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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

沼正三のスクビズム(3)―『手帖』第二八章「性的隷属の王侯たち」

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第二八章は「性的隷属の王侯たち」と題され、世界史上に数多く見られる、君主を性的に隷属させた「傾国の美姫」を扱っています。

一国の君主を美女が隷属させる……これほどロマンティックなことがあるでしょうか。
美女に心を支配されてしまった君主の財産は、国土は、臣民は、全て美女の所有物となってしまいます。
一挙手の労で君主を足下に跪かせることのできる美女にとって、その臣民の命など、自分の爪の垢ほどの価値も感じることはできないでしょう。
まさに「美の完全勝利」。
想像するだけで胸躍るそんな夢のような状況が、世界史を紐解くと、数多く実在していたんですね。

さて、沼は本章で「性的隷属」と「マゾヒズム」の違いを強調しています。
要するに、

性的隷属→相手の歓心を繋ぎとめるため、隷属する。
マゾヒズム→相手に隷属すること自体が目的。

ということです。

ところが、最初は性的隷属状態だったのが、次第にマゾヒズムに移行する場合があるといいます。
その心理状態は、クラフト・エビングの『病的性心理』を引用して説明されています。

誰でも性的隷属状態に長い間生活すると軽度のマゾヒズムを獲得し易い。愛人の専制を喜んで受け容れようとする愛情は、直接専制されるのを喜ぶ愛情に転化する。専制を耐え忍ぶ時の気持ちが愛人を慕う楽しさと結合することが長く続くと、この楽しさがついには専制そのものに結び付いてしまう。こうして倒錯への移行が完成する。このようにマゾヒズムが訓練教化によって獲得されることもあるのだ。



沼も、谷崎潤一郎も、この「性的隷属からマゾヒズムへ移行する」というストーリーが大好きです。私も大好きです。皆さんもお好きですよね?
ネット上に発表されているマゾヒズム小説も、このストーリーが多く、性的隷属からマゾヒズムへ移行する過程がうまく書かれているものほど、高く評価されている気がします。
先天的なマゾヒストなのに、ストーリーとしては、(顕在的には)マゾヒストではないところからスタートしたがるんですね。
なぜか。それは「堕ちていく快楽」を味わいたいからなんですね。
谷底の住人が、いったん崖の上まで上がってから、また谷底へ落っこちる快楽を何度も味わうようなものです。

思えばマゾヒストは、四六時中マゾヒストとしてふるまえるわけじゃないんですね。
ほとんどの時間は、獣畜たる本性を檻に閉じ込めて置かなければならない。
恋人に対してすら本性を隠し、ノーマルな恋愛関係を築いている人も多いでしょう。
「堕ちていく快楽」は、その抑圧された本性が解き放たれる疑似体験ができる快楽、と言えるかもしれません。

さて、王侯と美姫の話に戻りますと、単純な「性的隷属」状態であった王侯と美姫の例は、

・玄宗皇帝と楊貴妃(唐)
・アントニウスとクレオパトラ(古代ローマ)

が挙げられています。

一方、「性的隷属」状態から「マゾヒズム」に移行した例は、

・高宗と則天武后(唐)
・ベリサリウスとアントニナ(東ローマ帝国)
・ルイ十五世とデュバリ伯夫人(フランス)
・ルトヴィヒ一世とローラ・モンテス(バイエルン)
・アレキサンドル一世とドラガ王妃(セルビア)

が挙げられています。

また、伝説上の例として、

・ヘラクレスとオンファーレ(古代ギリシア)
・桀王と末喜ばっき(夏)
・紂王と妲己だっき(殷)
・幽王と褒姒ほうじ(周)

