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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

沼正三のスクビズム(3)―『手帖』第二八章「性的隷属の王侯たち」

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第二八章は「性的隷属の王侯たち」と題され、世界史上に数多く見られる、君主を性的に隷属させた「傾国の美姫」を扱っています。

一国の君主を美女が隷属させる……これほどロマンティックなことがあるでしょうか。
美女に心を支配されてしまった君主の財産は、国土は、臣民は、全て美女の所有物となってしまいます。
一挙手の労で君主を足下に跪かせることのできる美女にとって、その臣民の命など、自分の爪の垢ほどの価値も感じることはできないでしょう。
まさに「美の完全勝利」。
想像するだけで胸躍るそんな夢のような状況が、世界史を紐解くと、数多く実在していたんですね。

さて、沼は本章で「性的隷属」と「マゾヒズム」の違いを強調しています。
要するに、

性的隷属→相手の歓心を繋ぎとめるため、隷属する。
マゾヒズム→相手に隷属すること自体が目的。

ということです。

ところが、最初は性的隷属状態だったのが、次第にマゾヒズムに移行する場合があるといいます。
その心理状態は、クラフト・エビングの『病的性心理』を引用して説明されています。

誰でも性的隷属状態に長い間生活すると軽度のマゾヒズムを獲得し易い。愛人の専制を喜んで受け容れようとする愛情は、直接専制されるのを喜ぶ愛情に転化する。専制を耐え忍ぶ時の気持ちが愛人を慕う楽しさと結合することが長く続くと、この楽しさがついには専制そのものに結び付いてしまう。こうして倒錯への移行が完成する。このようにマゾヒズムが訓練教化によって獲得されることもあるのだ。



沼も、谷崎潤一郎も、この「性的隷属からマゾヒズムへ移行する」というストーリーが大好きです。私も大好きです。皆さんもお好きですよね?
ネット上に発表されているマゾヒズム小説も、このストーリーが多く、性的隷属からマゾヒズムへ移行する過程がうまく書かれているものほど、高く評価されている気がします。
先天的なマゾヒストなのに、ストーリーとしては、(顕在的には)マゾヒストではないところからスタートしたがるんですね。
なぜか。それは「堕ちていく快楽」を味わいたいからなんですね。
谷底の住人が、いったん崖の上まで上がってから、また谷底へ落っこちる快楽を何度も味わうようなものです。

思えばマゾヒストは、四六時中マゾヒストとしてふるまえるわけじゃないんですね。
ほとんどの時間は、獣畜たる本性を檻に閉じ込めて置かなければならない。
恋人に対してすら本性を隠し、ノーマルな恋愛関係を築いている人も多いでしょう。
「堕ちていく快楽」は、その抑圧された本性が解き放たれる疑似体験ができる快楽、と言えるかもしれません。

さて、王侯と美姫の話に戻りますと、単純な「性的隷属」状態であった王侯と美姫の例は、

・玄宗皇帝と楊貴妃(唐)
・アントニウスとクレオパトラ(古代ローマ)

が挙げられています。

一方、「性的隷属」状態から「マゾヒズム」に移行した例は、

・高宗と則天武后(唐)
・ベリサリウスとアントニナ(東ローマ帝国)
・ルイ十五世とデュバリ伯夫人(フランス)
・ルトヴィヒ一世とローラ・モンテス(バイエルン)
・アレキサンドル一世とドラガ王妃(セルビア)

が挙げられています。

また、伝説上の例として、

・ヘラクレスとオンファーレ(古代ギリシア)
・桀王と末喜ばっき(夏)
・紂王と妲己だっき(殷)
・幽王と褒姒ほうじ(周)

が挙げられています。

この中から、いくつか事例を見てみましょう。

ベリサリウスとアントニナ
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バンジャマン・コンスタン『コロッセオのテオドラ皇后』                     ジャンナ・マリア・カナーレ扮するテオドラ皇后
六世紀前半、東ローマ帝国は、ユスティニアヌス帝の下で大きく発展し、一時的にかつてのローマ帝国の最大版図のほとんどを支配下に治めます。
この「再征服」に大貢献したのがベリサリウス将軍で、「史上最高の指揮官」と評す人もいます。
ところがこの大将軍が、元踊り子ダンサーの淫乱な妻アントニナに徹底的に隷属します。
アントニナは、将軍が恩義をかけた養子のテオドシウスという青年と不倫します。
将軍は妻と養子のが裸で抱き合っている現場を目撃しながら、それを責める事ができません。
また、皇帝が将軍を陥れて無実の罪を着せた際、アントニナの親友のテオドラ皇后が、「アントニナに免じて」と、将軍を恩赦します。
この際将軍は家に戻って妻の足下に平伏し、脚を抱き、足を舐め、今後は自分はもう夫としてではなく、恩を蒙った従順な奴隷として生きると誓約します。
アントニナとテオドラ皇后は、二人で協力して、将軍を次第次第に深い屈辱状態に追い落とし、理想的マゾヒストに仕込んで行ったようです。

