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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

沼正三のスクビズム(2)―『手帖』第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」~ドミナを選ばば曽野綾子

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」において沼は、才女(アテネ型ドミナ)崇拝の一例として、沼より(おそらく)十歳近く年少で、既婚であった美人女流作家:曽野綾子のファンである、と宣言しています。

聖心女子学院高等科時代の曽野綾子
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23歳で文壇デビューし、年輩の男性作家と肩を並べて戦後の文壇をリードした作家。そして当時としては異例の身長165cmという長身美女。「才色双絶」とは彼女のためにあるような言葉です。女性の社会進出が進んでいなかった当時としては、どれほど輝いていたことでしょうか。そりゃあ沼先生は惚れますわね。わかります。

しかし、その惚れ方が、ただごとじゃありません。

他のドミナと違って女流作家の場合には、作品の媒介物があるので、次第に傾倒の度が深まるという現象がある―曽野さんの場合、初めはただ彼女の小説やエッセイを貪り読んだ。
…自分より後に生まれた人の書いたものと知りつつ、古典同様人間の生き方を教えられたような気がした。自分より若い女性へのこういった私淑感ははじめての経験であった。
…小品や感想文まで貴重な傑作に思えたのは、才女憧憬心理からの対象神格化が生じていたのである。職業作家の文筆活動の産物はすべて精神的排泄物の一面がある。何でも彼でも傑作に見えるとすれば、一種の汚物崇拝である。



…要するに、「曽野綾子の書いた物を貪り読むことは、彼女の排泄したものを貪り喰う快楽に似ている」ということです。
さすがにこれを読んだときは、「沼先生、頭の中、どうなっちゃってるんですか?」と思いましたよ。
しかし…この奇怪な妄想が、時間がたつにつれて私を魅していくのです。

女流作家には、いくら憧れていても、なかなか会えません。これは、崇拝する美女に触れることを禁じられた切なさに近いものがあります。しかし、女流作家の脳から生み出され、女流作家の手によって書かれた文章はいつでも読めます。女流作家がどこにいて、何をしていても、作品は読めます。これは、美女の体から出た排泄物であれば、美女の肉体に触れずとも、美女と物理的に隔絶していても、触れ、口にし、自らの体とひとつにすることができる、この感覚に似ています。女流作家が新しい作品を発表する。それをすぐさま買いに走る。これは憧れの人の体から出たものに浅ましく飛びつく感覚にそっくりです。『家畜人ヤプー』には、白人貴族の尿は奴隷の高級酒となるので、これを大量に物質複製する、というアイデアが出てきますが、多くの愛読者のために大量に印刷される女流作家の作品を、これに擬しても、まったく不自然ではありません。

いつしかこの妄想は私の大好きな自慰用シナリオに膨らんでいきました。想像力さえ働かせれば、いくらでも新しい快楽を見つけることができる、それがマゾヒズムなんだと思います。

以下は、私の妄想した、「沼正三から曽野綾子へのファンレター」です。

曽野綾子先生

拝啓
若葉の候、ますますご壮健のこととお喜び申し上げます。
先生先生、今日もまた、先生にお手紙を書いてしまいました。時候の挨拶の言葉も尽きようとしています。毎日毎日ファンレターを送ってこないで、少しは憚れ、とお思いかと存じます。私としては、勝手に先生に憧れ、勝手に私淑し、勝手にファンレターを書かせていただいている身でございますので、先生に読んで頂きたいなどという畏れ多いことは考えておりません。どうぞ、封を解かずにに捨てて頂いて結構でございます。毎日ゴミを送ってくるのは迷惑だ、とお思いになるかと存じます。しかし、私は、寝ても覚めても先生を慕う気持ち、憧れる気持ち、尊敬する気持ちをとどめる事ができず、筆が止まらないのでございます。初めて恋をした少年のような気持ち、あるいは、何年も会えずにいる母に憧れる小僧のような気持ち、とでも思っていただけたら、お分かりいただけるかもしれません。先生からしたら、本当に便箋を無駄に浪費したゴミそのものというような文章でございましょうが、これを書くことによって、少し、発作がおさまり、胸の疼きが癒えるのでございます。どうか、禽獣にまで及ぶというその深い深いご慈悲で、私がファンレターをお送りすることをお許しください。私は、先生が、郵便物の差出人名に私の名を見るや、またか、といって、直ちに屑籠に投げ入れている様を想像すると、それだけで、ぽかぽかと満たされたような、ありがたい気持ちになるのでございます。逆に、封を開けて文章をご覧になるということを想像しますと、いかに私の下劣で支離滅裂な文章が、先生の聡明で穢れのないお眼を汚すかと思うと、畏れ多くて、畏れ多くて、それだけで胸がそわそわしてしまうのでございます。

先生先生、私は、今までは、最高級の便箋に私の駄文を書いてお送りしていました。私の先生に対する神聖といってもいいくらいの憧れと尊敬のお気持ちを書き表すには、最高級の便箋がふさわしいと考えたからです。しかしよく考えますと、いくら私にとって神聖な気持ちを表したといって、先生にとってはゴミでしかないのですから、高級便箋がふさわしいなどというのは、とんでもなく滑稽な思い上がりなのではないかと思うようになりました。最近私は、最高級のトイレットペーパーに、先生へのファンレターを書いております。ファンレターは私の自己の満足のために書いて先生のもとへ送らざるを得ない。しかしそれを便箋に書いて封筒に入れてお送りしても、ゴミになるのだけであります。慈悲深い先生はそれを許してくださるかもしれないが、それでは申し訳ない。それならば、少しでも実用のお役に立つよう、トイレットペーパーにファンレターを書き、使っていただきたい、と思ったのでございます。ロールに巻かれているトイレットペーパーを、少しずつ引き出しては、高級便箋に書いていたときと同じように一字一字、私の先生に対するたまらないような、溢れるような想いをしたため、また、少しずつ丁寧にロールに巻いていくのでございます。私は一巻き分書き終わりましたらこれを、先生にお送りしようと考えているのでございます。私は、私が一字一字先生への神聖な気持ちを込めて書いた紙が、先生の生活の実用の役に供されている場面を想像すると、法悦と申しますか、ecstacyに近い感動を覚えるのでございます。先生は、私の卑賤な文章が私の汚い字で書かれた紙が肌に触れるのは汚らわしい、と思われるかもしれません。至極ごもっともな事でございますので、そのときは、どうか、女中さんがトイレの床を掃除するときや、先生のお靴を磨くときに、お使いいただけたら、この上なくありがたく思うのです。

