スクビズム総論
「スクビズム」について、まとめておきます。
スクビズムとは
マゾヒズムとは、性愛の対象である女性の美しさを讃え、その他のあらゆる価値、とりわけ男性としてプライド、人間としての尊厳を女性美への憧れの前に跪かせ、踏み躙り陵辱することに快楽を求める異常性愛であると私は考えています。
具体的には、対象女性に跪いたり、足や靴を舐める。
あるいは身に着けていたもの、排泄したものを口にする。下僕や奴隷となって命令に従い、働く。
はたまた犬、馬、家具といった人間以下の物に変身し、対象女性に使用される。多種多様なこれらの願望に共通するのは、対象女性を上位に、自らを下位に置こうと志向している点です。
そもそも、「優位」を「上位」、「劣位」を「下位」とも言うように、優劣を物理的位置関係を意味する「上下」という言葉を使って表現するのはなぜでしょうか。
どうも人類一般に、優越者は「上」に、劣等者は「下」にあるべきものという共通した心理があるようです。
これを前提とすれば、対象女性が(その美しさゆえに)自己に優越していることを表現発露することは、様々な意味で対象女性を「上」に、自己を「下」に置こうとする衝動と同義、ということになります。
これは人間の自然な心理に任せたマゾヒズムの基本衝動です。
沼正三は、『ある夢想家の手帖から』において、この「下への衝動」を総称して「スクビズム(succubism)」と呼び、この概念をもって、正統マゾヒズムの諸相(三者関係は除く)をすべて説明できるとまで言い切っています。
(命名者は精神医学者のヒルシェフェルト。語源はラテン語の「succuba」=「下に寝る」より。「サキュバス」「スキューバ・ダイビング」と同じ語源。)
スクビズムの五類型
沼は、『手帖』第一三三章「スクビズム」で、スクビズムを次のような五類型に分けて説明しています。
第一類型 肉体的下位
対象女性の体を自らの体で下から支持するという願望。
第二類型 肉体的下部
足への執着。
第三類型 観念的下部A
女性器や肛門への奉仕。
第四類型 観念的下部B
分泌物、排泄物への執着。
第五類型 観念的下位
人間と人間との関係としての下位、あるいは文化的・知能的に劣った存在への志向。
各類型を簡単に説明します。
第一類型 肉体的下位
対象女性が上になり、自らが下になる物理的な位置関係、体勢を望むもの。
背に腰掛けられる、頭を踏まれる(第二類型との複合)といった願望が典型的なものです。
第二類型 肉体的下部
人は、身体の各部位について、尊卑を意識しています。
例えば、食べ物を足で扱ったり尻の下に敷いたりすることを避けるのは、口や手よりも足や尻が穢れたものだという意識があるからです。
基本的に、身体の上部は尊い、下部は卑しいという意識があります。
なかでも人間の肉体の中で最も下部に位置し、最も卑しいと認識されている部位が、足です。
対象女性の肉体的最下部である足に執着し、口、顔面、頭部といった自己の身体の上部、あるいは尊厳の象徴である男性器を接触させ、互いの身体の尊卑の「落差」を実感するという願望が第二類型です。
能動的に発露すれば舐める、キスするといった奉仕、受動的に発露すれば蹴られたい、踏まれたいといった願望になります。
第三類型 観念的下部A
足と並んで、人間の肉体の中で卑しいと認識されているのは性器と排泄器官を備える股間部です。
対象女性の股間部に執着し、口、顔面といった自己の身体の上部を接触させ、互いの身体の尊卑の「落差」を実感するという願望が第二類型です。
能動的に発露すれば舐める、キスするといった奉仕(クンニリングス)、受動的に発露すれば顔面騎乗願望(第一類型との複合)になります。
第四類型 観念的下部B
汚物愛好(コプログラニア、ピカチズム)。
汗、唾液、鼻汁、糞尿などの分泌物・排泄物は、分泌・排泄される直前までは身体の一部ですから、身体の延長として捉えることができますが、身体に不要な残り滓ですし不衛生ですから、尊卑の意識としては身体のどの部分よりも卑しいものとなります。
マゾヒストとしてはこれを尊ぶことで、対象の身体は自らの身体とはるかに隔絶して尊いものと意識することができます。
