白人崇拝論
当ブログ開設時(2007年)の記事:日本マゾヒズム文学の三大要素において私は、「広く日本人のマゾヒストが共通して持っている嗜好」として、スクビズム(下への願望)、トリオリズム(三者関係)と並んで、アルビニズム(白人崇拝)を挙げました。当ブログの出発点となったこの三要素につき、スクビズムとトリオリズムについてはすでに各総論でご紹介しました。
スクビズム総論
トリオリズム総論
今回は残る白人崇拝について論じたいと思います。
日本のマゾヒズム文学の最高峰である小説「家畜人ヤプー」について、作者である沼正三は、次のように語っています。「
「白人崇拝思想」とは、日本人のマゾヒストが、有色人種として白人種に対して感じる種族的劣等感を、自らの性衝動と結びつけ、マゾヒストとしての崇拝対象を白人という人種集団に置いてしまったものです。沼自身、その本質を「白い肉体の持主としての白人種への劣等感の肯定」であるとしています。(「手帖」では「
天野哲夫(黒田史郎、阿麻哲郎とも)、森下高茂(谷貫太、森本愛造とも)、田沼醜男、三原寛といった面々(名実ともに「奇譚クラブ」を代表する作家です)や、他誌で活躍していた白野勝利、南村蘭、原田沼三といった作家も、明確に
そして、近代日本を代表する文豪であり、日本のマゾヒズム文学の創始者である谷崎潤一郎も、後述するように、生涯癒しがたい強烈な
このように、
ナスターシャ・キンスキー(ドイツ出身)
マゾヒストの
第一段階は、理想のドミナ像を日本人女性より白人女性に求める、「白人女性崇拝」というべき状態です。スクリーンやカヴァーに映し出された白人の女優やモデル、あるいは間近に見た白人女性の美しさにに憧れ、その足元に跪き、隷属したいと願う、これが
これに対して第二段階は、より一般的に、老若男女の人種集団としての白人種を崇拝し、礼賛する「白人種崇拝」です。一種の性衝動でありながら真に「思想」と呼べるのはこちらの方です。
すなわち白人種の優越性と日本人の劣等性を日本人自身が積極的に肯定する、有色人種による「
現代の科学が
エヴァン・レイチェル・ウッド(アメリカ出身)
なぜ異人種なのか?なぜ白人なのか?
ではなぜ、近代以降日本のマゾヒストの中に、
それは「なぜ近代以降の日本のマゾヒストが、支配者として、崇拝対象として、奉仕対象として、同胞よりも白人を欲望したのか?」という問いに読み替えれば、それが必然であったことが自ずと理解できます。
日本人のマゾヒストの
マゾヒストは支配されることを夢見る人たちです。日本人のマゾヒストが、自分を支配する存在として、人種的劣等感を刺激させてくれる白人を選ぶことは必然的なことです。
より具体的には、白人は、マゾヒストにとって、同胞よりも支配者として、崇拝対象として望ましい二つの利点を有しています。
(1)自分とは隔絶して美しく感じられる容姿
(2)支配種族としての歴史的実績
ここからはこの2つの利点について論じていきます。
ローレンス・アルマ=タデマ画
白い肉体の持主
日本人にも、心を奪われる美しい男女はいますし、中国人、韓国人にもいます。同人種の美男美女に対し崇拝感情を抱き、支配されたいというマゾ願望を持つことはもちろんあります。しかし、彼らも肌の色、髪の色、目の色や顔体の基本的なつくりは、同人種なので、自分とまったく違うとはいえません。やはり他系統の人種のほうが、「同じ人間とは思えない」という「有難み」が増します。
もちろん、自分と容姿が大きく隔絶しているからといって、崇拝対象が
透き通るような白い肌、宝石のようにカラフルな目の色、輝く金髪、細く隆い鼻、薄い唇、スラリとした長い脚に八頭身のプロポーションといった白人の持つ身体的特徴は、日本人一般が「美しい」「かっこいい」「憧れる」と感じてしまう要素を備えています。
さらに一つ注目すべきは、日本人の白人に対する憧憬の表現を読めば、明らかにその頂点にあるのは、
グレース・ケリー(アメリカ出身)
黄色い肌の呻き―なぜ白人は美しいのか
ではなぜ、日本人は白人(とりわけ、