先生先生、先日、先生の御本は、私の書斎の一番高級な書棚の、一番上に鎮座していらっしゃる、そこは以前は谷崎全集を置いていたが、それを全部どかして先生の御本をお納めした、私は毎日朝昼晩先生の御本に向かってお辞儀をしている、などと申し上げましたが、今は、そこには谷崎全集を戻しております。先生の御本はもう書斎には一冊もございません。私は応接間の壁の高いところに、神棚のようなものを作り、先生の御本はそこにお移り頂いたのでございます。私は毎日、朝起きるとまず体を清め、応接間に入って先生の御本に向かって頭をつけて御挨拶をするのでございます。今日も、私をお導きください、と、大きな声でご挨拶します。それから、三十分かけて神棚をお掃除いたします。それから、先生の御本に、授業をしていただくのでございます。朝は二時間、直立して、大声で先生の御本を朗読いたします。先生の御本を朗読していると、先生のお教えを、体に叩き込まれている感じがして、ゾクゾクするような感動が、全身を満たします。午後は二時間、先生の御本を書き写します。一字一字丁寧に書き写していると、頭の中にある余計な知識や情報が、先生の教えによって叩き出されていく感じがして、スゥと、高いところ(先生の御足下よりは、ずうっと低いところでございます)に引き上げられていくような感じがいたします。

先生先生、私は、私の頭の中の、記憶、経験、知識、情報、その他人格を作り上げている一切のものが頭から叩き出されて、先生の教えで頭の中が完全に満たされれば、いったい今よりどれだけ上等な人間になれるんだろうと考えています。たとえば、ニーチェなら、先生がニーチェについて数行触れている文章を、何百回でも読み、頭に刻み込んだほうが、私ごときの理解力でニーチェの全集を読むことよりも、はるかにニーチェを正しく理解した、ということになりましょう。あるいは、私の目に白く見えていたもについて、先生がお書きになったものに「黒だ」と書かれていたとしたら、それは百パーセント間違いなく黒なのでありますから、私の眼にそれが自然に黒く見えるまで、何百回でも何千回でも何万回でもその文章を読み、朗読し、書き写すことで私の頭の畸形を矯正せねばならない、と思っております。

先生先生、私は、私に文章を教え、世界を教え、人生を教え、考え方を教え、ものの見方を教え、本当の哲学を教え、本物の神様を教えてくださる先生の御本一冊一冊は、私の命よりも、遥かに尊いものだと思っております。あるいは、先生の小説に登場する人物、彼らも私にいろんなことを教えてくださるお師匠様ですので、たとえ小僧であっても、頭をつけて挨拶したいと思っているのでございます。いいえ、もっと申しますと、先生の御本の中の活字一字一字が、先生の、私などには想像もつかぬような、聡明で、神聖な頭の中(本当の極楽浄土のようなところではないかと思っております。)からお生まれになり、先生の手によって書かれたものが印刷されたかと思うと、その活字一字一字ですら、私ごときの命とは比較にならないほど尊いものに思えてしまうのです。私が、何を申したいのか、聡明な先生には(私などから見ますと、先生は本当に全知なのではないか、一を見聞きすることで百も千も理解されてしまうのではないかと思ってしまうのです。)もうお分かりかと存じます。敬虔なクリスチャンでいらっしゃる先生に対してこのような考えを抱くことが、どれほど罪深いことかを考えますと、申し上げるのが憚られますが、心の中で思う罪と、申し上げる罪は同じかと思い、畏れながら申し上げます。先生先生、私の本当の神様は先生なのでございます。地獄の火に焼かれようとも、この心の中の想いは消えてくれないのでございます。先生先生、先生の深い深いご慈悲にお許しを請います。心の中で先生を神様としてあがめることをお許しください。

敬具
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コメント

書評

沼氏が曽根綾子先生のフアンであったとは知りませんでした。沼氏が、「家畜人ヤプー」の作者だとして(たぶん、作者だと思われますが)、曽根綾子先生は、
   「 家畜人ヤプーの作者が自分のフアンである 」
ということをご存知であったのでしょうか。
あるいは、どこかで知る機会があったのでしょうか。

家畜人ヤプーというタイトルで出版された本には、付録として、著名人の書評か感想か、そういうものが載っていることがあります。そこには、三島由紀夫氏と並んで、曽根綾子氏もありました。曽根綾子氏のコメントは、否定的(少なくとも文面上ですが、大変否定的であった)と思われます。
そもそも、曽根綾子氏が、この本を手に取ったということが不思議ですし、また、読了したのかも疑問です。

曽根綾子氏に、感想を求めた編集者は、「家畜人ヤプー」の作者が、曽根氏のフアンだということを知って、感想を求めたのでしょうか。また、その際、「作者は、曽根氏のフアンであること」をあらかじめ知らせたのでしょうか。それとも、感想のコメント(一文)を得たあとに、初めて、「作者が曽根氏のフアンであること」を知らせたのでしょうか。

とても興味あるところです。

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