このため、汚物愛好は、対象神格化、貴婦人崇拝、
また、対象の足や股間部はいくら尊んでも舐めるまでです。
分泌物・排泄物は口にして、自らの身体に取り込むことができます。
対象の身体の残り滓が自らの身体を造っているという意識は、対象と自身の身体を隔絶をさせたまま結合させるというマゾヒストの矛盾した願望を達成してくれます。
なお、下着や履物への執着も、この類型に含みます。
第五類型 観念的下位
観念的・抽象的な下位概念。
人間と人間との関係としての階級的下位、あるいは文化的・知能的に劣った存在への志向です。
「ドレイになりたい…」
マゾヒストであれば誰でも通ったであろう入門的願望、
畜下願望、
変身願望の五類型
『手帖』第二一章「召使い願望と侍童願望」では、性科学者ヒルシェフェルトの説として、マゾヒズトが「何になりたいと欲するか」について、五類型が紹介されています。
この「変身願望」の五類型は、「成熟した社会人たる男性」がそれぞれ、「地位」、「年齢」、「男性」、「人間性」、「生命」といった属性を捨て去り、今とは違った存在になることを望む願望です。
(イ)セルヴェリズム(奴隷願望)→地位の剥奪
(ロ)小児化倒錯→年齢の剥奪
(ハ)変装(女性化)倒錯→男性の剥奪
(ニ)畜化倒錯→人間性の剥奪
(ホ)物化倒錯→生命の剥奪
いずれも、崇拝する女性よりも劣位でありたいという「下への衝動」の発露と言えますので、スクビズムの五類型のうち、第五類型「観念的下位」をさらに分類したものといえそうです。
一方、少し視点を変えると、これらの変身願望は、「成熟した社会人たる男性」として生きていくことに疲れた心が望んだ、現実逃避願望とも言えそうです。
各類型を簡単に説明します。
(イ)セルヴェリズム(奴隷願望)
自由人は、その自由と引き換えに、自分の行動をを自分で決める重荷を課せられています。この「決断」する重圧から逃れたくなった者は、自らの意思ではなく、頭上から下される「命令」にのみ従って生きる奴隷を志向します。
対象女性に所有される奴隷となり、跪き、命令され、奉仕することを望む非常にポピュラーな願望です。
(ロ)小児化倒錯
欲望を抑えて秩序に従うことに嫌気が差した者は、欲望のままに生きていた子供に戻ることを志向します。
対象女性に子ども扱いされることを望む願望です。
「しつけ」「お仕置き」といった懲罰願望と容易に結びつきます。
(ハ)変装(女性化)倒錯
男性としての「強さ」を求められることに耐えられなくなった者は、むしろ(特に前時代においては)「か弱さ」を売りにできる女性に転じることを志向します。
対象女性と自己の性を倒錯させ、女性として扱われることを望む願望です。
自ら女装するだけではあきたらず、対象女性に男装を求める場合もあります。
自らの口腔や肛門を女性器に見立て、対象女性に棒状の擬似男性器で陵辱される去勢願望と、容易に結びつきます。
(ニ)畜化倒錯
人間としての尊厳すら疎ましくなった者は畜化(家畜への変身)を志向します。
家畜・ペットとして対象女性に飼育される願望です。
「犬派」「馬派」という言葉があるくらい、マゾヒストにはポピュラーな願望です。
「人間以下」の存在に変身するという意味で、観念的スクビズムの極地と言えます。
「対象神格化」と「畜化倒錯」は相似形です。
対象と自己との絶望的に絶対的な隔絶を志向するものですが、「対象神格化」が自己を人間のままに対象女性を女神とするのに対し、「畜化倒錯」は対象女性を人間のままにおいて、自らが人間以下の存在になろうとするものです。
(ホ)物化倒錯
生きることさえ放棄したくなった者は、物化(家具・道具への変身)を志向します。
対象女性に「モノ」として使用・消費されるという願望です。
人間としてではなくとも、なお「愛玩される」余地が残る畜化倒錯に比べ、物化倒錯は対象から存在意義を否定される感覚が非常に強い願望です。
家具・道具の存在意義は、それのもたらす効用のみにあって、それそのものはなくなっても、代わりがあれば持ち主はなんとも思いません。
対象女性から「手段」として利用される、存在を無視・軽視される、放置されるといた「感情の一方通行」を志向する願望と容易に結びつきます。
