2ntブログ

マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

谷崎潤一郎全集全作品ミニレビュー 第二巻(旧版)

谷崎潤一郎全集の全作品につき、ミニレビューをつけてご紹介しています。
使用している全集は、中央公論社昭和五十六年初版発行のものです。

マゾヒストにとって特に性的な刺激の強い作品については、チャートを儲け、①スクビズム(下への願望)、②トリオリズム(三者関係)、③アルビニズム(白人崇拝)の三大要素につき、3点満点で、どれだけ刺激が強いかを表示します。また、その作品にどのような嗜好のマゾヒズムが登場するのかを、「属性」として表示します。

三大要素についてはこちらをご参照ください。



恐怖
初出:大正二年一月「大阪毎日新聞」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定:京都
神経衰弱と徴兵検査の経験を元にしたもの。
なお、徴兵検査は無事、不合格となっています。


少年の記憶
初出:大正二年四月「大阪毎日新聞」
形式:短編小説
時代設定:明治二十年代
舞台設定:谷崎の生家(日本橋蛎殻町)他
少年期の他愛のない思い出を綴ったもの。


恋を知る頃
初出:大正二年五月号「中央公論」
形式:戯曲
時代設定:明治二十年頃
舞台設定
待合香川(一種の売春斡旋所、浅草代地)
下総屋(日本橋馬喰町)
登場人物
伸太郎
おきん
利三郎
伸太郎・おきんの父:下総屋三右衛門
おきんの母:おすみ(三右衛門の妾)
伸太郎の母:お政(三右衛門の正妻)
伸太郎の乳母:おしげ
スクビズム★★★
トリオリズム★★★
アルビニズム☆☆☆
属性男児と年上の少女、侍童願望(お使い)、悪女、足、血、殺人、死体陵辱、人間椅子、カップルへの奉仕、カップルの幸福の犠牲になる

これは「過激度」でいえば谷崎作品の中でもベスト5には入る作品。超危険です。
個人的にも大好きな作品。
ポイントは二つ。

一つは、十二三歳の少年、伸太郎の、異母姉:おきんに対するあまりにも純粋な思慕と、自分が幸福を掴むために伸太郎を殺害するおきんの冷酷さ、この見事な対比です。
思春期にさしかかる直前の少年が、ハイティーンの美少女を見上げ、密かに憧れる気持ち。男にとって最初の絶対者である母がなんだか疎ましくなり、代わりに心を支配する若く美しい新たな絶対者。この初恋の純粋な想いが、あらゆる人間の感情の中で一番美しいものかもしれません。
伸太郎は、おきんが恋人の利三郎と共謀して、自分を殺そうと計画していることを知っているんですね。どの時点で知ったかは定かではないんですが、殺される前までには確実に知っている。それでもなお変わらずおきんを慕って、「僕はお前が死ねと云へば、何時でも死ぬよ。」なんて言うんですね。「いじらしい」なんてレベルじゃありません。
一方のおきんは、そんな弟の気持ちを知っていながら、淡々と殺害を計画し実行します。そこには、愛情や同情はおろか、憎悪も、加虐願望サディズムもないんですね。ただ、妾の娘である自分が下総屋の令嬢として扱われ、利三郎と幸せになる、そのためには正妻の子である弟が邪魔だから殺すだけなんですね。落ちている物をどかす、積もっている埃を吹き払うような感覚です。おきんにとっては伸太郎はプラスの感情もマイナスの感情もない、まったく無価値の「物」なですね。
この完全に完璧な感情のワンサイド・ゲーム。危険なほどに美しい片恋物語です。