「白人を理想的に描いている広告や雑誌、映画を見てきたから」というのは、鶏と卵のようなトートロジーになっていてあまり意味のある答えではありません。日本人が白人に憧れているから白人を理想的に描く広告や雑誌が作られ、ハリウッドを中心にした洋画が受けるのであって、それは白人への劣等感の増幅には寄与しているでしょうが、根本的な原因とはいえません。
もっと大きな背景として考えられるのは、私たちが生きている文明は白人の作った西洋文明である、ということでしょう。衣服にしても、家具にしても、建築にしても、私たちの生活を取り巻くあらゆるデザインやスタイルはもともと白人の身体に対応し、白人の肉体に栄えるように作られたものです。だから私たちの生活は白人のような肉体的条件(色素の薄い、明るい肌や髪の色も含め)を、均整の取れた「美しい肉体」として必然的に認識してしまうのです。
沼はこの点に言及しています。「我々有色人は白人と同じ風俗の下に―洋服を着、靴を穿いて―暮らすことを強制されてきている。この場合どうにもならないことは、生活・風俗の文化というものは人間の肉体と高度に関連を持ったものだということだ。物質文明は模倣できる。しかし、肉体的条件は模倣できない。風俗文化に関する限り有色人種は常に「借着」の意識を味わわされる。そこに癒しがたい劣等感が生れる。」(「手帖」第11章)
谷崎潤一郎も、直感的にこの問題に気づいており「陰影礼賛」という随筆で言及しています。この随筆はほの暗い「陰影」の文化を作り出した日本人を「礼賛」していると喧伝されることがありますが、素直に読めばまったく逆で、日本の家屋が暗いのは東洋人の肌の醜さを隠すためであり、西洋人が屋内の照明をどんどん明るくしていったのは、その明るさに耐えうる肉体、とりわけ肌の色の美しさの持ち主だったからだ、と説いているものです。
で、かくの如きことを考えるにつけても、いかにわれわれ黄色人種が陰影と云うものと深い関係にあるかが知れる。誰しも好んで自分たちを醜悪な状態に置きたがらないものである以上、われわれが衣食住の用品に曇った色を使い、暗い雰囲気の中に自分たちを沈めようとするのは当然であって、われわれの先祖は彼等の皮膚に翳りがあることを自覚していた訳でもなく、彼等よりより白い人種が存在することを知っていたのではないけれども、色に対する彼等の感覚があゝ云う嗜好を生んだものと見る外はない。
ロージー・ハンティントン=ホワイトリー(イギリス出身)
同様の認識は「アヱ゛・マリア」にも現れます。
一体、西洋人がシャボンと云うものを発明したのは、日本人が糠袋を使うのと同じように自然な事だね。あの白い泡の立つものが白い肌の上を雪のようにとろけて流れていく様は、見たゞけでもすがすがしい気がする。泡は肌に溶け込むのを喜び、肌は泡に融かされるのを喜んでいる。そこへ行くと日本人はそうは行かない。とてもこれだけの調和が取れない。どうかすると泡だらけの体が一層醜悪に見えたりする。黄色い肌の人間はやっぱり黄色い糠の方がいゝのかも知れない
遠藤周作は、「アデンまで」で
その時ほど金髪がうつくしいと思ったことはない。
汚点 一つない真白な全裸に金髪がその肩の窪みから滑りながれている。(中略)部屋の灯に真白に光った女の肩や乳房の輝きの横で、俺の肉体は生気のない、暗黄色をおびて沈んでいた。(中略)そして女と俺の躰がもつれ合う二人の色には一片の美、一つの調和もなかった。むしろそれは醜悪だった。俺は其処に真白な葩<はなびら>にしがみついた黄土色の地虫を連想した。その色自体も胆汁やその他の人間の分泌物を思いうかばせた。手で顔も躰も覆いたかった。
(中略)
俺は真からその肌の色が醜いと思う。黒色は醜い。そして黄濁した色はさらに憐れである。俺もこの黒人女もその醜い人種に永遠に属しているのだ。俺にはなぜ、白人の肌だけが美の標準になったのか、その経緯は知らぬ。なぜ今日まで彫刻や絵画に描かれた人間美の基本が、すべてギリシア人の白い肉体から生れ、それをまもりつづけたのかも知らぬ。だが、確かなこと、それは如何に口惜しくても、肉体という点では永久に俺や黒人は、白い皮膚を持った人間たちのまえでミジめさ、劣等感を忘れる事はできぬという点だ。