が挙げられています。

この中から、いくつか事例を見てみましょう。

ベリサリウスとアントニナ
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バンジャマン・コンスタン『コロッセオのテオドラ皇后』                     ジャンナ・マリア・カナーレ扮するテオドラ皇后
六世紀前半、東ローマ帝国は、ユスティニアヌス帝の下で大きく発展し、一時的にかつてのローマ帝国の最大版図のほとんどを支配下に治めます。
この「再征服」に大貢献したのがベリサリウス将軍で、「史上最高の指揮官」と評す人もいます。
ところがこの大将軍が、元踊り子ダンサーの淫乱な妻アントニナに徹底的に隷属します。
アントニナは、将軍が恩義をかけた養子のテオドシウスという青年と不倫します。
将軍は妻と養子のが裸で抱き合っている現場を目撃しながら、それを責める事ができません。
また、皇帝が将軍を陥れて無実の罪を着せた際、アントニナの親友のテオドラ皇后が、「アントニナに免じて」と、将軍を恩赦します。
この際将軍は家に戻って妻の足下に平伏し、脚を抱き、足を舐め、今後は自分はもう夫としてではなく、恩を蒙った従順な奴隷として生きると誓約します。
アントニナとテオドラ皇后は、二人で協力して、将軍を次第次第に深い屈辱状態に追い落とし、理想的マゾヒストに仕込んで行ったようです。

ルイ十五世とデュバリ伯夫人
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フランソワ・ブーシェ『ポンパドゥール夫人』
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映画『デュバリ夫人』よりマルティーヌ・キャロル扮するデュバリ伯夫人
フランス国王ルイ十五世は三十五歳の時に、才色双絶で、驕慢かつ淫乱な嗜虐女性サディスティンとされるポンパドゥール夫人(当時二十四歳)に出会い、彼女が亡くなるまでの約二十年間、徹底的に訓練教化され、マゾヒストへの馴致が完成していました。
ポンパドゥール夫人の死から約三年の後、国王は最愛のドミナの面影をもつデュバリ伯夫人(当時二十六歳)に出会います。夫人はこの老いたマゾヒストを容易に奴僕とします。
夫人がベットからスリッパを蹴投げて「ほら、国王ラ・フランスや、拾っといで!」と犬に対するように命令したり、国王が夫人のベッドに朝の飲み物を運んで給仕した時、コーヒーを煮過ぎ、「そら、注意しなきゃ駄目よ、国王ラ・フランス。こんなの飲めると思って!」と口汚く罵ったり…といった逸話が残されています。

ルートヴィヒ一世とローラ・モンテス
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ヨーゼフ・スティーラー『ローラ・モンテス』
ロマンティックな近代西洋史の中でもひときわロマンティックなバイエルン王国史。
第二代国王のルートヴィヒ一世は、六十歳の時に英国生まれのスペイン舞姫フラメンコ・ダンサーローラ・モンテスの深淵のような明眸に夢中になります。
ローラは当時二十五歳。既に欧州各都市の社交界でアレクサンドル・デュマやフランツ・リストといった大芸術家・大資産家を迷わせてきた彼女にとっては、田舎の老君主など、容易に手玉に取ることができたのでしょう。
国王はローラの言いなり放題になって、平民出身で王国になんらの貢献もしていない外国人である彼女に、城と巨額の年金を与えた上、名門ランズフェルト伯爵家を嗣がせます。
国王は美貌の伯爵夫人から名前を呼び捨てにされながら、彼女の美しい足を手入れしたり、その靴を盃にして酒を飲んだり、彼女の臥ている寝台を支えたりするマゾ行為に及んだといいます。

末喜ばっき
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珍画集『汉妆潋滟』より
末喜は夏を、妲己は殷を、褒姒は周を、それぞれ滅ぼす原因となったとされる「傾国の美姫」です。
いずれのエピソードも、非常によく似通っています。歴史的な真実性は薄いのですが、古代中国人が心理的真実を教えてくれている伝説です。