もう一つのポイントは、上位者のカップルが睦んでいる最中に下位者が下から奉仕する、トリオリスムとスクビズムの絶妙なミックスです。これをやらせたら谷崎の右に出るものは絶対にいません。
三つの場面を紹介します。
①おきんが利三郎と「内緒話」をしている最中、怪我をして出血したおきんの足の手当てを伸太郎がするんですね(沼正三の分類で言えば、スクビズム第二類型+第四類型)。伸太郎の切ないときめきがぐっと胸に迫ってくるような場面です。さて、このとき、おきんと利三郎は何の話をしているんでしょうか?どう考えても、足元に跪いている少年の殺害計画を話し合っているとしか思えない…。やばい、やばすぎる…。
②おきんが伸太郎に、利三郎へ手紙を渡す「お使い」を命じ、それを受け取った利三郎は、折り返しおきんへの返事を届けるようにまた伸太郎に命じます(スクビズム第五類型)。おきんと利三郎が日常的に伸太郎を侍童として使っていることがうかがわれる場面です。「ラブレターを届けさせる」というアイデアは、ザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』にも登場しますよね。さて、このとき、手紙には何が書いてあったんでしょうか?どう考えても、手紙を運ばせた少年の殺害計画が書いてあるんですね。やばいでしょう、やばすぎるでしょう…。
③最後の場面。おきんと利三郎が伸太郎を殺害した後、死体を行李こうり(旅行鞄のようなもの)に詰めるんですが、その後、ほっと一息ついて行李の上に二人して座るんですね(スクビズム第一類型)。おきんは利三郎に寄り添って、「こんな悪事をしたからには、一生私を見捨てないでおくれ。」なんていって甘えるんです。…もう何もいえません。
三つの場面に共通するんですが、おきんと利三郎が伸太郎の人格、尊厳を徹底的に無視しているんですね。最後の場面も、あえて死体を陵辱しようという意図はない。ただ、腰を掛けるのに行李がちょうどよかったから腰掛けた、本当にただの椅子なんですね。ここにこそ、戦慄するほどの切ない快楽を感じます。

それにしても、こんなやばい戯曲、上演されたことがあるんでしょうか…。


熱風に吹かれて
初出:大正二年九月号「中央公論」
形式:中編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
京都・先斗町ぽんとちょう
春江の家(神田同朋町)
小田原早川の宿
大田原の家(築地本願寺近辺)
登場人物
玉置輝雄
梅龍
春江
齋藤
英子
小田原早川の人々(藤田夫妻、鈴木夫妻、末松)
スクビズム★★☆
トリオリズム★★☆
アルビニズム☆☆☆
属性逆ハーレム、愚弄、巨女、寝取られ

主な舞台は海を目前にした小田原早川の宿。季節は夏。めずらしく健康的な強い日差しの下で繰り広げられる物語です。
この小田原早川の宿に、駆け落ちした齋藤と英子のカップルが暮らしているんですが、美しくて天真爛漫な英子の周りには、いつも彼女の崇拝者ファンが取り巻いているんですね。その輪の中に、主人公の輝雄が加わるんですが、この構図はおそらくツルゲーネフの『はつ恋』をモチーフにしてるんじゃないかと思います。『はつ恋』のジナイーダ・アレクサンドロヴナ・ゼセーキナ公爵令嬢、みなさん大好きだと思いますが(分かってますよ、私には)、本作の大田原英子嬢も、それに負けず、自分に媚びる崇拝者ファンたちをみくびって玩具にして無邪気に遊ぶ、夏の太陽のような魅力的なヒロインです。
ちょっとだけ引用します。

「ふん、驚いたわねえ。」と、英子は首を縮めて、あごの下へてのひらを持ってきて、よだれを受けるような真似をした。此れは彼の女が人を冷やかす時に、よく用いる癖であった。


さて、本作の結末は輝雄が齋藤から英子を奪い、結婚の約束を取り付けたところで終わっています。
…しかし、この後、英子が齋藤ときっぱり別れて、輝雄と結婚して幸せに暮らしました…となるんでしょうか。どうも私にはそうは思えない。小田原早川の宿で、英子と齋藤が夜な夜なしていた相談、これが怪しいんだよなぁ。それから輝雄に齋藤から英子を奪うようにけしかけた末松。こいつも怪しい。だいたいなんで最後、齋藤を捨てると決めたはずの英子があんなに急いで小田原早川の宿に戻る必要があったのか。なんか怪しい。もしかして英子と齋藤は輝雄をだまして輝雄の家の財産を手に入れようとしてるんじゃないか、末松はその手先なんじゃないか、と勘ぐってしまいます。
そう勘ぐりたくなるような、こんな伏線も張ってあるんですね。
輝雄がいよいよ結婚の談判に照子の家に行く時、鏡で自分の容貌を見た輝雄の感想です。