複合的発露
具体的な願望は、これらの各類型が組み合わさって発露することもあります。
例えば、「馬になって対象女性に乗られたい」という願望は、女体を下から支えるスクビズム第一類型と、畜化願望(変身願望の(ロ))が組み合わさったものです。
「犬になりたい」という願望は、畜化願望に加え、「舐める動物」として、スクビズム第二類型(足を舐める)、第三類型(股間部を舐める)、第四類型(排泄物を舐める)と強く結びついています。
物化倒錯(変身願望の(ホ))の場合、スクビズム第一類型と結びつけば女体を支持する椅子や縁台、第四類型と結びつけば女体から分泌・排泄されたものを受ける痰壺や便器となります。足置きや絨毯となれば第一類型と第二類型、サドルとなれば第一類型と第三類型と結びついているということになりましょう。
「人間ビデ願望」というものもあります。昨今ネット上では「寝室奴隷」とも表現されています。カップルが愛し合った後、上位男性の体液がたっぷりと注がれた女性器を舐めて清めるという、トリオリストにとって究極ともいうべき願望です。これはトリオリズムとスクビズム第三類型、第四類型が結びついたものです。
最後に、スクビズムの五類型と変身願望の五類型を図にまとめてみました。
はたしてこの図で、沼のいわく「正統マゾヒズム願望の諸相」が網羅できているかについては異論がある方もいらっしゃるかと思います。
それについてはまた、別記事で論じたいと思います。
「スクビズム」の五類型と「変身願望」の五類型
谷崎潤一郎のスクビズム(1)―『少年』論~スクビズムの楽園
では、沼正三『ある夢想家の手帖から』の第一三三章「スクビズム」で紹介されていた「スクビズム」の五類型をご紹介しました。
谷崎潤一郎のスクビズム(3)―『捨てられる迄』論~堕ちていく快楽、委ねる快楽
では、『手帖』の第二一章「召使い願望と侍童願望」で紹介されていた「変身願望」の五類型をご紹介しました。
ここで、改めてまとめておきたいと思います。
「スクビズム」とは、「対象女性を上位に、自らを下位に置こうと志向する願望」のことです。
沼正三は、この概念をもって、正当マゾヒズムの諸相(三者関係は除く)をすべて説明できるとまで言い切っています。
スクビズムの五類型は下記のとおりです。
第一類型 肉体的下位
対象女性の体を自らの体で下から支持するという願望。
第二類型 肉体的下部
足への執着。
第三類型 観念的下部A
女性器や肛門への奉仕。
第四類型 観念的下部B
分泌物、排泄物への執着。
第五類型 観念的下位
人間と人間との関係としての下位、あるいは文化的・知能的に劣った存在への志向。
「変身願望」は、「成熟した社会人たる男性」が、「地位」、「年齢」、「男性」、「人間性」、「生命」といった属性を捨て去り、今とは違った存在になることを望む願望です。
いずれも、崇拝する女性よりも劣位でありたいという「下への衝動」の発露と言えますので、スクビズムの五類型のうち、第五類型「観念的下位」をさらに分類したものといえそうです。
(イ)セルヴェリズム(奴隷願望)→地位の剥奪
(ロ)小児化倒錯→年齢の剥奪
(ハ)変装(女性化)倒錯→男性の剥奪
(ニ)畜化倒錯→人間性の剥奪
(ホ)物化倒錯→生命の剥奪
具体的な願望は、これらの各類型が組み合わさって発露することもあります。
例えば、「馬になって対象女性に乗られたい」という願望は、女体を下から支えるスクビズム第一類型と、畜化願望(変身願望の(ロ))が組み合わさったものです。
「犬になりたい」という願望は、畜化願望に加え、「舐める動物」として、スクビズム第二類型(足を舐める)、第三類型(股間部を舐める)、第四類型(排泄物を舐める)と強く結びついています。
物化倒錯(変身願望の(ホ))の場合、スクビズム第一類型と結びつけば女体を支持する椅子や縁台、第四類型と結びつけば女体から分泌・排泄されたものを受ける痰壺や便器となります。足置きや絨毯となれば第一類型と第二類型、サドルとなれば第一類型と第三類型と結びついているということになりましょう。