末喜は「美しいが徳は薄く、道を乱した。心は男丈夫のようで、剣をき冠を被った。淫乱で贅沢な女性で、桀に道を失わせた。」と伝えられています。
夏の桀王はこの男装の美女に夢中になり、常にこの美姫を膝上に置いてその言うなりになりました。
(末喜は桀王の膝に横乗りに乗ったんでしょうか?末喜なら、もっと男らしく、桀王と体を平行に、桀王の体をクッションのようにして玉座に腰掛けたかも…なんて想像をしてしまいます。)
末喜は酒池を作って三千人の男女に牛のように池の酒を飲ませ、酔って溺死するのを見て笑い楽しんだといいます。

妲己だっき
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『梦回殷商 苏妲己』より
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時代劇『封神演義』より、ルビー・リン扮する妲己
殷の紂王は寵妃妲己の望むことならなんでも叶え、そのために民に重税をかけました。妲己を誹謗する者は容赦なく殺しました。
妲己が好んだ処刑方法に、「炮烙ほうらくの刑」があります。
膏を塗った銅柱を炭火の上に構え、上を歩かせるというものです。
妲己はこれを見て声を上げて笑ったといいます。
仁の人で知られる人物が紂王を諌めると、妲己は「聖人には心に七つの穴が開いていると言われています、ほんとうかどうか調べてみては?」と紂王に耳打ちし、聖人の胸を切開させてしまいました。
妲己が好きだったゲームの一つは、妊婦を検分して胎児の性別を当てるというもの。もちろん分娩するまで結果を待ったりしません。その場で下腹部を切開して結果を確認してしまいます。

褒姒ほうじ
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珍画集『汉妆潋滟』より
周の幽王は褒姒の冷たい美貌に夢中になります。
幽王は褒姒のめったに見せない笑顔を見るために、あらゆる手を尽くします。
高級な絹を裂く音を聞いた褒姒がフッと微か笑ったのを見て、幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂きます。それにあわせて褒姒が微かに笑うのですが、次第に笑わなくなります。
ある日、何かの手違いで烽火が上がり、諸侯が周の王宮に集まったときのこと、重臣たちの、間の抜けた顔が面白かったのか、そんなようすを見ていた褒姒が突然、笑い出します。そのときの花のような笑顔と鈴の音のような笑い声に歓喜した幽王は、その後もただ褒姒のを笑わせるためだけに、有事でもないのに何度も烽火を上げては諸侯を集め、諸侯の信頼を失っていきます。

さて、谷崎潤一郎は、沼以上にこれらの「傾国の美姫」を愛し、研究していたことが、諸作品から伺えます。

例えば『捨てられる迄』には、

其の世界に於いて、彼は先ず恋人に女王の宝冠を捧げた。さうして、其の宝冠に適しい絶対の権力と威厳と、勇気と、品位とを具備するやうに彼の女を導いた。バビロンや、埃及エジプトや、羅馬ローマや、支那や、―――さう云う古代の国々の伝説に、罪悪の花を咲かせて居る偉大な女王や后妃の性格を、彼は恋人の魂に打ち込まうと試みた。



とあります。まさに理想の女性像を古代の淫虐な美姫に見出しているようです。

末喜や妲己の伝説を、そのまんま小説にしたのが『麒麟』です。
春秋戦国時代、衛の君主:霊公とその妃:南子のもとを孔子一行が訪れるというマイナーな史実に基づいているんですが、本筋はほとんど末喜や妲己の伝説が使われています。

タグ : マゾヒズム谷崎潤一郎沼正三家畜人ヤプーある夢想家の手帖からクレオパトラ妲己バイエルンクラフト・エビング

沼正三のスクビズム(2)―『手帖』第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」~ドミナを選ばば曽野綾子

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」において沼は、才女(アテネ型ドミナ)崇拝の一例として、沼より(おそらく)十歳近く年少で、既婚であった美人女流作家:曽野綾子のファンである、と宣言しています。

聖心女子学院高等科時代の曽野綾子
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23歳で文壇デビューし、年輩の男性作家と肩を並べて戦後の文壇をリードした作家。そして当時としては異例の身長165cmという長身美女。「才色双絶」とは彼女のためにあるような言葉です。女性の社会進出が進んでいなかった当時としては、どれほど輝いていたことでしょうか。そりゃあ沼先生は惚れますわね。わかります。