(中略)
黒人たちは白人たちの前で、自分たちが、いかなる世界にあっても、罰をうけねばならぬ存在である事を知っている。白人たちのすることは、どんなことでも善であり、神聖なのだ。
(中略)
白色の前に黄いろい自分を侮辱しようとする自虐感、その悦びがひそんでいた。
(中略)
俺は永遠に黄いろく、あの女は永遠に白いのである。
ブリジット・バルドー(フランス出身)
本作では審美眼に刷り込まれた人種間の「美醜」の隔絶が、文明の「優劣」そして魂の「善悪」にまで演繹されています。
現在でも、衣類、宝石などの日本人向けのCMや広告に、白人のモデルが起用されますし、住宅や自動車の広告ですら、高級感を出すために白人のモデルが起用されることがあります。日本人の肉体も、戦後ライフスタイルの変化とともに大きく変わりましたが、基本的な顔のつくりや肌、髪、眼の色が変わるわけではありません。明るい照明の下で自分たちと白人の肌の色を比べたとき、前者に醜さを、後者に美しさを感じてしまう心理が果たしてぬぐいきれるのか。日本人のこの白人に対する劣等感と憧憬が完全に消えない限り、日本人マゾヒストの
ジュリー・オードン(スイス出身)
神々の息づかい―「対象神格化」と
マゾヒストではない普通の日本人が劣等感と憧憬を抱かざるを得ないような、自分たちとはまったく異なる、はるかに美しい身体的形質を備えた白人男女に対して、マゾヒストである日本人が抱くべき心理は、自ずと宿命的なものがあります。いかに美しくても、身体的形質からすれば「同胞」と認識せざるをえない女よりも、美しい「異人」として現れる
必然的に
また、
徳珍画
谷崎は「
或る時私はふと気がつくと、十人ばかりの若々しい、金髪碧眼の白皙な婦人の一団に包囲されて、自分がまんなかにぽつりと一人立つて居るのを発見した。私の神経は何故か不思議な
戦 きを覚えた。むつくりと健康らしい筋肉の張り切つた、ゆたかに浄らかな乳房のあたりへぴつたり纏 つて居る派手な羅衣 の夏服の下から、貴く美しい婦人たちの胸の喘ぎの迫るやうなのを聞いた時、私は遠い異境の花園に迷ひ入つて、刺激の強い、奇くしく怪しい Exotic perfume に魂を浸されて行くのを感じた。私は名状しがたい、云はゞ命が吸い尽され掻き消されてしまいさうな不安に襲はれて、あわてゝ婦人たちを掻きのけながら包囲の外へ飛び出した。丁度一匹の野蛮が獣が人間に取り巻かれたやうな、又は無智な人間が神々に囲繞 された時のやうな、恐ろしさと心細さが突然私を捕らえたのであつた。
アン=ルイス・ランバート(オーストラリア出身)
支配種族への憧れ
さて、「白人の容姿が自分とは隔絶して美しく見えてしまう」ことに加え、
ギリシア・ローマ文明の正統な継承者である西欧文明は、中世の劣勢を経て大航海時代以降はほぼ一方的に世界に進出し、抵抗する多くの文明を滅ぼし、文化を蹂躙し、残された人々を支配し、収奪し、酷使してきました。とりわけ、新大陸の原住民を殺しつくした16世紀ころに本格的に導入され19世紀まで続いた黒人奴隷制度は、黒人を真に「家畜」として扱う制度でした。
黒人奴隷
19世紀は奴隷制が廃止された自由主義の世紀ですが、地球上のほとんどすべての陸地が白人国家によって分割支配された帝国主義の世紀でもあり、実質的にはアジア人も含めた有色人種全体が白人の奴隷として支配される体制が完成した時代でした。
20世紀には植民地は次第に消滅しますが、白人が世界を政治的・経済的・軍事的に支配する状況は変わらず、アパルトヘイトをはじめとして、白人が有色人種を人として差別する状況は世界各地で続きました。
そんななか日本は、辛うじて植民地化を逃れ、白人国家との差別的不平等条約を甘受し、西洋文明媚びへつらうことで何とか生き延びますが、思い上がった末の大東亜戦争の結果、国土は劫火に焼かれ、米国主体の連合国軍の占領支配を受けることになります。結局は日本も、白人国家の占領支配という経験から逃れることはできなかったのです。
この実績は、
