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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

白人崇拝論

「白人崇拝思想」とは
 当ブログ開設時(2007年)の記事:日本マゾヒズム文学の三大要素において私は、「広く日本人のマゾヒストが共通して持っている嗜好」として、スクビズム(下への願望)、トリオリズム(三者関係)と並んで、アルビニズム(白人崇拝)を挙げました。当ブログの出発点となったこの三要素につき、スクビズムとトリオリズムについてはすでに各総論でご紹介しました。

スクビズム総論

トリオリズム総論

 今回は残る白人崇拝について論じたいと思います。
 日本のマゾヒズム文学の最高峰である小説「家畜人ヤプー」について、作者である沼正三は、次のように語っています。「汚物愛好ピカチズム下部願望スクビズムとを主要表現とする各種マゾ願望をよこいととし、これを貫くに信仰化した白人崇拝思想のたていとを以ってしたもの」(「ある夢想家の手帖から」(以下「手帖」)第16章)であると。
 「白人崇拝思想」とは、日本人のマゾヒストが、有色人種として白人種に対して感じる種族的劣等感を、自らの性衝動と結びつけ、マゾヒストとしての崇拝対象を白人という人種集団に置いてしまったものです。沼自身、その本質を「白い肉体の持主としての白人種への劣等感の肯定」であるとしています。(「手帖」では「白人崇拝ホワイト・ワーシップ」というルビがふられていますが、「家畜人ヤプー」ではこれを信仰化して「白神信仰アルビニズム」と名づけています。)

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白人を崇拝する者たちホワイト・ワーシッパーズ
 白人崇拝ホワイト・ワーシップをその理想世界の「たていと」としていた日本人のマゾヒストは沼正三だけではありません。「家畜人ヤプー」と沼のエッセイ「ある夢想家の手帖から」(原題「あるマゾヒストの手帖」)が連載されていた「奇譚クラブ」をはじめとする当時の風俗雑誌には、あきらかにこの白人崇拝ホワイト・ワーシップの色濃い小説やエッセイが多数掲載されていました。
 天野哲夫(黒田史郎、阿麻哲郎とも)、森下高茂(谷貫太、森本愛造とも)、田沼醜男、三原寛といった面々(名実ともに「奇譚クラブ」を代表する作家です)や、他誌で活躍していた白野勝利、南村蘭、原田沼三といった作家も、明確に白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーです。
 そして、近代日本を代表する文豪であり、日本のマゾヒズム文学の創始者である谷崎潤一郎も、後述するように、生涯癒しがたい強烈な白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーでした。
 このように、白人崇拝ホワイト・ワーシップは、日本のマゾヒズム文学にとって深刻といえるくらい重要な特徴です。日本のマゾヒズム文学を貫く「たていと」といっても過言ではなく、これを抜きに日本のマゾヒズム文学は語りえないと思います。これはもちろんザッヘル・マゾッホなどの西洋のマゾヒズム文学には登場しません。(書いているのも読んでいるのも白人種自身なのですから当然ですが。)白人種という、強烈な憧憬と人種的劣等感を掻き立てられる優越人種集団と対峙した近現代の日本人だからこそ味わうことができる極めて畸形な性衝動なのです。

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ナスターシャ・キンスキー(ドイツ出身)

白人崇拝ホワイト・ワーシップの二段階――「白人女性崇拝」と「白人種崇拝」
 マゾヒストの白人崇拝ホワイト・ワーシップには、大きく分けて二つの段階があります。上述した白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーたちの作家による作品群も、この二段階に分けることができます。
 第一段階は、理想のドミナ像を日本人女性より白人女性に求める、「白人女性崇拝」というべき状態です。スクリーンやカヴァーに映し出された白人の女優やモデル、あるいは間近に見た白人女性の美しさにに憧れ、その足元に跪き、隷属したいと願う、これが白人崇拝ホワイト・ワーシップの入り口です。
 これに対して第二段階は、より一般的に、老若男女の人種集団としての白人種を崇拝し、礼賛する「白人種崇拝」です。一種の性衝動でありながら真に「思想」と呼べるのはこちらの方です。
 すなわち白人種の優越性と日本人の劣等性を日本人自身が積極的に肯定する、有色人種による「白人種至上主義ホワイト・スプレマシー」です。そしてそれを根拠に、受動的には優越者による劣等者への当然の対応として、白人種から日本が国家として、日本人が民族として、有色人種が人として蔑視され、迫害され、陵辱され、支配されることを望みます。能動的には劣等者からの優越者への当然の義務として、白人種に完全に隷属し、忠実に奉仕することを望みます。
 現代の科学が白人種の優越性ホワイト・スプレマシーを否定しているのは、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーもみな知っています。しかしこの「思想」が「真理」であると信じることそのものに、性的な快楽を得ることができるのが白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーなのです。