しかし、その惚れ方が、ただごとじゃありません。

他のドミナと違って女流作家の場合には、作品の媒介物があるので、次第に傾倒の度が深まるという現象がある―曽野さんの場合、初めはただ彼女の小説やエッセイを貪り読んだ。
…自分より後に生まれた人の書いたものと知りつつ、古典同様人間の生き方を教えられたような気がした。自分より若い女性へのこういった私淑感ははじめての経験であった。
…小品や感想文まで貴重な傑作に思えたのは、才女憧憬心理からの対象神格化が生じていたのである。職業作家の文筆活動の産物はすべて精神的排泄物の一面がある。何でも彼でも傑作に見えるとすれば、一種の汚物崇拝である。



…要するに、「曽野綾子の書いた物を貪り読むことは、彼女の排泄したものを貪り喰う快楽に似ている」ということです。
さすがにこれを読んだときは、「沼先生、頭の中、どうなっちゃってるんですか?」と思いましたよ。
しかし…この奇怪な妄想が、時間がたつにつれて私を魅していくのです。

女流作家には、いくら憧れていても、なかなか会えません。これは、崇拝する美女に触れることを禁じられた切なさに近いものがあります。しかし、女流作家の脳から生み出され、女流作家の手によって書かれた文章はいつでも読めます。女流作家がどこにいて、何をしていても、作品は読めます。これは、美女の体から出た排泄物であれば、美女の肉体に触れずとも、美女と物理的に隔絶していても、触れ、口にし、自らの体とひとつにすることができる、この感覚に似ています。女流作家が新しい作品を発表する。それをすぐさま買いに走る。これは憧れの人の体から出たものに浅ましく飛びつく感覚にそっくりです。『家畜人ヤプー』には、白人貴族の尿は奴隷の高級酒となるので、これを大量に物質複製する、というアイデアが出てきますが、多くの愛読者のために大量に印刷される女流作家の作品を、これに擬しても、まったく不自然ではありません。

いつしかこの妄想は私の大好きな自慰用シナリオに膨らんでいきました。想像力さえ働かせれば、いくらでも新しい快楽を見つけることができる、それがマゾヒズムなんだと思います。

以下は、私の妄想した、「沼正三から曽野綾子へのファンレター」です。

曽野綾子先生

拝啓
若葉の候、ますますご壮健のこととお喜び申し上げます。
先生先生、今日もまた、先生にお手紙を書いてしまいました。時候の挨拶の言葉も尽きようとしています。毎日毎日ファンレターを送ってこないで、少しは憚れ、とお思いかと存じます。私としては、勝手に先生に憧れ、勝手に私淑し、勝手にファンレターを書かせていただいている身でございますので、先生に読んで頂きたいなどという畏れ多いことは考えておりません。どうぞ、封を解かずにに捨てて頂いて結構でございます。毎日ゴミを送ってくるのは迷惑だ、とお思いになるかと存じます。しかし、私は、寝ても覚めても先生を慕う気持ち、憧れる気持ち、尊敬する気持ちをとどめる事ができず、筆が止まらないのでございます。初めて恋をした少年のような気持ち、あるいは、何年も会えずにいる母に憧れる小僧のような気持ち、とでも思っていただけたら、お分かりいただけるかもしれません。先生からしたら、本当に便箋を無駄に浪費したゴミそのものというような文章でございましょうが、これを書くことによって、少し、発作がおさまり、胸の疼きが癒えるのでございます。どうか、禽獣にまで及ぶというその深い深いご慈悲で、私がファンレターをお送りすることをお許しください。私は、先生が、郵便物の差出人名に私の名を見るや、またか、といって、直ちに屑籠に投げ入れている様を想像すると、それだけで、ぽかぽかと満たされたような、ありがたい気持ちになるのでございます。逆に、封を開けて文章をご覧になるということを想像しますと、いかに私の下劣で支離滅裂な文章が、先生の聡明で穢れのないお眼を汚すかと思うと、畏れ多くて、畏れ多くて、それだけで胸がそわそわしてしまうのでございます。

