苦痛と陵辱
「肉体的受苦」と「精神的陵辱」
沼正三は、「ある夢想家の手帖から」第一一八章「苦痛より陵辱を」で、マゾヒストと認識されている人々の中には、性的快感において「肉体的受苦」を重視するグループと、「精神的陵辱」を重視するグループにはっきりと分かれる、と述べています。
「精神的陵辱」とは、「スクビズム総論」で概説した、下図のような諸願望です。
一方の「肉体的受苦」とは、
「皮膚が破けるほど鞭で打たれたい」
「縄や手錠などで拘束されたい」
「格闘技の技をかけられて悶絶したい」
「針や、焼鏝や、水責めで拷問を受けたい」
といった、崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい、という願望です。
確かに、この願望なくして、マゾヒズムの諸相を網羅できているとは言えないでしょう。
その上で沼は、沼自身や森下高茂、鬼山絢策、真砂十四郎それに谷崎潤一郎が属する「精神的陵辱」を重視するグループこそ、「狭義のマゾヒズム」「真正マゾヒズム」であり、「肉体的受苦」を重視するグループはマゾヒズムの名に値せず、これと区別して「アルゴグラニア(受動的苦痛愛好)」と呼びたい、とします。
この部分は、「女性上位時代」の「沼正三流マゾヒズム道入門」第1章第2節「「苦痛より陵辱を」・・・真正Mとは?」でも紹介されています。
これについて馬仙人は、沼の「真正マゾヒズム」⇔「アルゴグラニア」という分け方に異を唱え、「苦痛系も陵辱系もマゾヒズムに含めた上で、しっかりと両者を峻別して考えればよい」とされています。
しかし、馬仙人も、「陵辱系マゾヒズム」と「苦痛系マゾヒズム」とは「(サメとシャチのように)表面的にはよく似ているが、実は全く違う生き物なのであって、分析に当たってははっきりと峻別しなくてはならない」「根本的に異なる性的嗜好なのだ」とされている点は、沼と同じです。
「陵辱系」マゾヒストが求める身体的虐待
ただ私は、この「峻別」をしただけではあまり意味がないし、逆に誤解が広がってしまうような気がしてなりません。
この区別だけを見たら、同好の方が自分の嗜好を内省して「あ、私は命令されたり、足を舐めたりするよりも、ぶたれたり、鞭打たれたり、拷問されるのが好きだから、「苦痛系」「アルゴグラニア」なのだな」と思ってしまいかねないと思うのですが、そうとは限らないのです。
実際には、「精神的陵辱」を重視するマゾヒスト(沼のいわく「真正(正統)マゾヒズム」に属する人たち)の多くは、先に例示したような、「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望を強く持っています。
沼自身も鞭撻を非常に好んでいて、「手帖」にも随所で鞭撻を扱い、第三三章「むちのいろいろ」では「マゾヒズムを論じながら、whipもrodも同じでは、米屋が
沼がマゾヒズムの原体験を告白する有名な第一〇六章「奴隷の喜び」では、初めて司令官夫人の乗馬鞭に頬を打たれた瞬間を、次のように想起しています。
このとき私は、灼けつくような顔の痛みと同時に、かつて味わったことのない一種の陶酔感に囚えられた。
(中略)
これが私のマゾヒストとしての誕生である。
むちが単なる支配者の
谷崎潤一郎はどうでしょうか。
既に述べてきた通り、スクビズムの諸形式を網羅する作家ですが、身体的虐待にも強い好みを示しています、