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エヴァン・レイチェル・ウッド(アメリカ出身)

なぜ異人種なのか?なぜ白人なのか?
 ではなぜ、近代以降日本のマゾヒストの中に、白人崇拝ホワイト・ワーシップという極めて畸形な性衝動が生まれ、ここまでポピュラーになったのでしょうか。
 それは「なぜ近代以降の日本のマゾヒストが、支配者として、崇拝対象として、奉仕対象として、同胞よりも白人を欲望したのか?」という問いに読み替えれば、それが必然であったことが自ずと理解できます。
 日本人のマゾヒストの白人崇拝ホワイト・ワーシップは、近代の日本人一般が抱いていた「白人に対する人種的劣等感」とマゾヒスト独特の性衝動が必然的に結びついたものです。
 マゾヒストは支配されることを夢見る人たちです。日本人のマゾヒストが、自分を支配する存在として、人種的劣等感を刺激させてくれる白人を選ぶことは必然的なことです。
 より具体的には、白人は、マゾヒストにとって、同胞よりも支配者として、崇拝対象として望ましい二つの利点を有しています。
(1)自分とは隔絶して美しく感じられる容姿
(2)支配種族としての歴史的実績
ここからはこの2つの利点について論じていきます。

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ローレンス・アルマ=タデマ画

白い肉体の持主
 白人崇拝ホワイト・ワーシップの利点のひとつは、崇拝対象である白人と、日本人である自己の容姿が、同じ人間でありながら人種が異なるため大きく隔絶していて、なおかつ若い白人男女の容姿は、日本人一般にとって憧憬、嘆賞に値するビューティー魅力アルアーを備えている、ということです。
 日本人にも、心を奪われる美しい男女はいますし、中国人、韓国人にもいます。同人種の美男美女に対し崇拝感情を抱き、支配されたいというマゾ願望を持つことはもちろんあります。しかし、彼らも肌の色、髪の色、目の色や顔体の基本的なつくりは、同人種なので、自分とまったく違うとはいえません。やはり他系統の人種のほうが、「同じ人間とは思えない」という「有難み」が増します。
 もちろん、自分と容姿が大きく隔絶しているからといって、崇拝対象が黒人ニグロイド怪物クリーチャーでもいいということにはなりません。
 透き通るような白い肌、宝石のようにカラフルな目の色、輝く金髪、細く隆い鼻、薄い唇、スラリとした長い脚に八頭身のプロポーションといった白人の持つ身体的特徴は、日本人一般が「美しい」「かっこいい」「憧れる」と感じてしまう要素を備えています。
 さらに一つ注目すべきは、日本人の白人に対する憧憬の表現を読めば、明らかにその頂点にあるのは、黒髪ブリュネット南欧種族ラティーノではなく、金髪碧眼ブロンド北欧種族アーリアンであることです。

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グレース・ケリー(アメリカ出身)

黄色い肌の呻き―なぜ白人は美しいのか
 ではなぜ、日本人は白人(とりわけ、金髪碧眼ブロンド北欧種族アーリアン)の肉体を美しいと感じてしまうのでしょうか。
 「白人を理想的に描いている広告や雑誌、映画を見てきたから」というのは、鶏と卵のようなトートロジーになっていてあまり意味のある答えではありません。日本人が白人に憧れているから白人を理想的に描く広告や雑誌が作られ、ハリウッドを中心にした洋画が受けるのであって、それは白人への劣等感の増幅には寄与しているでしょうが、根本的な原因とはいえません。
 もっと大きな背景として考えられるのは、私たちが生きている文明は白人の作った西洋文明である、ということでしょう。衣服にしても、家具にしても、建築にしても、私たちの生活を取り巻くあらゆるデザインやスタイルはもともと白人の身体に対応し、白人の肉体に栄えるように作られたものです。だから私たちの生活は白人のような肉体的条件(色素の薄い、明るい肌や髪の色も含め)を、均整の取れた「美しい肉体」として必然的に認識してしまうのです。