先生先生、私は、今までは、最高級の便箋に私の駄文を書いてお送りしていました。私の先生に対する神聖といってもいいくらいの憧れと尊敬のお気持ちを書き表すには、最高級の便箋がふさわしいと考えたからです。しかしよく考えますと、いくら私にとって神聖な気持ちを表したといって、先生にとってはゴミでしかないのですから、高級便箋がふさわしいなどというのは、とんでもなく滑稽な思い上がりなのではないかと思うようになりました。最近私は、最高級のトイレットペーパーに、先生へのファンレターを書いております。ファンレターは私の自己の満足のために書いて先生のもとへ送らざるを得ない。しかしそれを便箋に書いて封筒に入れてお送りしても、ゴミになるのだけであります。慈悲深い先生はそれを許してくださるかもしれないが、それでは申し訳ない。それならば、少しでも実用のお役に立つよう、トイレットペーパーにファンレターを書き、使っていただきたい、と思ったのでございます。ロールに巻かれているトイレットペーパーを、少しずつ引き出しては、高級便箋に書いていたときと同じように一字一字、私の先生に対するたまらないような、溢れるような想いをしたため、また、少しずつ丁寧にロールに巻いていくのでございます。私は一巻き分書き終わりましたらこれを、先生にお送りしようと考えているのでございます。私は、私が一字一字先生への神聖な気持ちを込めて書いた紙が、先生の生活の実用の役に供されている場面を想像すると、法悦と申しますか、ecstacyに近い感動を覚えるのでございます。先生は、私の卑賤な文章が私の汚い字で書かれた紙が肌に触れるのは汚らわしい、と思われるかもしれません。至極ごもっともな事でございますので、そのときは、どうか、女中さんがトイレの床を掃除するときや、先生のお靴を磨くときに、お使いいただけたら、この上なくありがたく思うのです。

先生先生、先日、先生の御本は、私の書斎の一番高級な書棚の、一番上に鎮座していらっしゃる、そこは以前は谷崎全集を置いていたが、それを全部どかして先生の御本をお納めした、私は毎日朝昼晩先生の御本に向かってお辞儀をしている、などと申し上げましたが、今は、そこには谷崎全集を戻しております。先生の御本はもう書斎には一冊もございません。私は応接間の壁の高いところに、神棚のようなものを作り、先生の御本はそこにお移り頂いたのでございます。私は毎日、朝起きるとまず体を清め、応接間に入って先生の御本に向かって頭をつけて御挨拶をするのでございます。今日も、私をお導きください、と、大きな声でご挨拶します。それから、三十分かけて神棚をお掃除いたします。それから、先生の御本に、授業をしていただくのでございます。朝は二時間、直立して、大声で先生の御本を朗読いたします。先生の御本を朗読していると、先生のお教えを、体に叩き込まれている感じがして、ゾクゾクするような感動が、全身を満たします。午後は二時間、先生の御本を書き写します。一字一字丁寧に書き写していると、頭の中にある余計な知識や情報が、先生の教えによって叩き出されていく感じがして、スゥと、高いところ(先生の御足下よりは、ずうっと低いところでございます)に引き上げられていくような感じがいたします。

先生先生、私は、私の頭の中の、記憶、経験、知識、情報、その他人格を作り上げている一切のものが頭から叩き出されて、先生の教えで頭の中が完全に満たされれば、いったい今よりどれだけ上等な人間になれるんだろうと考えています。たとえば、ニーチェなら、先生がニーチェについて数行触れている文章を、何百回でも読み、頭に刻み込んだほうが、私ごときの理解力でニーチェの全集を読むことよりも、はるかにニーチェを正しく理解した、ということになりましょう。あるいは、私の目に白く見えていたもについて、先生がお書きになったものに「黒だ」と書かれていたとしたら、それは百パーセント間違いなく黒なのでありますから、私の眼にそれが自然に黒く見えるまで、何百回でも何千回でも何万回でもその文章を読み、朗読し、書き写すことで私の頭の畸形を矯正せねばならない、と思っております。