「人間ビデ願望」というものもあります。昨今ネット上では「寝室奴隷」とも表現されています。カップルが愛し合った後、上位男性の体液がたっぷりと注がれた女性器を舐めて清めるという、トリオリストにとって究極ともいうべき願望です。これはトリオリズムとスクビズム第三類型、第四類型が結びついたものです。
ドミナの類型学
沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第一章は、「夢想のドミナ」という題で、マゾヒストにとっての理想の女性像について語っています。
まず、ギリシア神話の「パリスの審判」が紹介されています。
少し端折ってご紹介します。オリンポス十二神の中でも特に美しいとされるヘラ、アテネ、アフロディテの三女神が、「誰が最も美しいか」で争います。審判は、トロイ王子パリスに委ねられます。ヘラ(ジュノー)は大神ゼウスの妃で権力の象徴。アテネ(ミネルヴァ)は理知と武勇の象徴。アフロディテ(ヴィーナス)は美と女性の性的魅力の象徴です。いずれも男が欲するものを象徴していて、男はそのいずれか一つを選ばざるをえないよ、というのがこの話の寓意なのですが、パリスはアフロディテを選びます。この結果、パリスは後に絶世の美女であるスパルタ王妃ヘレンを手にすることになります。もしヘラを選んでいたら、アガメムノンのような権力を、アテネを選んでいたら、アキレスのような武勲を手にしていたことでしょう。
沼はこれらの女神の属性を用いてマゾヒストにとっての理想の女性像(domina 像、mistress 像)を類型化しようとするのですが、考察の結果、あろうことか、畏れ多くも、優美な女性的魅力が売りの美女神アフロディテは理想の女神像ではないとして類型から除外してしまいます。
代わりに、理想の女神の一類型として加えられたのが、処女神アルテミス(ダイアナ)です。水浴びをしていた自分の裸を誤って見てしまった狩人を、五十頭の猟犬に襲わせるという残忍な方法で即刻処刑した神話が有名な狩猟好きの女神です。
結局、沼の考える理想の女性像は、次の三類型ということになります。
①ヘラ型
身分の高い貴婦人。驕慢で、人を使役したり、人に傅かれることに慣れた女性。
②アテネ型
男勝りの強さ、知性、能力、行動力を持った実力派の女性。
③アルテミス型
溌剌とした若さを持つ乙女。潔癖で誇り高い処女。
小説『家畜人ヤプー』に登場する四女神(クララ・フォン・コトヴィッツ嬢、ポーリン・ジャンセン侯爵嗣女、ドリス・ジャンセン侯爵令嬢、アンナ・"テラス"・オヒルマン公爵)には、この類型はどのように反映されているのでしょうか。
(私は青春時代、『ヤプー』を読んでこの四柱の女神に本気で恋をしてしまい、寝ても覚めても四女神のことを考えては昼夜を問わず自慰にふけり、やがて私の心は永遠に四女神の支配するものとなってしまいました。今ではこうして御神名をタイプするだけでも畏れ多くて手が震えてきてしまうくらいなのですが、四女神に対する個人的な想いはまた別の機会に書くとして、ここではあえて少し客観的に論じます。)
四女神はいずれも、白人社会においては永く人を隷属させてきた西欧貴族の正統な継承者であり、また、ヤプーから見れば、全知全能にして絶対無謬、真善美の基準そのものであり、全同胞の命をもってして、その小指の一挙の価値とも比較しえないと崇められている女神ですから、①ヘラ型の属性は四柱とも十分過ぎるくらい備えているといえます。あえていえば特に、アンナ・テラスは、爵位としても最上級ですし、ヤプーにとっては、民族神話の最高神:天照 大神として、また白神崇拝 の福音を授けた存在として、二重の意味で特別な存在である最上級の女神ですので、最もジュノー型属性の強い女神といえるでしょう。
②アテネ型の属性については、女権社会の貴族として生まれ育った三柱の女神は、もとより当然備えており、クララについてももともと乗馬をたしなみ、ドイツの大学でも才色双絶を讃えられていた女性ですので、女権社会においてはますますその能力を発揮していくと思われ、やはり四柱とも十分に備えているといえます。特に、若くして広大な領域の地区検事長を努めるポーリンと、大探検家、慈善活動家などとして活躍したアンナ・テラスが、アテネ型属性の強い女神です。