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 沼はこの点に言及しています。「我々有色人は白人と同じ風俗の下に―洋服を着、靴を穿いて―暮らすことを強制されてきている。この場合どうにもならないことは、生活・風俗の文化というものは人間の肉体と高度に関連を持ったものだということだ。物質文明は模倣できる。しかし、肉体的条件は模倣できない。風俗文化に関する限り有色人種は常に「借着」の意識を味わわされる。そこに癒しがたい劣等感が生れる。」(「手帖」第11章)
 谷崎潤一郎も、直感的にこの問題に気づいており「陰影礼賛」という随筆で言及しています。この随筆はほの暗い「陰影」の文化を作り出した日本人を「礼賛」していると喧伝されることがありますが、素直に読めばまったく逆で、日本の家屋が暗いのは東洋人の肌の醜さを隠すためであり、西洋人が屋内の照明をどんどん明るくしていったのは、その明るさに耐えうる肉体、とりわけ肌の色の美しさの持ち主だったからだ、と説いているものです。

 で、かくの如きことを考えるにつけても、いかにわれわれ黄色人種が陰影と云うものと深い関係にあるかが知れる。誰しも好んで自分たちを醜悪な状態に置きたがらないものである以上、われわれが衣食住の用品に曇った色を使い、暗い雰囲気の中に自分たちを沈めようとするのは当然であって、われわれの先祖は彼等の皮膚に翳りがあることを自覚していた訳でもなく、彼等よりより白い人種が存在することを知っていたのではないけれども、色に対する彼等の感覚があゝ云う嗜好を生んだものと見る外はない。



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ロージー・ハンティントン=ホワイトリー(イギリス出身)

 同様の認識は「アヱ゛・マリア」にも現れます。

 一体、西洋人がシャボンと云うものを発明したのは、日本人が糠袋を使うのと同じように自然な事だね。あの白い泡の立つものが白い肌の上を雪のようにとろけて流れていく様は、見たゞけでもすがすがしい気がする。泡は肌に溶け込むのを喜び、肌は泡に融かされるのを喜んでいる。そこへ行くと日本人はそうは行かない。とてもこれだけの調和が取れない。どうかすると泡だらけの体が一層醜悪に見えたりする。黄色い肌の人間はやっぱり黄色い糠の方がいゝのかも知れない



 遠藤周作は、「アデンまで」で金髪碧眼ブロンドのフランス人女性に恋した日本人留学生の「呻き」ともいうべき劣等感を表現しています。

 その時ほど金髪がうつくしいと思ったことはない。汚点しみ一つない真白な全裸に金髪がその肩の窪みから滑りながれている。(中略)部屋の灯に真白に光った女の肩や乳房の輝きの横で、俺の肉体は生気のない、暗黄色をおびて沈んでいた。(中略)そして女と俺の躰がもつれ合う二人の色には一片の美、一つの調和もなかった。むしろそれは醜悪だった。俺は其処に真白な葩<はなびら>にしがみついた黄土色の地虫を連想した。その色自体も胆汁やその他の人間の分泌物を思いうかばせた。手で顔も躰も覆いたかった。

(中略)

 俺は真からその肌の色が醜いと思う。黒色は醜い。そして黄濁した色はさらに憐れである。俺もこの黒人女もその醜い人種に永遠に属しているのだ。俺にはなぜ、白人の肌だけが美の標準になったのか、その経緯は知らぬ。なぜ今日まで彫刻や絵画に描かれた人間美の基本が、すべてギリシア人の白い肉体から生れ、それをまもりつづけたのかも知らぬ。だが、確かなこと、それは如何に口惜しくても、肉体という点では永久に俺や黒人は、白い皮膚を持った人間たちのまえでミジめさ、劣等感を忘れる事はできぬという点だ。