先生先生、私は、私に文章を教え、世界を教え、人生を教え、考え方を教え、ものの見方を教え、本当の哲学を教え、本物の神様を教えてくださる先生の御本一冊一冊は、私の命よりも、遥かに尊いものだと思っております。あるいは、先生の小説に登場する人物、彼らも私にいろんなことを教えてくださるお師匠様ですので、たとえ小僧であっても、頭をつけて挨拶したいと思っているのでございます。いいえ、もっと申しますと、先生の御本の中の活字一字一字が、先生の、私などには想像もつかぬような、聡明で、神聖な頭の中(本当の極楽浄土のようなところではないかと思っております。)からお生まれになり、先生の手によって書かれたものが印刷されたかと思うと、その活字一字一字ですら、私ごときの命とは比較にならないほど尊いものに思えてしまうのです。私が、何を申したいのか、聡明な先生には(私などから見ますと、先生は本当に全知なのではないか、一を見聞きすることで百も千も理解されてしまうのではないかと思ってしまうのです。)もうお分かりかと存じます。敬虔なクリスチャンでいらっしゃる先生に対してこのような考えを抱くことが、どれほど罪深いことかを考えますと、申し上げるのが憚られますが、心の中で思う罪と、申し上げる罪は同じかと思い、畏れながら申し上げます。先生先生、私の本当の神様は先生なのでございます。地獄の火に焼かれようとも、この心の中の想いは消えてくれないのでございます。先生先生、先生の深い深いご慈悲にお許しを請います。心の中で先生を神様としてあがめることをお許しください。

敬具

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沼正三のスクビズム(1)―『手帖』第三章「愛の馬東西談」~アリストテレスの馬

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第二章から第七章は、「馬」をテーマにしています。章題と概要は下記のとおりです。

第二章 馬上の令嬢
アルテミス(ダイアナ)型のドミナの一典型として、乗馬をたしなむ上流階級の令嬢を考察します。

第三章 愛の馬東西談
人間馬を扱った東西の古典説話を紹介します。

第四章 ナオミ騎乗図
谷崎潤一郎『痴人の愛』の人間馬場面を徹底考察。二次創作付きです。

第五章 侯爵令嬢の愛馬
エミール・ゾラ『一夜の情を求めて』を紹介。ある侯爵令嬢が二人の青年をそれぞれ馬と犬に馴致し、彼らを踏み台に幸せを掴むシンデレラ・ストーリー。

第六章 生きた玩具としての人間馬
『あるロシアの踊り子の回想』という小説を紹介。小公子小公女による、領民の子女を玩具とした雅な遊びをたっぷりと。「両脚型」の人間馬が登場します。

第七章 人間馬による競馬
『鞭打つ女たち』という小説を紹介。欧州貴族が米大陸の奴隷に転落し、転々と売られ酷使されます。「補助車型」の人間馬が登場します。

特段「馬派」であるという自覚のない私ですが、これを読んでいる間は馬派にならざるをえない、というくらい、素晴らしくマゾヒスティックな内容です。

さて、この中でも私が特に大好きなのが、第三章「愛の馬東西談」に紹介されている説話「アリストテレスの馬」です。簡単にご紹介します。

大哲学者アリストテレスは、マケドニアの宮殿に招かれ、後にアレクサンドロス大王となる王子の専属家庭教師をしていました。ところが宮女フィリスとの恋に夢中になった王子は、次第に学業が疎かになっていきます。アリストテレスは王子を「色欲を慎みなされ、娘っ子など忘れなされ。女は茨じゃ!」と叱責し、二人の仲を割こうとします。
事情を知ったフィリスは大広間で密会した際、王子に、老人への復讐を約束します。