ルイ十五世とデュバリ伯夫人
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フランソワ・ブーシェ『ポンパドゥール夫人』
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映画『デュバリ夫人』よりマルティーヌ・キャロル扮するデュバリ伯夫人
フランス国王ルイ十五世は三十五歳の時に、才色双絶で、驕慢かつ淫乱な嗜虐女性サディスティンとされるポンパドゥール夫人(当時二十四歳)に出会い、彼女が亡くなるまでの約二十年間、徹底的に訓練教化され、マゾヒストへの馴致が完成していました。
ポンパドゥール夫人の死から約三年の後、国王は最愛のドミナの面影をもつデュバリ伯夫人(当時二十六歳)に出会います。夫人はこの老いたマゾヒストを容易に奴僕とします。
夫人がベットからスリッパを蹴投げて「ほら、国王ラ・フランスや、拾っといで!」と犬に対するように命令したり、国王が夫人のベッドに朝の飲み物を運んで給仕した時、コーヒーを煮過ぎ、「そら、注意しなきゃ駄目よ、国王ラ・フランス。こんなの飲めると思って!」と口汚く罵ったり…といった逸話が残されています。

ルートヴィヒ一世とローラ・モンテス
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ヨーゼフ・スティーラー『ローラ・モンテス』
ロマンティックな近代西洋史の中でもひときわロマンティックなバイエルン王国史。
第二代国王のルートヴィヒ一世は、六十歳の時に英国生まれのスペイン舞姫フラメンコ・ダンサーローラ・モンテスの深淵のような明眸に夢中になります。
ローラは当時二十五歳。既に欧州各都市の社交界でアレクサンドル・デュマやフランツ・リストといった大芸術家・大資産家を迷わせてきた彼女にとっては、田舎の老君主など、容易に手玉に取ることができたのでしょう。
国王はローラの言いなり放題になって、平民出身で王国になんらの貢献もしていない外国人である彼女に、城と巨額の年金を与えた上、名門ランズフェルト伯爵家を嗣がせます。
国王は美貌の伯爵夫人から名前を呼び捨てにされながら、彼女の美しい足を手入れしたり、その靴を盃にして酒を飲んだり、彼女の臥ている寝台を支えたりするマゾ行為に及んだといいます。

末喜ばっき
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珍画集『汉妆潋滟』より
末喜は夏を、妲己は殷を、褒姒は周を、それぞれ滅ぼす原因となったとされる「傾国の美姫」です。
いずれのエピソードも、非常によく似通っています。歴史的な真実性は薄いのですが、古代中国人が心理的真実を教えてくれている伝説です。

末喜は「美しいが徳は薄く、道を乱した。心は男丈夫のようで、剣をき冠を被った。淫乱で贅沢な女性で、桀に道を失わせた。」と伝えられています。
夏の桀王はこの男装の美女に夢中になり、常にこの美姫を膝上に置いてその言うなりになりました。
(末喜は桀王の膝に横乗りに乗ったんでしょうか?末喜なら、もっと男らしく、桀王と体を平行に、桀王の体をクッションのようにして玉座に腰掛けたかも…なんて想像をしてしまいます。)
末喜は酒池を作って三千人の男女に牛のように池の酒を飲ませ、酔って溺死するのを見て笑い楽しんだといいます。

妲己だっき
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『梦回殷商 苏妲己』より
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時代劇『封神演義』より、ルビー・リン扮する妲己
殷の紂王は寵妃妲己の望むことならなんでも叶え、そのために民に重税をかけました。妲己を誹謗する者は容赦なく殺しました。
妲己が好んだ処刑方法に、「炮烙ほうらくの刑」があります。
膏を塗った銅柱を炭火の上に構え、上を歩かせるというものです。
妲己はこれを見て声を上げて笑ったといいます。
仁の人で知られる人物が紂王を諌めると、妲己は「聖人には心に七つの穴が開いていると言われています、ほんとうかどうか調べてみては?」と紂王に耳打ちし、聖人の胸を切開させてしまいました。
妲己が好きだったゲームの一つは、妊婦を検分して胎児の性別を当てるというもの。もちろん分娩するまで結果を待ったりしません。その場で下腹部を切開して結果を確認してしまいます。

褒姒ほうじ
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珍画集『汉妆潋滟』より
周の幽王は褒姒の冷たい美貌に夢中になります。
幽王は褒姒のめったに見せない笑顔を見るために、あらゆる手を尽くします。
高級な絹を裂く音を聞いた褒姒がフッと微か笑ったのを見て、幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂きます。それにあわせて褒姒が微かに笑うのですが、次第に笑わなくなります。
ある日、何かの手違いで烽火が上がり、諸侯が周の王宮に集まったときのこと、重臣たちの、間の抜けた顔が面白かったのか、そんなようすを見ていた褒姒が突然、笑い出します。そのときの花のような笑顔と鈴の音のような笑い声に歓喜した幽王は、その後もただ褒姒のを笑わせるためだけに、有事でもないのに何度も烽火を上げては諸侯を集め、諸侯の信頼を失っていきます。

さて、谷崎潤一郎は、沼以上にこれらの「傾国の美姫」を愛し、研究していたことが、諸作品から伺えます。

例えば『捨てられる迄』には、

其の世界に於いて、彼は先ず恋人に女王の宝冠を捧げた。さうして、其の宝冠に適しい絶対の権力と威厳と、勇気と、品位とを具備するやうに彼の女を導いた。バビロンや、埃及エジプトや、羅馬ローマや、支那や、―――さう云う古代の国々の伝説に、罪悪の花を咲かせて居る偉大な女王や后妃の性格を、彼は恋人の魂に打ち込まうと試みた。



とあります。まさに理想の女性像を古代の淫虐な美姫に見出しているようです。

末喜や妲己の伝説を、そのまんま小説にしたのが『麒麟』です。
春秋戦国時代、衛の君主:霊公とその妃:南子のもとを孔子一行が訪れるというマイナーな史実に基づいているんですが、本筋はほとんど末喜や妲己の伝説が使われています。
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