「
「羅洞先生」にも鞭撻は登場しますし、スクビズムのオン・パレードが繰り広げられる「少年」にも、小刀で肌を切る場面があります。
「恋を知る頃」や「白昼鬼語」には女が男を絞殺する場面もあり、「麒麟」でも凄惨な拷問や刑罰の描写があります。
晩年の「瘋癲老人日記」では、主人公が息子の妻:
(颯子は)自分ノ足ヲモデルニシタ佛足石の存在ヲ考エタダケデ、ソノ石ノ下ノ骨ガ泣クノヲ聞ク。泣キナガラ予ハ「痛イ、痛イ」ト叫ビ、「痛イケレドモ楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタ時ヨリ遥カニ楽シイ」ト叫ビ、「モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ」ト叫ブ。
谷崎の観念的スクビズムの集大成ともいうべき場面ですが、やはり「陵辱」(踏まれる)と「快楽」(「楽シイ」)の間に「苦痛」(「痛イ」)が介在しているのがうかがえます。
「精神的陵辱」(スクビズム)を重視するマゾヒスト(真正・正統マゾヒスト)のグループに属しながら、なぜかくも「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望を強く持つのか。
そしてそれが苦痛系マゾヒズム(アルゴグラニア)と呼ばれる性的嗜好と、表面的にはよく似ているが根本的に異なるというのであれば、どう違うのか、ここを説明することが重要ではないでしょうか。
「精神的陵辱」への変換
沼は「手帖」第一一八章「苦痛より陵辱を」でこの点を、「精神的陵辱」を重視するマゾヒストのグループは、緊縛や鞭撻を「精神的陵辱の表現」として受け取っているのである、とだけ説明していて、あまり詳述していません。
崇拝対象から受ける身体への物理的な虐待を精神的陵辱(スクビズム)の表現と受け取る(読み替える、変換する)。
この時マゾヒストの心理の中で何が起こっているのでしょうか。
ヒントは「手帖」の別章にありました。
第三六章「手を踏まれて」です。
終戦直後の昭和二一年の暮、東急東横線の車内での出来事の回想です。
当時は混雑時には乗客が座席の上に立つという習慣があったようで、その際座席に座っていた沼は、美しい令嬢に手を踏まれ、その令嬢がそれに気づかなかったため、渋谷駅に着くまでの十分間、沼は令嬢に靴に手の甲を靴の爪先で踏みつけられる感覚を楽しんだ、というもの。
「手を踏まれる」というのは、崇拝対象の肉体が自己の上に「載る」わけですからスクビズム第一類型であり、崇拝対象の「足」に自己の「手」が接触しているという点でスクビズム第二類型にも属します。
「靴底の泥が手の甲一面にべったり押し広げられたのが感ぜられた」という部分は、スクビズム第四類型をもかすかに想起させます。
つまり、スクビズムの願望を満たす理想的な状況といえます。
しかし、それだけではありません。
電車が揺れるごとに沼の手を踏んでいる爪先に令嬢の全体重がかかったり、爪先を支点にして靴が回転したりするので、右手の甲の皮膚が筋肉ごととねじ切られたり、砂と靴底が擦れ合って皮膚を破っって出血し、沼は脂汗をかくほどの痛みを味わいます。
スクビズムの願望を満たすだけであれば、この痛みは必ずしも必要ないはずです。
しかしこの痛みを沼は、
なんと痛くまた楽しい感じであろうか!