「学者先生は毎朝この大広間で散策するの。妾、明日ここで待伏せしてやる。そして目に物見せてくれるわ。よくって。あなたは、外に隠れていて、妾が奴をピシャピシャ叩いている音が聞えたら、そうーっと入って来るのよ。胸のすくような思いをさせたげるわ」


翌朝、大広間を散策していたアリストテレスの前にフィリスが現れ、「お馬ごっこをしたい」とせがみます。老人は初めは威厳を損じることをおそれて拒絶しますが、フィリスは色仕掛けでたぶらかします。手練手管に老人は落城し、四つん這いになって、背中にはクッションの鞍を乗せ、口には手綱をくわえます。老馬が前進をし始めてから、最後にフィリスがひらりと飛び乗ります。
一通り乗り回したところに、王子が現れ、恋人に接吻の雨を降らせます。老人は頭上に、勝者の嘲りを聞きます。

「先生、何ということです。分かりましたよ。哲学も倫理学も心理学も解剖学も役に立たなかった。色欲を誡めたくせに女に乗られている。娘っ子を忘れろといいながらその娘の手綱をくわえている。女は茨じゃと教えて女の拍車を受けている。それなのに、この十七歳の私が青春をあきらめなければならないのですかね?」
「違うわ!あなた、ここへいらっしゃいな。(跨ったまま王子を抱擁して)妾の胸に、妾の口に、寄り添って何時間でも!この右手で髪に触らせて、この左手で腕を握らせて!ゆっくり楽しみ、うんと遊び、大いに祝いましょう!妾が(この馬を)支配するための時間は、たんと残っているわ。さあ、学者先生、進むのよ!」



この説話は、もちろん史実である可能性は低く、東方発祥の説話が伝播し、欧州においては、アリストテレスとアレクサンドロス大王が、登場人物として当てはめられてしまったようです。この説話は中世以降大いに流布し、特に中世神学においても大きな権威をもっていたアリストテレスを、美しく、自由奔放で情熱的な若者たちが屈服させるという構図は、ルネサンスの「人間賛美」の考えに合致し、多くの歌劇や芸術作品の題材となったようです。(一部作品の画像が入手できましたので、末尾に掲載しました。)

さて、私が、この説話が他の人間馬談と比較して特に好きなのは、人間馬そのものの昂奮の他に、大好きな要素が入っているからです。すなわち下記の二点です。

①「美尊醜卑」の秩序
アリストテレスは大哲学者としての絶大な「権威」、そして王子に対しては年長者として、教師としての絶対的な「立場」を持っています。これらは人間社会が作り出した「秩序」「礼儀」などの人為的な価値基準に支えられた一種の「力」です。普段、人間社会の一員として生きていくうえでは、皆、これらの人為的な価値基準を尊重し、それに支えられた力に従って生きています。しかし、自然な本心では、「権威」や「立場」に、それほどの価値を認めていません。私が価値を認めるのは、「美」です。美しいものが大好きなのです。美しいものを見ると、もうその他の価値のことなどどうでもよくなってしまいます。
そして、この世で最も美しいものは何か、それはフィリスが備える、若い美女の容貌・肉体です。これは、人間が、社会の一員である前に、一匹の雌雄異体動物であることを重視するならば、至極当たり前のことです。この、この世で最も美しいものの価値を、さらに高みに上げたいと思い、そのためには、そうだ、その他の価値を貶めてしまおうと考えるのが、「美尊醜卑」の秩序です。「耽美主義」という言葉も近い概念ですが、私の考えはむしろ、ルネサンスの中心的な思想である「人間至上主義」に近く、この「人間」を、「人間の(精神を排した)肉体」と読みかえたものかな、と思っています。
「アリストテレスの馬」の構図は、三人の登場人物を不自然に縛っていた社会的、人為的な秩序が破壊され、自然的な「美尊醜卑」の秩序に再編成される様が見事に象徴的に描かれていると思います。「美尊醜卑」に関しては、谷崎序論①~③もご参照ください。