(中略)

 黒人たちは白人たちの前で、自分たちが、いかなる世界にあっても、罰をうけねばならぬ存在である事を知っている。白人たちのすることは、どんなことでも善であり、神聖なのだ。

(中略)


 白色の前に黄いろい自分を侮辱しようとする自虐感、その悦びがひそんでいた。

(中略)

 俺は永遠に黄いろく、あの女は永遠に白いのである。


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ブリジット・バルドー(フランス出身)

 本作では審美眼に刷り込まれた人種間の「美醜」の隔絶が、文明の「優劣」そして魂の「善悪」にまで演繹されています。白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーにとって、「白い肌」は、優越人種が劣等人種に、「理屈抜きの実感」として眼前に突きつける「明白な優越性の証拠」です。頭では、理屈では人種差別を否定しても、目の前に対峙した白人種を包み込んでいる、透き通るような、照り輝くような「白い肌」の美しさには、理屈を超えて心酔させられ、その「白い肉体の持ち主」が「神聖で穢れなき優越人種」に違いないと、納得感を持って理解させてくれます。
 現在でも、衣類、宝石などの日本人向けのCMや広告に、白人のモデルが起用されますし、住宅や自動車の広告ですら、高級感を出すために白人のモデルが起用されることがあります。日本人の肉体も、戦後ライフスタイルの変化とともに大きく変わりましたが、基本的な顔のつくりや肌、髪、眼の色が変わるわけではありません。明るい照明の下で自分たちと白人の肌の色を比べたとき、前者に醜さを、後者に美しさを感じてしまう心理が果たしてぬぐいきれるのか。日本人のこの白人に対する劣等感と憧憬が完全に消えない限り、日本人マゾヒストの白人崇拝ホワイト・ワーシップの火も、消えることがないと信じます。

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ジュリー・オードン(スイス出身)

神々の息づかい―「対象神格化」と白人崇拝ホワイト・ワーシップの親和性
 マゾヒストではない普通の日本人が劣等感と憧憬を抱かざるを得ないような、自分たちとはまったく異なる、はるかに美しい身体的形質を備えた白人男女に対して、マゾヒストである日本人が抱くべき心理は、自ずと宿命的なものがあります。いかに美しくても、身体的形質からすれば「同胞」と認識せざるをえない女よりも、美しい「異人」として現れる金髪碧眼ブロンドの白人女性のほうが、ドミナとして喜ばしいという心理は、容易にお分かりいただけるのではないでしょうか。
 必然的に白人崇拝ホワイト・ワーシップは、「対象神格化」と容易に結びつきます。思えば一般の人でも「女神」「天使」といった「人間以上のもの」を想像する際には白人を思い浮かべることが多いように思いますが、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーにとって金髪碧眼ブロンドの白人女性は、容易に現実世界に現れた女神と認識することができます。
 また、白人崇拝ホワイト・ワーシップは「対象神格化」と表裏一体をなす「畜化願望」ともまた必然的に結びつきます。自分が人間としてとどまるのであれば、対象が人間以上の存在になり、対象が人間としてとどまるのであれば、自分が人間以下の存在になる。すなわち、犬や馬などに変身して、(あるいは犬や馬や他の有色人種と一緒に)家畜として白人種に飼育される願望です。

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徳珍画

谷崎は「獨探どくたん」という作品でこの心理を吐露しています。

 或る時私はふと気がつくと、十人ばかりの若々しい、金髪碧眼の白皙な婦人の一団に包囲されて、自分がまんなかにぽつりと一人立つて居るのを発見した。私の神経は何故か不思議なおののきを覚えた。むつくりと健康らしい筋肉の張り切つた、ゆたかに浄らかな乳房のあたりへぴつたりまとはつて居る派手な羅衣うすももの夏服の下から、貴く美しい婦人たちの胸の喘ぎの迫るやうなのを聞いた時、私は遠い異境の花園に迷ひ入つて、刺激の強い、奇くしく怪しい Exotic perfume に魂を浸されて行くのを感じた。私は名状しがたい、云はゞ命が吸い尽され掻き消されてしまいさうな不安に襲はれて、あわてゝ婦人たちを掻きのけながら包囲の外へ飛び出した。丁度一匹の野蛮が獣が人間に取り巻かれたやうな、又は無智な人間が神々に囲繞いじょうされた時のやうな、恐ろしさと心細さが突然私を捕らえたのであつた。



