠」の「蛾の翅」について語り、その贅沢さを幻想している(『厠のいろいろ』及び『武州公秘話』第三)。谷崎は志賀から芥川が聞いた話として録しているが、そもそも露伴がこの話をして「鵝の羽」といったものが、伝聞に伝聞を重ねるうち、鳥の「鵝」と虫の「蛾」とがとり違えられたものらしい。「もとは露伴」ということをたしか小林勇氏が随筆のどこかで書いていたと思う。(第一二二章「便器奴隷」付記第二)

スクビズムの複合
 例えば、「此の女は…彼の味覚と嗅覚をよろこばすためにペディキュールをした足の甲へそっと香水を振っておくだけの、ゲイシャ・ガールに思ひも寄らない用意と親切とを尽くすのである」(『蓼喰う虫』)という文章からは、第二類型としての足部狂崇と同時にその狂崇ぶりが第四類型的なのも読みとれよう。味覚・嗅覚はピカチズムの分野に属するからである。また、『無明と愛染』の第二幕第二場で「犬のやうに這ひつくばった」上人が遊女愛染(演出としては彼女は立ちはだかっていなければならない)を「南無観世音菩薩」と拝んで死んでゆく場面も、第二類型と第五類型との複合的スクビズム描写として見事である。その他『少年の脅迫』『金色の死』『鮫人』『羅洞先生』……と思い出される作品場面は多い。いちいち指摘しないが、読者諸君自ら捜索のうえ味わわれたい。(第一三三章「スクビズム」)

白人崇拝
『蓼喰ふ虫』以前の谷崎潤一郎は西洋趣味への惑溺をもって鳴るが、『独探』『人魚の嘆き』『白狐の湯』『アヴェ・マリア』『肉塊』『痴人の愛』等々の諸作品には明瞭な白人崇拝思想――白い女体への拝跪から西洋文物一般への心酔にまで達する――を看取しうるのである。佐藤春夫、小林秀雄、中村光夫、……多くの人がこの文豪を論じてきたが、彼の白人崇拝をマゾヒズムとの関連において説いた人はいない。中村光夫の『谷崎潤一郎論』は谷崎文学の小児性を指摘した点、脱帽に値するが――ただ、それをマゾヒストの小児退行心理と関連せしめるには至っていない――、西洋趣味については(中略)非常に外面的な皮相なものとしか見ていない。
 そうではない。谷崎の場合は、マゾヒストとしての白人崇拝である。根源に「白い肌への劣等感」があり、それを合理化するため「西洋優越の肯定心理」が作用したと見るべきなのである。
(『アヴェ・マリア』からのの引用、略)
 これはシャボンについての感想だが、谷崎の西洋文明感が「白色の肉体への拝跪」に根ざしていたことを示唆的に物語る一例といえよう。谷崎がマゾヒストである以上、この白人崇拝心理は彼の本質から来ているので、決して外面的・皮相的と片付けてしまえるものではない。彼は後年、いわゆる日本趣味の作家になって、若き日の西洋趣味を清算したように言われているし、作品の舞台や題材だけから見れば、そのようにも思われるであろうが、たとえば、(中略)永井荷風との対談において「好きなタイプ」として、荷風と口をそろえて、西洋人のような女がいいと言っているのなどは、「白人女性への憧憬」が、この老マゾヒストの胸の奥底になおも秘められていたことを悟らせる。(第一四章「白人崇拝」)

 なお(中略)座談会において、次のように言っている。
 三島 つまり、”ナオミ”をお書きになったころの西洋人崇拝っていいますか、ああいうお気持ちはまだどこかに残っていらっしゃいますか。
 谷崎 ああ、それはあります、ええ。
 三島 ことに西洋の女に対する……?
 谷崎 ええ、それはあります。
 よい質問であるが、「まだ残っているか」という問い方には、いわゆる西洋趣味清算説が前提になっている。私をして言わしむれば、谷崎の内心の本当の理想のドミナは、終始白人女性だったに違いないので、残ってるなんてものではないはずだ。(第一四章「白人崇拝」付記第二)

トリオリズム
初期の『饒太郎』から中期の『腕角力』を経て、後期の『鍵』までの作品系列は彼が正に三者関係の作家なことを語っている(第九七章「三者関係」)