と表現しています。
このときの、沼の心理の内省の記述に、陵辱を求めるマゾヒストが身体への物理的な虐待を、どのように精神的な陵辱に読み替えているのかがうかがえるのです。
私には、何も知らず愉快に連れと談笑している彼女の話の腰を折ること自体が僭越と考えられた。私さえ黙って我慢していればいいのではないか。(中略)そうとっさに決心するとともに、マゾヒスティックな感興が油然と湧いてきた。令嬢は自分の靴の底に男の片手を踏み敷きながら何も知らずに話すのに夢中だ。私の手の痛み、それは彼女の無駄話をやめさせるだけの価値もない。
(中略)
私は全身全霊をもってこの靴――私を苦しめているこの小さな靴――を愛し、それを穿いている令嬢の足を、下肢を、全身を感じ取り愛した。マゾヒストたる読者諸君は、この時の私の宿命的な心の動きを同情をもって理解して下さるであろう。靴底から受ける肉体的苦痛が痛ければ痛いほど、私はそれを「虐げられている」と感じ、令嬢は万事承知なのだと空想した。彼女は靴が醜い男の手の上にあることを知っているのであった。彼女はどける必要を認めないからどけていないでいるだけであった。彼女の目にはこの醜い私の体などは彼女の靴が踏む床や座席と同じ値打ちにしか写ってないのであった。痛い。だがいったい奴隷の痛みが主人の心に影響するものだろうか。すべきものだろうか……私は空想の中に令嬢を女主人として仰ぎ、この恐るべき隷属の時間の少しでも長く続くようにと念じた。
沼は、手の皮膚が破れようが、筋肉が捩れようが、血が滲もうが、令嬢が気にも留めず自分の手を踏み続けたと考えることで、美しい令嬢の肉体(下肢、足、靴)と「醜い私の体」との価値の絶望的な格差を最大限実感しようとし、痛みを感じる自分の「精神」を、令嬢からほとんど無に等しいほど軽視されている、という感覚を味わおうとしています。
さらに、自分が感じている脂汗をかくほどの「痛み」を、令嬢に「無駄話の中断」あるいは「足をどける動作」をさせるほどの価値は無い、と考えてそれに耐え続けることで、令嬢への崇拝・恋慕の情を、慎ましやかに表現しています。
そして、感じ続けている「痛み」を、「虐げられている」という精神的陵辱の実感に変換しています。
このように、「精神的陵辱」を重視するマゾヒストが、崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい、と望むのは、
① 崇拝対象から自己の身体・精神・生命を軽視される感覚を味わう。
② 肉体的苦痛に耐えることで対象への崇拝・恋慕の情を表現発露する。
③ 肉体的苦痛が、観念で作り出した精神的陵辱を実感させる作用をもつ。
という3つの効果によって、身体への物理的な虐待を「精神的陵辱」に変換しているのだ、と私は考えています。
上に示した谷崎作品の例も、すべてこれで説明できます。
また、男性マゾヒズム(Mシチュ)を扱った作品として発表されているネット小説、同人漫画、同人ゲームなどの作品中の、身体的虐待を扱った部分を見ても、そのほとんどはやはり上述の説明に当てはまり、精神的陵辱の一種である、と考えることができます。
(これらの多くがスクビズムと複合的に発露していることを見ても、「精神的陵辱」を重視していることが分かります。)
本当は「陵辱系」では?
一方、「精神的陵辱」に変換せず、純粋に「肉体的苦痛」を受けることをそのまま快楽とする性的嗜好が「アルゴグラニア」ということになります。
これについて「手帖」第一一八章「苦痛より陵辱を」では、緑猛比古、青柳謙次、嶽収一という作家に加え、大正時代に実際にあった「小口末吉事件」の矢作ヨネという女性を症例として挙げています。
こちらについては、私は明るくありませんし、作品やウェブサイトでこれは純粋にアルゴグラニアであると示せる例は知りません。
「崇拝対象から自己の身体への物理的な虐待を受けたい」という願望が強く、一見「苦痛系」に思える人でも、実際は「精神的陵辱」を重視している、ということが多いように思えます。
実は、谷崎もそうであったようです。
大正三年の「饒太郎」は谷崎のマゾヒズムの告白の書ですが、この中に「精神上の苦痛よりも寧ろ肉体上の苦痛を与えて貰ひたい」という記述があります。しかし、そんなはずはありません。当ブログでこれまで書いてきたように、谷崎は初期から晩年まで一貫してスクビズムの作家です。沼はこれについて「手帖」第四章付記第二で「彼自身がこのころは真の自覚に達していないと見るべきもの」としていますが、同感です。
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コメント
いつもコメントありがとうございます。
おっしゃるとおりだと思います。
思えば幼少時から自覚し、隠してきた自分の性癖ですが、知れば知るほど、細部にいたるまで同じような願望を持った人がたくさんいることを知ったときは本当に不思議な感動がありました。
なぜこんなにも心惹かれ、こんなにも気持ちいいのか。
皆さんそれぞれに探求されていると思うのですが、私は文学作品と妄想から、これからも探求していきたいと思います。
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