あるいは、日本が白人国家に支配される妄想も容易にはかどります。16世紀、スペインがより意欲的に西進し、日本がフィリピンのように植民地になるとか、幕末、列強が日本をアヘン戦争後の清のように勢力分割支配してしまうとか、決して荒唐無稽なものではなく、ちょっとした偶然や作為が重なれば、十分に実現可能であったリアルな
この妄想は、必然的に「優越人種が劣等人種を支配する」という「ごく当たり前の世界」が19世紀で終わらず、永久に続く願望に繋がります。(実際に日本が邪魔をしなければ、日露戦争に敗れてさえいれば、白人の世界支配は少なくとももっと長く続いたはずで、永遠に続いた可能性あります。)もしそうなれば、奴隷制の復活を経て、やがて有色人種にとっての白人種は価値の源泉である「神」へと、白人種にとっての有色人種は有用性のみに価値を見出す「家畜」へと変わっていくことでしょう。
有色人種が白人種の支配を喜んで受け入れ、積極的に奉仕する理想世界。この境地にまで妄想が至ったとき、思想である
多くの宗教は、神などの霊的な存在を信仰の対象としていますので、合理主義と矛盾します。そんなの見たこともない、声を聞いたこともない、本当にいるの?となる。今日の日本人に宗教を信仰しない人が多いのもこのためでしょう。しかし
個人的なSM関係ではなく、制度として、集団が集団を支配する妄想は、
その究極の理想は、白人種が日本人を含む有色人種を家畜化している世界です。そこでは
「家畜人ヤプー」は
イングリッド・バーグマン(スウェーデン出身)
さて、「奇譚クラブ」が1975年に休刊になった後も、「家畜人ヤプー」は「続編」も含めて日本人のマゾヒストにバイブルとして愛され続けるのですが、肝心の
ひるがえって私自身は、1980年生まれという現代の世代のマゾヒストでありながら、谷崎・沼の洗礼を受け、
もはやもう一度、日本の中で白人崇拝マゾヒズムをかつてのように興隆させることはできないでしょう。しかし、その火を消さずに受け継いでいくことは大事かな、と思っています。
谷崎や沼は、とりわけ「家畜人ヤプー」という作品は、現在も多くのマゾヒストにバイブルとして愛好されています。彼らが
そんな恐れを抱いています。
少数であっても、
ウィリアム・アドルフ・ブグロー画
苦痛と陵辱
「肉体的受苦」と「精神的陵辱」
沼正三は、「ある夢想家の手帖から」第一一八章「苦痛より陵辱を」で、マゾヒストと認識されている人々の中には、性的快感において「肉体的受苦」を重視するグループと、「精神的陵辱」を重視するグループにはっきりと分かれる、と述べています。
「精神的陵辱」とは、「スクビズム総論」で概説した、下図のような諸願望です。
一方の「肉体的受苦」とは、
「皮膚が破けるほど鞭で打たれたい」
「縄や手錠などで拘束されたい」
「格闘技の技をかけられて悶絶したい」
「針や、焼鏝や、水責めで拷問を受けたい」
といった、崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい、という願望です。
確かに、この願望なくして、マゾヒズムの諸相を網羅できているとは言えないでしょう。
その上で沼は、沼自身や森下高茂、鬼山絢策、真砂十四郎それに谷崎潤一郎が属する「精神的陵辱」を重視するグループこそ、「狭義のマゾヒズム」「真正マゾヒズム」であり、「肉体的受苦」を重視するグループはマゾヒズムの名に値せず、これと区別して「アルゴグラニア(受動的苦痛愛好)」と呼びたい、とします。
この部分は、「女性上位時代」の「沼正三流マゾヒズム道入門」第1章第2節「「苦痛より陵辱を」・・・真正Mとは?」でも紹介されています。
これについて馬仙人は、沼の「真正マゾヒズム」⇔「アルゴグラニア」という分け方に異を唱え、「苦痛系も陵辱系もマゾヒズムに含めた上で、しっかりと両者を峻別して考えればよい」とされています。
しかし、馬仙人も、「陵辱系マゾヒズム」と「苦痛系マゾヒズム」とは「(サメとシャチのように)表面的にはよく似ているが、実は全く違う生き物なのであって、分析に当たってははっきりと峻別しなくてはならない」「根本的に異なる性的嗜好なのだ」とされている点は、沼と同じです。