『少年』論
 末尾の一節「次第に光子は増長して三人を奴隷の如く追ひ使ひ、……urineを飲ませたり……」とある一文は、マゾヒストの多くの者をウロラグニーに目覚めさせる機縁となった極め付きの箇所であるが、どういうふうに飲ませたのかに触れていないのは、本文に指摘した人間ポットの描写の非現実性を回避したためであろうか。(第四〇章「人間ポット」付記第一)
 諸類型の扱われ方をもう少し谷崎作品で眺めるとしようか。一作品で各類型というのは、比較的少ない。例えば、『少年』は、狼ごっこ(草履で踏み躙られる)、狐ごっこ(白酒の中へ痰や唾吐を吐き込んだ「小便のお酒」)、犬ごっこ(足舐め)、人間縁台、人間燭台、人間腰掛、人間吐月峰、urine飲み、と、第一類型から第四類型まで(第三類型だけがないのは性の目覚め前だからである)の具体的な描写が山積している(そして、お抱えの馬丁の子である仙吉が他処で餓鬼大将なのにお邸で卑屈なのは第五類型である)作品である。(第一三三章「スクビズム」)

『麒麟』論
 『麒麟』の衛の霊公は、その夫人である妖姫南子に向かって「今日から私は、夫が妻を愛するやうにお前を愛しよう。今迄私は、奴隷が主に事へるやうに、人間が神を崇めるやうに、お前を愛して居た。……」と孔子の影響を受けていったんは主体を取り戻すが、南子は孔子を招いてその権力を誇示し彼を畏縮させ、霊公への影響力を消してしまう。彼女がその「眼の刺激となるが為に、酷刑を施された罪人の群」すなわち「夫人の悪徳を口にしたばかりに、炮烙に顔を毀たれ、頸に長枷を嵌めて、耳を貫かれた男達」や「霊公の心を惹いたばかりに夫人の嫉妬を買って、鼻を劓がれ、両足を刖られ、鉄の鎖に繋がれた美女」達の、地に這い、転び合い重なり合って蠢く庭を、階の上から錦の帷を開いて恍惚と眺め入る光景は、聖人も抗拒し能わぬ絶対権力が一人の女性に帰した夢魔のような世界を、階の上と下の対立として描いた点にスクビズム的達成が認められよう。霊公は再び「夫が妻を愛するやうに」ではなく、「奴隷が主に事へるやうに、人間が神を崇めるやうに」彼女を愛する状態に復帰させられるのだ。作意としてスクビズムの各類型をこの行間に読みとるべきだろう。(第一三三章「スクビズム」)

『お才と巳之介』論
 この二人が通じるようになってからも、その交接の態位を推測させるものはなにもないし、身分も巳之介が若旦那でお才は女中である。しかし、「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者である」べし(『刺青』)とする彼の立場からは、美女お才と美男の手代卯三郎こそがこの世界の貴族であるべきであり、巳之介が若旦那面して上に立っているのは不自然なのである。巳之介はあるべき状態にまで引き下げられなければならない。この下降志向こそがスクビズム(下への衝動)である。卯三郎と通じているとは知らずにお才に惚れ、何百両と毮り取られた上、妹のお露まで卯三郎に玩ばれてまだ懲りず、そそのかされて妹を家出させるため店の大金を盗み、妹を女郎に売られ、金は取り上げられ、しかもその謀らみのいっさいが卯三郎とお才からだったと判明しても、まだお才を慕う痴人ぶりは、下への衝動の文学的実現としてマゾ的感興を伴う。末尾の場面では、追剥に化けた卯三郎から「金と女さへ毮き上げちゃあ、もう手前は用なしだ」と溝の中に落とされた巳之介は平つくばって首をさし伸べたまま盗み聴く。そして、立ち去るお才を、くん、くん、と犬のように鼻を鳴らしながら口説いて、お才から「ペッ、ペッ」と眉間のあたりに唾吐を吐きかけられても、まだあきらめずに追いかける。この場面は、作者としては無意識にであろうが、スクビズム志向が全篇を貫きながらそれまで押さえられて来たのを、一挙に具体的表現の形を取って複合したもの評し得よう。
 しかし、いくら複合させたとしても、全類型を兼ねることはできない。そこに各類型の個性を感受するマゾヒストの空想の楽しみの余地が残る。……お才は巳之介にどんな姿勢で接したのだろうか。彼ら三人のその後は?巳之介から奪った二百両で卯三郎とお才は店を張り一廉になるだろう、二人はの才覚があるのだ。一方巳之介は勘当され落ちぶれるに違いない。彼は無能なのだ。作者はそこまで書き込んでいる。(下への衝動からのもうひとつの作品といえる『女人神聖』で、兄妹でありながら、兄は宿なしになり妹は貴婦人となる結末を用意した谷崎である。お才は上昇し、巳之介は下降して当然なのである。第八七章で使った表現でいうなら、二人は人間の格が違うのだ)。そして、巳之介が乞食のようになってお才の店の前に立ったときの二人の会話も想像できるまで書き込んでいる。さて彼女が彼を憐れんで下男に傭ったとしよう。今は上位者としてのお才は下位者としての巳之介をどんなに扱うか。こういったスクビズム空想を許すことこそ名作の滋味というものであろう。(第一三三章「スクビズム」)