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アン=ルイス・ランバート(オーストラリア出身)

支配種族への憧れ
 さて、「白人の容姿が自分とは隔絶して美しく見えてしまう」ことに加え、白人崇拝ホワイト・ワーシップを強力に支えているもう一つの要素があります。それは、「白人種は優越人種であり、有色人種は劣等人種である」という幻想(白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーにとっては、真実)を裏打ちする白人種の世界支配の歴史的実績です。
 ギリシア・ローマ文明の正統な継承者である西欧文明は、中世の劣勢を経て大航海時代以降はほぼ一方的に世界に進出し、抵抗する多くの文明を滅ぼし、文化を蹂躙し、残された人々を支配し、収奪し、酷使してきました。とりわけ、新大陸の原住民を殺しつくした16世紀ころに本格的に導入され19世紀まで続いた黒人奴隷制度は、黒人を真に「家畜」として扱う制度でした。

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黒人奴隷

 19世紀は奴隷制が廃止された自由主義の世紀ですが、地球上のほとんどすべての陸地が白人国家によって分割支配された帝国主義の世紀でもあり、実質的にはアジア人も含めた有色人種全体が白人の奴隷として支配される体制が完成した時代でした。
 20世紀には植民地は次第に消滅しますが、白人が世界を政治的・経済的・軍事的に支配する状況は変わらず、アパルトヘイトをはじめとして、白人が有色人種を人として差別する状況は世界各地で続きました。
 そんななか日本は、辛うじて植民地化を逃れ、白人国家との差別的不平等条約を甘受し、西洋文明媚びへつらうことで何とか生き延びますが、思い上がった末の大東亜戦争の結果、国土は劫火に焼かれ、米国主体の連合国軍の占領支配を受けることになります。結局は日本も、白人国家の占領支配という経験から逃れることはできなかったのです。
 この実績は、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーにとっては、「白人種は優越人種であり、有色人種は劣等人種である」という夢のようドリーミーな幻想を、ぐっとリアルに実感させてくれる材料です。奴隷船に乗せられ、売買され、死ぬまでプランテーションで働かされる、白人から真に(「家畜のように」ではなく)「家畜として」扱われる黒人奴隷に自分を置き換えることも容易ですし、アジア各地の植民地で、アメリカ南部で、南アフリカ共和国で、白人から「劣等人」「下級種族」として扱われる人々に感情移入してもいい。
 あるいは、日本が白人国家に支配される妄想も容易にはかどります。16世紀、スペインがより意欲的に西進し、日本がフィリピンのように植民地になるとか、幕末、列強が日本をアヘン戦争後の清のように勢力分割支配してしまうとか、決して荒唐無稽なものではなく、ちょっとした偶然や作為が重なれば、十分に実現可能であったリアルな白昼夢デイドリームを楽しむことができます。
 この妄想は、必然的に「優越人種が劣等人種を支配する」という「ごく当たり前の世界」が19世紀で終わらず、永久に続く願望に繋がります。(実際に日本が邪魔をしなければ、日露戦争に敗れてさえいれば、白人の世界支配は少なくとももっと長く続いたはずで、永遠に続いた可能性あります。)もしそうなれば、奴隷制の復活を経て、やがて有色人種にとっての白人種は価値の源泉である「神」へと、白人種にとっての有色人種は有用性のみに価値を見出す「家畜」へと変わっていくことでしょう。
 有色人種が白人種の支配を喜んで受け入れ、積極的に奉仕する理想世界。この境地にまで妄想が至ったとき、思想である白人崇拝ホワイト・ワーシップは、信仰へと昇華するのです。
 多くの宗教は、神などの霊的な存在を信仰の対象としていますので、合理主義と矛盾します。そんなの見たこともない、声を聞いたこともない、本当にいるの?となる。今日の日本人に宗教を信仰しない人が多いのもこのためでしょう。しかし白人崇拝ホワイト・ワーシップが昇華した白神信仰アルビニズムは崇拝対象の美しい肌をこの目で見、その命令をこの耳で聞き、現実にその便益に奉仕することができます。思えば白神信仰アルビニズムは幸せな信仰です。
 個人的なSM関係ではなく、制度として、集団が集団を支配する妄想は、白人崇拝ホワイト・ワーシップに関わらず構築は可能でしょう。たとえばいわゆる「女権帝国」もの。しかし、「白人種が有色人種を支配する世界」は圧倒的な歴史的実績に裏打ちされているので、その妄想のリアリティが他と違い、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーにとっては深刻なものとなります。
 その究極の理想は、白人種が日本人を含む有色人種を家畜化している世界です。そこでは白人崇拝ホワイト・ワーシップは、白人種を神々とした信仰(アルビニズム)に変わっています。沼が「日本人マゾヒストの白人崇拝は、有色人種を白人種の家畜とする空想に、その最終最高の表現を見出す」と述べているように、「家畜人ヤプー」の世界は、白人崇拝ホワイト・ワーシップのエスカレートとして必然的にいきつく世界であり、それをサイエンス・フィクションを使って小説化する力量があったのがたまたま沼だっただけなのです。
 「家畜人ヤプー」は白人崇拝ホワイト・ワーシップの到達点ですが、それを生み出したのは、実現しなかった「白人が支配する日本」と、戦後の植民地独立運動で崩れていく古き良き「白人の支配する世界」への、切なる未練です。ページを開けば、クララ、ポーリン、ドリス、アンナ・テラスといった白い神々の息づかいを感じることが出来る、本物の神話です。マゾヒストには「ヤプー」および「手帖」の愛読者が非常に多いと思いますが、その本当の快楽を真髄を味わえるのは、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーだけだと思っています。これは本当に幸せな事ですね。