「陵辱系」マゾヒストが求める身体的虐待
ただ私は、この「峻別」をしただけではあまり意味がないし、逆に誤解が広がってしまうような気がしてなりません。
この区別だけを見たら、同好の方が自分の嗜好を内省して「あ、私は命令されたり、足を舐めたりするよりも、ぶたれたり、鞭打たれたり、拷問されるのが好きだから、「苦痛系」「アルゴグラニア」なのだな」と思ってしまいかねないと思うのですが、そうとは限らないのです。
実際には、「精神的陵辱」を重視するマゾヒスト(沼のいわく「真正(正統)マゾヒズム」に属する人たち)の多くは、先に例示したような、「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望を強く持っています。
沼自身も鞭撻を非常に好んでいて、「手帖」にも随所で鞭撻を扱い、第三三章「むちのいろいろ」では「マゾヒズムを論じながら、whipもrodも同じでは、米屋が
沼がマゾヒズムの原体験を告白する有名な第一〇六章「奴隷の喜び」では、初めて司令官夫人の乗馬鞭に頬を打たれた瞬間を、次のように想起しています。
このとき私は、灼けつくような顔の痛みと同時に、かつて味わったことのない一種の陶酔感に囚えられた。
(中略)
これが私のマゾヒストとしての誕生である。
むちが単なる支配者の
谷崎潤一郎はどうでしょうか。
既に述べてきた通り、スクビズムの諸形式を網羅する作家ですが、身体的虐待にも強い好みを示しています、
「
「羅洞先生」にも鞭撻は登場しますし、スクビズムのオン・パレードが繰り広げられる「少年」にも、小刀で肌を切る場面があります。
「恋を知る頃」や「白昼鬼語」には女が男を絞殺する場面もあり、「麒麟」でも凄惨な拷問や刑罰の描写があります。
晩年の「瘋癲老人日記」では、主人公が息子の妻:
(颯子は)自分ノ足ヲモデルニシタ佛足石の存在ヲ考エタダケデ、ソノ石ノ下ノ骨ガ泣クノヲ聞ク。泣キナガラ予ハ「痛イ、痛イ」ト叫ビ、「痛イケレドモ楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタ時ヨリ遥カニ楽シイ」ト叫ビ、「モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ」ト叫ブ。
谷崎の観念的スクビズムの集大成ともいうべき場面ですが、やはり「陵辱」(踏まれる)と「快楽」(「楽シイ」)の間に「苦痛」(「痛イ」)が介在しているのがうかがえます。
「精神的陵辱」(スクビズム)を重視するマゾヒスト(真正・正統マゾヒスト)のグループに属しながら、なぜかくも「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望を強く持つのか。
そしてそれが苦痛系マゾヒズム(アルゴグラニア)と呼ばれる性的嗜好と、表面的にはよく似ているが根本的に異なるというのであれば、どう違うのか、ここを説明することが重要ではないでしょうか。
「精神的陵辱」への変換
沼は「手帖」第一一八章「苦痛より陵辱を」でこの点を、「精神的陵辱」を重視するマゾヒストのグループは、緊縛や鞭撻を「精神的陵辱の表現」として受け取っているのである、とだけ説明していて、あまり詳述していません。
崇拝対象から受ける身体への物理的な虐待を精神的陵辱(スクビズム)の表現と受け取る(読み替える、変換する)。
この時マゾヒストの心理の中で何が起こっているのでしょうか。
ヒントは「手帖」の別章にありました。
第三六章「手を踏まれて」です。
終戦直後の昭和二一年の暮、東急東横線の車内での出来事の回想です。
当時は混雑時には乗客が座席の上に立つという習慣があったようで、その際座席に座っていた沼は、美しい令嬢に手を踏まれ、その令嬢がそれに気づかなかったため、渋谷駅に着くまでの十分間、沼は令嬢に靴に手の甲を靴の爪先で踏みつけられる感覚を楽しんだ、というもの。
「手を踏まれる」というのは、崇拝対象の肉体が自己の上に「載る」わけですからスクビズム第一類型であり、崇拝対象の「足」に自己の「手」が接触しているという点でスクビズム第二類型にも属します。