②トリオリズム
トリオリスム。三者関係。マゾッホ、谷崎、沼といった文豪も好み、現在の日本においても「劣位の三角関係」「寝取られマゾ」「カップルの奴隷願望」などという用語も提唱されるなど、根強い愛好者をもつこの奇怪な願望については、とてもここでは説明し切れません。私にとっては、本当に身も心も蕩かすような強力な魅力を持った願望ですので、いずれ本格的に論じたいと思います。
特に、トリオリズムとスクビズムをミックスしたモチーフ、妄想は、危険なくらいに強く私を魅了します。「二人に乗られる」「二人の前に土下座する」「二人の足を…(色々)」「二人の体から出たものをミックスして…(自重)」といったものです。そして、自分は二人に「下から」奉仕したまま、上位の二人が愛し合う。この妄想は私に、「お前は存在そのものとしては完全に無価値である、故に奉仕することによってのみ、お前の存在価値は生まれる」ということを脳にダイレクトに叩き込まれるような、超強力な快楽を私に与えます。
「アリストテレスの馬」の構図は「二人に乗られる」「背中の上で愛し合う」というトリオリズムとスクビズムのミックスが見事に象徴的に描かれています。

さて、前二記事の、二本の谷崎作品の二次創作は、この「アリストテレスの馬」を契機に妄想したものです。
①「美尊醜卑」の秩序の要素を入れるため、人間馬には、いずれも年長者であり、職業としても本来敬われるべき教師と僧になってもらいました。②トリオリズムの要素は、『無明と愛染』にはもとより含まれており、無明太郎には当然の権利の行使として畜生法師の背に乗ってもらいました。
『鶯姫』の場合は、トリオリズムを準三者関係にすり替えて、子爵令嬢の三人のご学友に、代わりばんこに一緒に乗ってもらいました。老先生は、憧れの美少女「専用」の馬にはなれず、ご学友三人との「共有」になってしまいました。人間馬になること(スクビズム)で人格を否定された上、ご学友との共有にされたこと(準三者関係)によって、馬としての存在意義も否定される感覚。トリオリズムを好まない、という方の中にも、この切ない快感はわかる、と思っていただける方がいらっしゃれば、幸いです。
さらに『鶯姫』の二次創作には、「間接支配によって、最上位者との隔絶を楽しむ」という要素も含めています。老先生憧れの子爵令嬢が一人で騎乗したのは最初の一周だけ。それ以降はご学友が一緒に乗っており、手綱を引いているのもご学友。子爵令嬢は座布団の鞍に座ってしまい、直接お尻を乗せているのもご学友。今後乗馬鞭が導入されたとして、それを振るうのもご学友でしょう。四少女の新しい召使に、一挙一動の細かい命令をして直接支配するのは、年少の子爵令嬢をお姫様として仰ぎ見ている三少女の役割となるでしょう。そうなったとき、老人には、時折下される子爵令嬢の言葉は、どれほど恐ろしく、どれほどありがたく響くことでしょうか。この三少女の役割は、『家畜人ヤプー』においては、黒奴が務めているのですが、私の(私の、ですよ!)審美眼から言うと、アフロアフリカンの子孫を間接支配者に置くのは、「美尊醜卑」の秩序に合致せず、不満です。子爵令嬢→三少女→老人というような、分かりやすい美醜の序列に基づいた秩序のほうが、しっくりくるのではないかと思います。

「フィリスに乗られたアリストテレス」青銅製水差し、1400年ごろ、フランス
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王子に対しては「この右手で髪に触らせて、この左手で腕を握らせて!」といったフィリスの発言との対比を意識しているんでしょうか。

H.B.グリーン「馴らされたアリストテレス」(1513年)
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『手帖』の挿絵として採用されています。

以下詳細不明

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参考:映画「アレクサンダー」の一場面:アレクサンドロス王子とアリストテレス
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