団栗どんぐりのように円い、濁った眼、ところどころに紅い斑点の出来た黄色い頬、無頼漢ごろつき染みた太い頸筋けいきん――鏡に映るすべてが、野卑で、凡庸で、到底瀟洒しょうしゃとした齋藤の美しさに及ばない事を発見したとき、彼は今更自分の肉体を呪いたい程に口惜しかった。


輝雄はここに至るまでにさんざん齋藤の頭の悪さ、生活能力のなさを馬鹿にし、「なんであんな奴が英子と」と思っているんですが、いざ、という時に、自分と齋藤との間に存在する決して越えることのできない壁に気づいてしまうんですね。確かに輝雄の家には財産もあり、将来も洋々としている。しかし、本当に英子に愛される資格があるの誰なのか。このときに輝雄自身が気づいてしまった、そんな気がしてしまうのです。


捨てられるまで
初出:大正三年一月号「中央公論」
形式:長編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
銀座
芝浦
幸吉の下宿(神田駿河台)
三千子の家(芝)
登場人物
山本幸吉
三千子
杉村
三千子の義姉
スクビズム★★★
トリオリズム★★☆
アルビニズム☆☆☆
属性女性化願望、召使願望、幼 児退行願望、寝取られ

本作と『熱風に吹かれて』はまるで対をなすかのようです。
舞台は夏の小田原と対照的な冬の東京。
そして太陽のようなヒロイン、英子と対照的に、本作のヒロイン三千子は月のように清らかで上品な美しさです。
本作については、作品論を書きましたので、ぜひお読みください。

谷崎のスクビズム(3)―『捨てられる迄』論~堕ちていく快楽、委ねる快楽



憎念
初出:大正三年三月「いらか
形式:短編小説
時代設定:明治二十年代
舞台設定:谷崎の生家(日本橋蛎殻町)
登場人物

安太郎(丁稚)
善兵衛(手代)
これは、谷崎が少年時代を回想する非常に短い短編なんですが、谷崎のマゾヒズムを考える上で極めて重要な作品ですね。
幼い「私」は、醜い丁稚の安太郎を、ただ醜いという理由だけで、それはそれは恐ろしく陰湿な方法で虐待して楽しみ、悪びれもしません。
この作品でいう「憎しみ」「憎悪」とは、「醜いものに対する生理的嫌悪」およびそれに起因する「加虐願望」なんですね。
少し大きくなると、「私」は、新参の女中をかわいがる一方、古参の女中を虐待したりします。これはもう『恋を知る頃』の世界そのまんまです。
谷崎の価値観は徹底した「美尊醜卑」の秩序に基づいていますが、もしかしたら、「美しいものへの憧れ」よりも先に、「醜いものへの嫌悪」が先にあったのかもしれません。そのときにはまだ自己認識が未発達で、「醜いもの」といえばもっぱら安太郎のような他者だった。そのため、他者への加虐願望=サディズムが発露したのでしょう。
それがやがて思春期にさしかかり、異性の美しさと、自己の醜さを意識するようになり、自己への加虐願望=マゾヒズムへと変化していったのではないでしょうか。


春の海辺
初出:大正三年四月号「中央公論」
形式:戯曲
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定:鎌倉長谷海岸の別荘
登場人物
三枝春雄
梅子(春雄の妻)
静子(春雄の娘)
千代子(春雄の妹)
雪子(梅子の母)
吉川
スクビズム★★☆
トリオリズム★★★
アルビニズム☆☆☆
属性寝取られ(不倫)

不倫をゲームのように楽しむ梅子と吉川。妻の機嫌を損ねるのを恐れ、それを黙認する春雄。華やかな勝者と惨めな敗者の対比が見事です。春雄の梅子に対するいじらしい服従宣言を聞いてあげてください。