「靴底の泥が手の甲一面にべったり押し広げられたのが感ぜられた」という部分は、スクビズム第四類型をもかすかに想起させます。
つまり、スクビズムの願望を満たす理想的な状況といえます。
しかし、それだけではありません。
電車が揺れるごとに沼の手を踏んでいる爪先に令嬢の全体重がかかったり、爪先を支点にして靴が回転したりするので、右手の甲の皮膚が筋肉ごととねじ切られたり、砂と靴底が擦れ合って皮膚を破っって出血し、沼は脂汗をかくほどの痛みを味わいます。
スクビズムの願望を満たすだけであれば、この痛みは必ずしも必要ないはずです。
しかしこの痛みを沼は、
なんと痛くまた楽しい感じであろうか!
と表現しています。
このときの、沼の心理の内省の記述に、陵辱を求めるマゾヒストが身体への物理的な虐待を、どのように精神的な陵辱に読み替えているのかがうかがえるのです。
私には、何も知らず愉快に連れと談笑している彼女の話の腰を折ること自体が僭越と考えられた。私さえ黙って我慢していればいいのではないか。(中略)そうとっさに決心するとともに、マゾヒスティックな感興が油然と湧いてきた。令嬢は自分の靴の底に男の片手を踏み敷きながら何も知らずに話すのに夢中だ。私の手の痛み、それは彼女の無駄話をやめさせるだけの価値もない。
(中略)
私は全身全霊をもってこの靴――私を苦しめているこの小さな靴――を愛し、それを穿いている令嬢の足を、下肢を、全身を感じ取り愛した。マゾヒストたる読者諸君は、この時の私の宿命的な心の動きを同情をもって理解して下さるであろう。靴底から受ける肉体的苦痛が痛ければ痛いほど、私はそれを「虐げられている」と感じ、令嬢は万事承知なのだと空想した。彼女は靴が醜い男の手の上にあることを知っているのであった。彼女はどける必要を認めないからどけていないでいるだけであった。彼女の目にはこの醜い私の体などは彼女の靴が踏む床や座席と同じ値打ちにしか写ってないのであった。痛い。だがいったい奴隷の痛みが主人の心に影響するものだろうか。すべきものだろうか……私は空想の中に令嬢を女主人として仰ぎ、この恐るべき隷属の時間の少しでも長く続くようにと念じた。
沼は、手の皮膚が破れようが、筋肉が捩れようが、血が滲もうが、令嬢が気にも留めず自分の手を踏み続けたと考えることで、美しい令嬢の肉体(下肢、足、靴)と「醜い私の体」との価値の絶望的な格差を最大限実感しようとし、痛みを感じる自分の「精神」を、令嬢からほとんど無に等しいほど軽視されている、という感覚を味わおうとしています。
さらに、自分が感じている脂汗をかくほどの「痛み」を、令嬢に「無駄話の中断」あるいは「足をどける動作」をさせるほどの価値は無い、と考えてそれに耐え続けることで、令嬢への崇拝・恋慕の情を、慎ましやかに表現しています。
そして、感じ続けている「痛み」を、「虐げられている」という精神的陵辱の実感に変換しています。
このように、「精神的陵辱」を重視するマゾヒストが、崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい、と望むのは、
① 崇拝対象から自己の身体・精神・生命を軽視される感覚を味わう。
② 肉体的苦痛に耐えることで対象への崇拝・恋慕の情を表現発露する。
③ 肉体的苦痛が、観念で作り出した精神的陵辱を実感させる作用をもつ。
という3つの効果によって、身体への物理的な虐待を「精神的陵辱」に変換しているのだ、と私は考えています。
上に示した谷崎作品の例も、すべてこれで説明できます。
また、男性マゾヒズム(Mシチュ)を扱った作品として発表されているネット小説、同人漫画、同人ゲームなどの作品中の、身体的虐待を扱った部分を見ても、そのほとんどはやはり上述の説明に当てはまり、精神的陵辱の一種である、と考えることができます。
(これらの多くがスクビズムと複合的に発露していることを見ても、「精神的陵辱」を重視していることが分かります。)
本当は「陵辱系」では?