③アルテミス型の属性は、もっぱらドリスに与えられています。乗馬やマリンスポーツに溌剌と励む姿、黒奴やヤプーに対する峻烈で残忍な扱いは、まさに聖処女神アルテミスと重なります。
このように『家畜人ヤプー』の四女神は、沼自らが示した理想の女性像の属性を、それぞれにしっかりと備えているといえます。逆に、理想像から外しただけあって、アフロディテ的に、その美貌で男を(自ら積極的に)誘惑したり、性的な魅力を武器として使うような場面は、ほとんどありません。
さて、もう一人のマゾヒズム文学の第一人者、谷崎潤一郎の小説に登場するヒロインは、どのような属性を持っているのでしょうか。あえて、沼が示した類型に当てはめて考えてみます。
谷崎作品のヒロインで一番多いのは、沼が理想の女神の類型としては外した、アフロディテ型のヒロインです。遊女、芸者、舞妓、娼婦といった商売女のヒロインが多く、一般女性であっても妖婦、毒婦、淫婦、悪女などといわれるタイプの女性を好んで繰り返しヒロインにしています。天から与えられたのは美貌と性的魅力のみ。しかし、それを使って男を支配し、全てを手に入れていくタイプが谷崎作品の典型的なヒロインなのです。
たとえば『麒麟』に登場する王妃:南子は、一国を自らの所有物のように扱う暴虐な絶対権力者であり、①ヘラ型の属性を備えていますが、その権力は自らの美貌と性的魅力をもって霊公の心を支配することによって得られたものなので、多分にアフロディテ型のヒロインであるといえます。
また、『恋を知る頃』のおきんや、『お才と巳之介』のお才のように、男勝りの知能と行動力によって計略を巡らせて犯罪を実行し、成功を勝ち取っていくヒロインも谷崎は大好きで非常によく登場します。これらのヒロインは②アテネ型の属性を持っているといえますが、必ずといっていいほど被害者を美貌と性的魅力で誘惑したり、情夫と共謀したりしていますので、やはりアフロディテ型の属性が強いといえます。
谷崎は、アフロディテ型を理想の女性像と考えつつ、①ヘラ型、②アテネ型にも強い魅力を感じていた、と言えるでしょう。
ところが、後期になって、谷崎作品に変化が現れます。『蘆刈』のお遊、『春琴抄』の春琴、『細雪』の蒔岡四姉妹など、匂い立つような気品を備え、自然と人を傅かせるような、より純粋な①ヘラ型のヒロインが次々に登場します。これは、三人目の夫人となる根津松子という上流婦人との出会いにより、たまりにたまっていた貴婦人崇拝、召使願望が、爆発したことによるものです。
晩年となった谷崎はなお、昭和三十六年、『瘋癲老人日記』を著し、颯子 という、活発に戦後社会を生きる、新しい②アテネ型のヒロインを生み出します。(ただし、衰弱した老人を性的魅力で操るアフロディテ性も強いヒロインですが。)大学卒で、谷崎と文芸論を交わすことのできた才女:渡辺千萬子の存在が、新たなヒロイン像を生み出させたようです。
では、③アルテミス型の属性を持つヒロインはどうでしょうか。数は多くありませんが、谷崎作品には非常に魅力的なアルテミス型の美少女がときおり登場します。なにをかくそう、私はこのタイプのヒロインが一番好きです。
一例は、作品論を書いた『女人神聖』の光子です。光子の潔癖で誇り高い美しさには、何度読んでも心酔してしまいます。作品論もご参照ください。
谷崎序論(2)―『女人神聖』論~貴族の兄妹、奴隷の兄妹
あるいは、『羅洞先生』で、最後に羅洞先生の腹に乗っかて鞭を振るう少女。彼女も、すごく短い登場シーンですが、淡々と罰を与える姿が、醜く卑しい欲望にまみれた羅洞先生との対比が、気高く清純に映ります。
そして、私が最も崇拝する究極の美少女ヒロインが、戯曲『鶯姫』に出てくる京都の女学校の生徒、壬生野 春子嬢です。彼女の登場シーンを引用します。
はあぁ。なんて美しい表現なんでしょう。春子は実際名門公家上がりの子爵の令嬢です。国語の老先生も春子の美しさに心密かに憧れているものだから、ついつい「殿上人を想い浮かべる」なんていってちやほやして甘やかします。それをいいことに春子は友達と一緒に先生を玩具にして無邪気な徒を仕掛けては、笑い転げます。そんなときも、友達はみな「あはゝゝゝゝ。」と笑うんですが、春子だけは「おほゝゝゝゝ。」なんて上品に笑うんで、先生はますます憧れを強くしてしまいます。