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イングリッド・バーグマン(スウェーデン出身)

白人崇拝ホワイト・ワーシップの盛衰

 さて、「奇譚クラブ」が1975年に休刊になった後も、「家畜人ヤプー」は「続編」も含めて日本人のマゾヒストにバイブルとして愛され続けるのですが、肝心の白人崇拝ホワイト・ワーシップは、次第に日本人のマゾヒストの中で廃れていき、少数派になっていきます。戦後の風俗雑誌にはあれほど見られる白人崇拝ホワイト・ワーシップをテーマにした作品は、現在出回っている小説・ゲーム・実写映像作品などの創作物にはごくまれにしか見ることができません。
 ひるがえって私自身は、1980年生まれという現代の世代のマゾヒストでありながら、谷崎・沼の洗礼を受け、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーになってしまいました。白人崇拝ホワイト・ワーシップの快楽を知る者としては、この思想をこのまま絶滅させるのは忍びないと思い、布教に励んでいます。
 もはやもう一度、日本の中で白人崇拝マゾヒズムをかつてのように興隆させることはできないでしょう。しかし、その火を消さずに受け継いでいくことは大事かな、と思っています。
 谷崎や沼は、とりわけ「家畜人ヤプー」という作品は、現在も多くのマゾヒストにバイブルとして愛好されています。彼らが白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーであり、作品にその嗜好が色濃く反映されていることは、たとえ日本から白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーが絶滅したとしても変わることのない事実です。しかし、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーがいなければ、彼らや彼らの作品を真に正しく理解されることもなくなってしまう気がします。女性上位、畜化願望、汚物愛好、トリオリズムなど、その時代に性的嗜好として隆盛を誇っている部分がクローズアップされ、白人崇拝ホワイト・ワーシップの部分は枝葉末節として捨象されてしまう。
そんな恐れを抱いています。
少数であっても、白人崇拝者ホワイト・ワーシッパーの同士が、正しい理解を共有できていければいいと思っています。

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ウィリアム・アドルフ・ブグロー画

続・マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために~白昼夢大作戦

なにをそんなに一生懸命に見ているんだい?
せっかくのコーヒーも飲まずに…
あの店員さんかい?
きれいだねぇ。
ハーフかな?クォーターかな?