一方、「精神的陵辱」に変換せず、純粋に「肉体的苦痛」を受けることをそのまま快楽とする性的嗜好が「アルゴグラニア」ということになります。
これについて「手帖」第一一八章「苦痛より陵辱を」では、緑猛比古、青柳謙次、嶽収一という作家に加え、大正時代に実際にあった「小口末吉事件」の矢作ヨネという女性を症例として挙げています。
こちらについては、私は明るくありませんし、作品やウェブサイトでこれは純粋にアルゴグラニアであると示せる例は知りません。
「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望が強く、一見「苦痛系」に思える人でも、実際は「精神的陵辱」を重視している、ということが多いように思えます。
実は、谷崎もそうであったようです。
大正三年の「饒太郎」は谷崎のマゾヒズムの告白の書ですが、この中に「精神上の苦痛よりも寧ろ肉体上の苦痛を与えて貰ひたい」という記述があります。しかし、そんなはずはありません。当ブログでこれまで書いてきたように、谷崎は初期から晩年まで一貫してスクビズムの作家です。沼はこれについて「手帖」第四章付記第二で「彼自身がこのころは真の自覚に達していないと見るべきもの」としていますが、同感です。
トリオリズム総論
トリオリズムとは
トリオリズムとは、男性マゾヒストが、崇拝対象である女性が別の男性と関係することを望むというマゾヒズムの一類型です。
「トリオリズム(Triorism)」という用語は、沼正三が「ある夢想家の手帖から」で、性科学者ヒルシェフェルトの術語として紹介しているもので、沼はこれに「三者関係」という訳語をつけています。
さらにトリオリズムの傾向のあるマゾヒストを、「トリオリスト」と呼んでいます。
最近では「寝取られマゾ」「NTR」という用語が幅広く浸透していますね。
ただし、後述するように、トリオリズムは必ずしも「寝取られ」=対象女性がもともと妻・恋人であったというシチュエーションに限られるものではありません。
また、言葉の風情にも愛着があるので、私はやはり「トリオリズム」「三者関係」という語を使用したいと思います。
スクビズム(下への衝動)がマゾヒズムの本流であるならば、トリオリズムは支流です。
しかしながら、これは相当に有力な支流です。
ザッヘル・マゾッホ、谷崎潤一郎、沼正三といったマゾヒズム文学の文豪もトリオリストであることは、「毛皮を着たヴィーナス」「痴人の愛」「家畜人ヤプー」といった代表作を一読するだけで明らかです。
戦後の風俗小説にも、トリオリズムを扱ったものは絶えなかったようで、「手帖」にも数多く紹介されています。
谷崎潤一郎へのオマージュとして描かれ、映画化もされたた喜国雅彦による漫画「月光の囁き」にも衝撃的な形で描かれていました。
そして現在、ありとあらゆるセクシャリティーに対応する同人漫画・小説・ゲームの世界では、トリオリズムを扱った作品も多数製作されています。
また、少数ながら、トリオリズム的なロールプレイングを体験できるSMクラブもあるそうです。
今まさに、日本のトリオリズムは隆盛を誇っている、といっていいでしょう。
トリオズムの四形式
沼は、「手帖」第97章「三者関係」で、トリオリズムを下図のような四形式に分類しています。
第三者の男性と対象女性の関係 | 対象女性と自己の関係 | |
標準形式 | 対等 | 対等 |
M第一形式 | 対等 | 従属 |
M第二形式 | 従属 | 対等 |
M第三形式 | 従属 | 従属 |
各形式について説明していきます。
標準形式
単純に、妻・恋人が、自分とは別の男性と関係するというもの。
あるいは、他人の妻・恋人に心惹かれてしまうという状況でも生じます。
自己(主体)と対象女性との関係も、対象女性と第三者の男性の関係も、対等の恋愛関係。
マゾヒズムでありながら、どこにも特段の従属関係はありません。