『痴人の愛』論
 『痴人の愛』はその中で最も喧伝流布されたものの一つで、戦後映画化もされたから、改めて梗概を語るにも及ぶまい。
 equus eroticus 場面は楽曲の主題旋律のように繰り返される。
(中略)
 女の魅力に引きずられていく痴人は、古来の文学に数多く描かれている。しかし、このように男の「愛の馬コンプレックス」が破滅への根本衝動として描かれた例は、他に見当たらないようである。繰り返して指摘しておきたいのは、「愛の馬」がマゾヒズムの一分野を占め、自己目的としてマゾヒストの精神を束縛することである。ただの遊戯ではない。「どうしても否ならそれだけでもいい」ではなく、心の奥底では「どうしてもそれだけはして欲しい」のである。それを読み取るべきである。(中略)この『痴人の愛』の風俗小説としての価値はつとに説かれているが、痴人小説としても、この点で文学史上独自の位置を占めることを、私たちマゾヒストは、忘れるべきでない。
 ただ、こういう見地からすれば、この最後の「愛の馬」場面が、案外あっさり終わってしまうのは、物足りない気がする。
(中略)
 一方(本作)では支配しようとしているのは「馬になる」男の意志であり、他方(ネンダ王の説話)では、それは男を「馬にする」女の意志である。前者ではマゾヒストが、後者ではサディスチンが主役である。そして私たちは、後者にこそ、より強いマゾヒズムを感じるのだ。つまり『痴人の愛』ではナオミがサディスチンになっていないのが、物足らないのである。
 (中略)しかしナオミが、この譲治の申し出に、そのマゾヒズムを見抜き、これに便乗したとしても不思議ではあるまい。「よし、じゃあ望みどおり馬にしてやる。さ、ハイハイドウドウ」と、以前の遊戯の時のように男がつぶれるまで乗りつぶしたとしてもよかったろう。そして、新生活が洋館で始まってからも、いったん摑んだ男の弱点を利用し「馬にしてあげる」ということを代償にいろいろな仕事をさせ、譲治も、屈辱を感じつつも、乗り回してもらいたさに、唯々諾々、しだいに彼女の召使いになってゆく、そのことでナオミもだんだん嗜虐的素質を目覚めさせてゆく。方便ではなく、馬にするのが面白くなってくる。……こんな女の性格の発展を考えたほうが、「愛の馬」主題の展開という観からは、はるかに徹底もし、また自然だったのではあるまいか。
 文豪の名作に注文をつけるようだが、マゾヒストの読み方(マゾ的鑑賞)の一例として、記してみた次第である。(第四章「ナオミ騎乗図」)

 ネンダ王説話は実際『痴人の愛』の成立に影響しているかもしれない。『饒太郎』によると谷崎はクラフト・エビングを愛読しているし、『玄奘三蔵』や『ハッサンカンの妖術』から窺われるように、本格的に古代印度関係の文献を読んでいるから、この話も原典にさかのぼって読んでいたと考えられぬことはない。ネンダ王妃は――『麒麟』の南子などと同じく――彼を惹きつけたに違いない古代女性なのだ。この人が生きているうちに、誰か勉強家が直接訪ねてくれればよかったのだが……(第四章「ナオミ騎乗図」付記第一)

 妻は私に君臨し、日本人の妻であるよりも白人の娼婦であることを、より高く評価するに至る――ちょうど『痴人の愛』のナオミのように――(第一〇二章「黄色はコキュの色」)
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コメント

流石、沼正三は非常に鋭く、且つ説得力のある文章ですね。

マゾヒストならではの観点ですね。
確かに、マゾヒストでなければ、谷崎文学を存分に楽しむことは不可能だと思います。
そう考えると、マゾヒストであることを嬉しく感じたりもします。

BLONDEさん

コメントありがとうございます!

「マゾヒストでなければ、谷崎文学を存分に楽しむことは不可能」
マゾヒストとしてはまったくそう思えますよね。

しかし、実際には谷崎はマゾヒストではない多くの読者に愛され、日本近代を代表する文豪と評価されている…これが本当に不思議ですね。

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