そうか、君はさっき、私が先日書いた記事を読んだんだね。
そして、この世界の真実に気づいてしまった。
そうだよ、彼女は貴族ノブレスだ。
そして君は、蛆虫ワームだ。

何をしているんだい?
君は知っている。
彼女は貴族ノブレスで、君は蛆虫ワームだ。
貴族ノブレスと同じ空間に蛆虫ワームが存在しているなんてこと、許されるのかな?
いっそ彼女に殺虫剤で駆除してもらえれば、そんな自責の念に苛まれなくてすむのにね。

何をしているんだい?
君は知っている。
今すぐに彼女の足下に這っていって、床に手と額をついて、項を差し出して、存在の罪の許しを請わなければならない。
顔面をぴったりと床に密着させてね。
それがどんな結果をもたらすかなんて大した問題じゃない。
君はそうしなければならないことを知っている。
それなのにそうしないことが、どれだけ恐ろしい不敬な大罪になるか知っている。
蛆虫ワームが、そんな、貴族ノブレスの視界の範囲内で、そんな、ソファーに座っているなんて。
さあ、行くんだ。

何をしているんだい?
君のグラスの中の冷水が空になっていることに彼女が気づいたら、彼女は冷水を注ぎに来るかもしれない。
そのとき君に「いかがですか?」なんていって、軽くお辞儀なんかするかもしれない。
貴族ノブレスが、蛆虫ワームに。
恐ろしいことじゃないか。

おや、今度は何を見ているんだい?
隣の席のカップルかい?
二人とも美しいねぇ。
そうさ、彼らも二人とも貴族ノブレスだよ。
貴族ノブレスの穢れない聖なる魂が惹かれあうのは当然じゃないか。
二人の調和した美しさは、魂の共鳴の反映に過ぎない。
見惚れてしまうね。

しかし、見惚れていていいのかな?
君は、そう、君は、蛆虫ワームだ。
それが貴族ノブレスのカップルの隣で同じ高さのソファーに腰掛けてるなんて…
恐ろしく不敬なことだよね。

君は知っている。
今すぐにテーブルの下に平伏さなくてはいけない。
見てごらん、ちょうどスペースがある。
君のためのスペースだ。
そのソファーは、貴族ノブレスが座るべきものだ。
さあ今だ。
二人のおしゃべりを邪魔しないようにね。
静かに床に正座して、上体をゆっくり倒して、手と額を床につけたまま這うようにして項を二人の足の間に項を差し出すんだ。
二人はきっと、テーブルの上ではおしゃべりを続けたまま、テーブルの下では君を踏みつけてくれる。
彼のほうが先に君の後頭部に足を載せてしっかりと踏みつけ、君の顔面はぺしゃんこになって床にしっかりと接地する。
あうんの呼吸で彼女の方が君の項に軽く靴を載せる。
それからは、テーブルの上のふたりのおしゃべりのリズムが、二人の踏みつけ圧のリズムを通して、テーブルの下の君にも伝わってくる。
ありがたいことじゃないか。
さあ、今だ。

おや、どうしたんだい?
射精してしまったのか。
さすがは、蛆虫ワームだね。

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マゾヒズムの階級的考察または生きづらい世の中を生き抜くために

美男美女というのは、魂と肉体を分けて認識する心身二元論に立てば「美しい肉体の持ち主」たる資本家ブルジョワジーとしてとらえられる。
美男美女が特権的に所有する資本とは、人を魅し、嘆息させ、一挙一動で自在に快楽も苦痛も与えることができる、圧倒的かつ絶対的な力を伴う美しい肉体である。

美しい肉体を持たずに生まれた無産階級プロレタリアートに罪はないが、後天的な努力ではこれを持つことはかなわない。
無産階級プロレタリアート資本家ブルジョワジーに対しては無力で、抵抗する手段をまったく持たない。
無産階級プロレタリアート資本家ブルジョワジー怨念ルサンチマンの礫をぶつけようとしても、遥か頭上に照り輝く太陽のような資本家ブルジョワジーの美貌の圧倒的な力を前にしては、すっかり怯えて、あわててコソコソと礫を隠すだろう。
資本家ブルジョワジーが天をめぐる月のような瞳の一動でもって行使する無慈悲な力の前には膝を屈するしかないし、咲きこぼれる藤のような腕の一挙でする理不尽な指図の前には、地に額を付いて従うしかない。
無産階級プロレタリアートとは、なんとも哀れではないか。