どうでしょうか。私は何度読んでも春子の気品に心酔して全身が痺れたようになります。谷崎作品のアルテミス型の美少女を思うと私は、そのあまりの高潔な清らかさの前に、卑しい妄想とonanismで穢れた自らの醜さと罪悪が暴き出された気がして、美少女の手で罰してほしいとしという願望が発露してしまいす。
まず、ギリシア神話の「パリスの審判」が紹介されています。
少し端折ってご紹介します。オリンポス十二神の中でも特に美しいとされるヘラ、アテネ、アフロディテの三女神が、「誰が最も美しいか」で争います。審判は、トロイ王子パリスに委ねられます。ヘラ(ジュノー)は大神ゼウスの妃で権力の象徴。アテネ(ミネルヴァ)は理知と武勇の象徴。アフロディテ(ヴィーナス)は美と女性の性的魅力の象徴です。いずれも男が欲するものを象徴していて、男はそのいずれか一つを選ばざるをえないよ、というのがこの話の寓意なのですが、パリスはアフロディテを選びます。この結果、パリスは後に絶世の美女であるスパルタ王妃ヘレンを手にすることになります。もしヘラを選んでいたら、アガメムノンのような権力を、アテネを選んでいたら、アキレスのような武勲を手にしていたことでしょう。
沼はこれらの女神の属性を用いてマゾヒストにとっての理想の女性像(
代わりに、理想の女神の一類型として加えられたのが、処女神アルテミス(ダイアナ)です。水浴びをしていた自分の裸を誤って見てしまった狩人を、五十頭の猟犬に襲わせるという残忍な方法で即刻処刑した神話が有名な狩猟好きの女神です。
結局、沼の考える理想の女性像は、次の三類型ということになります。
①ヘラ型
身分の高い貴婦人。驕慢で、人を使役したり、人に傅かれることに慣れた女性。
②アテネ型
男勝りの強さ、知性、能力、行動力を持った実力派の女性。
③アルテミス型
溌剌とした若さを持つ乙女。潔癖で誇り高い処女。
小説『家畜人ヤプー』に登場する四女神(クララ・フォン・コトヴィッツ嬢、ポーリン・ジャンセン侯爵嗣女、ドリス・ジャンセン侯爵令嬢、アンナ・"テラス"・オヒルマン公爵)には、この類型はどのように反映されているのでしょうか。
(私は青春時代、『ヤプー』を読んでこの四柱の女神に本気で恋をしてしまい、寝ても覚めても四女神のことを考えては昼夜を問わず自慰にふけり、やがて私の心は永遠に四女神の支配するものとなってしまいました。今ではこうして御神名をタイプするだけでも畏れ多くて手が震えてきてしまうくらいなのですが、四女神に対する個人的な想いはまた別の機会に書くとして、ここではあえて少し客観的に論じます。)
四女神はいずれも、白人社会においては永く人を隷属させてきた西欧貴族の正統な継承者であり、また、ヤプーから見れば、全知全能にして絶対無謬、真善美の基準そのものであり、全同胞の命をもってして、その小指の一挙の価値とも比較しえないと崇められている女神ですから、①ヘラ型の属性は四柱とも十分過ぎるくらい備えているといえます。あえていえば特に、アンナ・テラスは、爵位としても最上級ですし、ヤプーにとっては、民族神話の最高神:
②アテネ型の属性については、女権社会の貴族として生まれ育った三柱の女神は、もとより当然備えており、クララについてももともと乗馬をたしなみ、ドイツの大学でも才色双絶を讃えられていた女性ですので、女権社会においてはますますその能力を発揮していくと思われ、やはり四柱とも十分に備えているといえます。特に、若くして広大な領域の地区検事長を努めるポーリンと、大探検家、慈善活動家などとして活躍したアンナ・テラスが、アテネ型属性の強い女神です。
③アルテミス型の属性は、もっぱらドリスに与えられています。乗馬やマリンスポーツに溌剌と励む姿、黒奴やヤプーに対する峻烈で残忍な扱いは、まさに聖処女神アルテミスと重なります。
このように『家畜人ヤプー』の四女神は、沼自らが示した理想の女性像の属性を、それぞれにしっかりと備えているといえます。逆に、理想像から外しただけあって、アフロディテ的に、その美貌で男を(自ら積極的に)誘惑したり、性的な魅力を武器として使うような場面は、ほとんどありません。