ただ、自己の愛情が対象女性に対してのみ向かっているのに対し、対象女性の愛情は第三者の男性に向かっている。
この切ない屈辱感・絶望感が強ければ強いほど、単なる恋愛上の刺激ではなく、マゾヒスティックな味わいが強くなっていきます。
この形式のメリットは、アブノーマルな従属関係がどこにも必要ないゆえに、非常に現実味があるという点です。
不倫や浮気、あるいは恋愛上の三角関係は決して珍しい状況ではないですから。
谷崎作品で言えば「鍵」がこの形式にあたります。
武者小路実篤の「友情」や、田山花袋の「蒲団」など、一般の文学作品でもこの形式は味わい深いものがたくさんあります。
M第一形式
自己(主体)が、対象女性に従属している一方、対象女性と第三者の男性は対等の関係として仲良く睦んでいる、という状況です。
言うまでもなく、マゾヒストにもっとも好まれ、作品にもされている形式です。
なかでも、もともとは妻・恋人だった対象女性を寝取られた上、対象女性と第三者の男性(上位者カップル)に従属するという形式は、繰り返し繰り返し作品にされています。
「家畜人ヤプー」もこの形式。
谷崎作品で言えば「捨てられる迄」、「饒太郎」、「お才と巳之助」など。
ネット小説では、「元彼女の奴隷に…」「妻が浮気相手に…」など、この形式のすばらしい作品がたくさん発表されています。
上位者カップルが腰掛けるの「愛の橋」、上位者カップルの性交の後始末をする「人間ビデ願望」など、トリオリズムとスクビズムのミックスとも、非常にマッチする形式です。
この形式に特徴的なの味わいは、上位者カップルが対等に睦んでいることで「集団」から疎外された切ない孤独感を味わえることでしょう。
M第二形式
ここからは、マゾヒストにとって神聖かつ絶対不可侵の存在であるはずの対象女性が第三者に従属してしまうことを望むという、マゾヒズムとしては極めて特殊な願望になります。
M第二形式は、自己と対象女性は対等の恋愛関係でありながら、対象女性が第三者の男性に従属してしまうことを望む願望です。
当然、自己も従属関係に引き込まれて、夫婦・カップルで上位男性に従属するという状況もありえます。
谷崎作品でこの形式を扱ったものとしては、脚色の上映画化もされた「愛すればこそ」という衝撃的な戯曲があります。
沼正三は、白人男性中心の米軍による占領体験に強い影響を受け、アルビニズムとトリオリズムが結びついた、「日本人女性を白人男性に陵辱される」という極めてグロテスクな願望を持っており、「手帖」でたびたび扱っています。
この願望は「家畜人ヤプー」において、「子宮畜」というアイデアに反映されますが、この願望も、この形式に入れるべきでしょう。
「寝取られ系」「NTR」と呼ばれるネット小説や同人ゲームでも非常に好まれている形式です。
日本人女性を夢中にさせる美しく逞しい韓国人男性に対する劣等感を基にした台詞付画像作品でも、この形式が好まれています。
同性としての上位男性に対する劣等感をもっとも刺激される形式であるとともに、対象女性が陵辱され、マゾヒスティックな快楽に堕ちていく感覚に共感してしまう点も、この形式特有の味わいだと思います。
自己よりもむしろ対象女性が陵辱され、身も心も上位男性に従属することを望む点で、この願望は男性サディズムと見紛う場合があります。
実際、「MだけどS性もある」と自覚している男性は、無意識にこのトリオリズムM第二形式の属性を持ったマゾヒストが多いのではないでしょうか。
M第三形式
対象女性は上位男性に従属しており、自己はその対象女性に従属している。
垂直的な従属関係の最下層にいるという絶望的な屈辱感を味わう形式です。
階層的な構造上、アルビニズムや、民族的な劣等感とよくマッチします。
白人男性に従属した女性は、白人男性によって上位者に引き上げられている。
「手帖」第三〇章付記で紹介されている田沼醜男「タツノオトシゴ考」の、白人男性―日本人女性―日本人男性の関係はこの形式でしょう。