しかし、魂と肉体が不可分と考える心身一元論に立てば、美男美女はそもそも「人間の格」が違う貴族ノブレスととらえることができる。
その美しさは、高貴で清らかで穢れなく徳の高い聖なる魂が、そのまま肉体に反映されているにすぎないと考えれば、その美しさが持つ力はなにも無慈悲とも理不尽ともいえなくなる。
貴族ノブレスが望むこと、欲すること、思いつくことはすべて正しく、善なのであるから、それが即座に完全に実行されるために、当然に与えられている力である。

同じく心身一元論に立てば、醜い肉体を持ってに生まれたものは、卑しいカルマにまみれたその穢れた魂がその肉体に反映しているのであるから、その考えること、行うことのすべてはいうに及ばず、一分一秒と世に存在していることそのものが許されない蛆虫ワームであり、他の害虫と同様に駆除の対象となるべき存在ということになる。
蛆虫ワームが救われる生き方はただひとつ、貴族ノブレスの慈悲にすがり、全身全霊をノブレスの所有に掛ける奴隷スレイブとして生きることで存在の罪の軽減に勤めることである。
貴族ノブレスが5m移動する際、自らの足で歩く労を省くことに一匹の蛆虫ワームの背中が貢献できたのであれば、その蛆虫ワームがその日一日生きることは許されるであろう。
貴族ノブレスがコレクションする宝石の装飾を好みに合うように少しアレンジする費用を一匹の蛆虫ワームの一年の労働で贖うことができるのであれば、一匹分の蛆虫ワームが一年間生きることは許されるであろう。
駆除されるべき穢らわしい蛆虫ワーム奴隷スレイブとなることで、貴族ノブレスの高貴な魂に奉仕するという紛れもない善行に勤しむことができるのである。
すべては貴族ノブレスの恩恵である。
なんとも光栄で、幸福なことではないか。

鏡を見てみてほしい。
鏡だけが本当の君のことを教えてくれる。
君は醜い。

この醜さは、君の魂の卑しさ、穢らわしさとは無関係なのだろうか。
そう信じるのであれば、君は無産階級プロレタリアートとして資本家ブルジョワジーに対しておかしい、魂は平等なのに、と怨念ルサンチマンを抱きながらもその恐ろしい力に怯え、毎日恐ろしくて憎い資本家ブルジョワジーの足下の地面に両手と額を突く、苦しい生を送っていかなければならない。


しかしもし君が、君の肉体の醜さは君の魂の卑しさ、穢らわしさの反映であることに気づけたら、君が本来ならとっくに駆除されているべき蛆虫ワームであり、今この瞬間も駆除されずに存在していることが許されない罪悪であることに気づけたのなら、救いはある。
君の目に美しく映る人がいたら、その人は高貴で清らかで穢れなく、徳の高い聖なる魂を持った貴族ノブレスだ。
貴族ノブレスは慈悲深い。
君のような蛆虫ワームであっても、貴族ノブレスは所有してくれる。
奴隷スレイブにしてくれる。

ごらん、美しい人がいる。
美しい人の足下に、醜いものが両手と額を地面につけてかしこまっている。
美しい人が差し出された項をしっかりと踏みつける。
醜いものの顔面が押し付けられてぴったりと接地する。
これを資本家ブルジョワジーがその靴底で、足下に這っている無産階級プロレタリアートの項を踏みつけたのだとみると、ずいぶん乱暴な踏みつけ方にみえる。
ところが貴族ノブレスがその靴底で、足下に這っている蛆虫ワームの項を踏みつけたのだとみれば、同じ仕方だとしても、聖なる足を動かして汚らわしい蛆虫ワームに靴底を触れてまで、貴族ノブレスに対する礼儀として顔面をぴったりと接地させてやることで、不敬の罪を購い、さらに魂が穢れるのを防いでやっていると見え、慈悲深いありがたさを感じるではないか。

すべては捉え方次第なのだ。

鏡を見てみてほしい。
鏡だけが本当の君のことを教えてくれる。
君は醜い。
君は蛆虫ワームだ。

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