さて、もう一人のマゾヒズム文学の第一人者、谷崎潤一郎の小説に登場するヒロインは、どのような属性を持っているのでしょうか。あえて、沼が示した類型に当てはめて考えてみます。
谷崎作品のヒロインで一番多いのは、沼が理想の女神の類型としては外した、アフロディテ型のヒロインです。遊女、芸者、舞妓、娼婦といった商売女のヒロインが多く、一般女性であっても妖婦、毒婦、淫婦、悪女などといわれるタイプの女性を好んで繰り返しヒロインにしています。天から与えられたのは美貌と性的魅力のみ。しかし、それを使って男を支配し、全てを手に入れていくタイプが谷崎作品の典型的なヒロインなのです。
たとえば『麒麟』に登場する王妃:南子は、一国を自らの所有物のように扱う暴虐な絶対権力者であり、①ヘラ型の属性を備えていますが、その権力は自らの美貌と性的魅力をもって霊公の心を支配することによって得られたものなので、多分にアフロディテ型のヒロインであるといえます。
また、『恋を知る頃』のおきんや、『お才と巳之介』のお才のように、男勝りの知能と行動力によって計略を巡らせて犯罪を実行し、成功を勝ち取っていくヒロインも谷崎は大好きで非常によく登場します。これらのヒロインは②アテネ型の属性を持っているといえますが、必ずといっていいほど被害者を美貌と性的魅力で誘惑したり、情夫と共謀したりしていますので、やはりアフロディテ型の属性が強いといえます。
谷崎は、アフロディテ型を理想の女性像と考えつつ、①ヘラ型、②アテネ型にも強い魅力を感じていた、と言えるでしょう。
ところが、後期になって、谷崎作品に変化が現れます。『蘆刈』のお遊、『春琴抄』の春琴、『細雪』の蒔岡四姉妹など、匂い立つような気品を備え、自然と人を傅かせるような、より純粋な①ヘラ型のヒロインが次々に登場します。これは、三人目の夫人となる根津松子という上流婦人との出会いにより、たまりにたまっていた貴婦人崇拝、召使願望が、爆発したことによるものです。
晩年となった谷崎はなお、昭和三十六年、『瘋癲老人日記』を著し、
では、③アルテミス型の属性を持つヒロインはどうでしょうか。数は多くありませんが、谷崎作品には非常に魅力的なアルテミス型の美少女がときおり登場します。なにをかくそう、私はこのタイプのヒロインが一番好きです。
一例は、作品論を書いた『女人神聖』の光子です。光子の潔癖で誇り高い美しさには、何度読んでも心酔してしまいます。作品論もご参照ください。
谷崎序論(2)―『女人神聖』論~貴族の兄妹、奴隷の兄妹
あるいは、『羅洞先生』で、最後に羅洞先生の腹に乗っかて鞭を振るう少女。彼女も、すごく短い登場シーンですが、淡々と罰を与える姿が、醜く卑しい欲望にまみれた羅洞先生との対比が、気高く清純に映ります。
そして、私が最も崇拝する究極の美少女ヒロインが、戯曲『鶯姫』に出てくる京都の女学校の生徒、
「その時まで、側面の櫻の木陰に縄飛びをしていた四人の生徒等は、次第にヹランダの前の方へ飛んで来る(中略)最年少者は壬生野春子。四人のうち三人は和服を着、春子だけが純白の清々しい洋装をして居る。中高の瓜實顔の、際立って眉目の秀麗な十四五歳の少女で、背丈のスラリとした、優雅な体つきの何処か知らに、名門の姫君らしい品位がある。」
はあぁ。なんて美しい表現なんでしょう。春子は実際名門公家上がりの子爵の令嬢です。国語の老先生も春子の美しさに心密かに憧れているものだから、ついつい「殿上人を想い浮かべる」なんていってちやほやして甘やかします。それをいいことに春子は友達と一緒に先生を玩具にして無邪気な徒を仕掛けては、笑い転げます。そんなときも、友達はみな「あはゝゝゝゝ。」と笑うんですが、春子だけは「おほゝゝゝゝ。」なんて上品に笑うんで、先生はますます憧れを強くしてしまいます。
どうでしょうか。私は何度読んでも春子の気品に心酔して全身が痺れたようになります。谷崎作品のアルテミス型の美少女を思うと私は、そのあまりの高潔な清らかさの前に、卑しい妄想とonanismで穢れた自らの醜さと罪悪が暴き出された気がして、美少女の手で罰してほしいとしという願望が発露してしまいす。