おれは自分の為めにお前の行動を束縛したり、干渉したりする気はないんだよ。己はお前を心の底から信用して愛して居るよ。お前に不満足を与へたり、不自由を与へたりすれば、己だってやっぱり好い気持ちはしないんだ。お前がしたいと思ふ事は何でもするがいヽ。好きな人ならいくらでも交際するがいヽ。ただ己がどのくらゐお前を愛して居るか、それさへ解ってくれヽば、別に何も云ふ事はない。
己を幸福にするのも、不仕合はせにするのも、みんなお前の心一つにあるんだ。お前は己を殺す事も生かす事も出来るんだ。


春雄の妹:千代子は、梅子の不貞を執拗に追及するんですが、上記の春雄の口上を立ち聞きして、追及をぱったりとやめてしまうんですね。この千代子の態度の変化は、せっかく自分が兄のために憤慨しているのに、あくまで妻に頭をたれる兄に呆れた、あるいは兄を見捨てた、ともとれるんですが、もしかしたら、兄の「本当の幸せ」がなんなのかを悟り、それを尊重することにした、ということなのかもしれません。


饒太郎じょうたろう
初出:大正三年九月号「中央公論」
形式:長編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
饒太郎の家(江東区深川)
信託会社(中央区八重洲)
帝国劇場(千代田区丸の内)
蔵座敷(中央区築地)
松村の待合(中央区日本橋浜町)
饒太郎の実家(台東区浅草鳥越)
登場人物
泉饒太郎
庄司
松村
蘭子
ぬい
スクビズム★★★
トリオリズム★★★
アルビニズム★☆☆
属性奴隷願望、殺人、愚弄、貴婦人崇拝、ビンタ、CFNM、緊縛、鞭、鎖、足、麻酔、放置、羞恥、悪女、財産貢ぎ、年下美男美女カップルへの奉仕、寝取られ、捨てられ、西洋崇拝

彼は生来の完全な立派な、さうしてすこぶる猛烈なMasochistenなのである。


…だそうです。「いや…知ってますけど?」って感じですよね。
こんなことも書いてますよ。

彼の所謂いわゆる文学なるものは、奇怪なる彼の性癖に基因する病的な快楽の記録に過ぎない。


私がこのブログで伝えたいこと、あっさり自分で書いちゃってますね。本作は本当にすごいです。絶対にこれは読んでほしい。到底ここでは語りつくせないので、いずれ近いうちに作品論を書かなければと思っています。
これは谷崎が自分のマゾヒズムをほとんど余すところなくぶちまけている告白の書です。内容は概ね「理論編」と「実践編」に分かれていて、「実践編」の時間進行に絡めて、「理論編」が語られます。

この「理論編」がとにかくすごいんです。被虐願望の自覚、幼少期から思春期いたるまでに耽った様々な妄想、「クラフトヱビング」を読んだときの衝撃、自らの性癖を文学にするという立志、そして、当時の日本における「実践」の難しさ。すでに文壇に地位を確立した人が、よくぞここまで書いたと思います。

「実践編」では、驕慢な未亡人の蘭子を、暴君的な女性に仕立て上げようとしますが、しだいに蘭子の従順な性質が現れてきて失敗します。そこで今度は、待合から紹介された不良少女のお縫を標的にします。これが大成功。饒太郎の見込んだとおり、お縫は饒太郎の願望どおりの女性だったのです。饒太郎は自宅の西洋館で毎日毎日お縫に虐待されることで、願望をかなえます。
ところが、これでは終わらない。お縫は恋人の庄司(豪商の跡取りで美青年、饒太郎の後輩)を、饒太郎との関係に引き込んでしまいます。かくして、饒太郎は、「理論編」では語られなかった、まったく新しい快楽、トリオリズムの扉を開けてしまうのです。

饒太郎はふと眼を覚ました。彼はいつもの通り自分の四肢を縛られて、仰向けにかされて居る事に心付いた。我に復った一二分間、しきりにぱちぱちと眼をまたたいて居たが、やがてぱっちり瞳を据ゑると、ほとんど自分の顔の真上に二つの顔があるのを見た。あの青年と娘が、むつまじさうにソオフアへ腰掛けて、自分達の足元に打ち倒された彼の姿を眺めて居る。


本作を読むと、一言一句があまりにも私の思考と一致しているので、ついこんな傲慢なことを考えてしまいます。
「今まで谷崎作品に本格的に触れた人が何万人いたか知らないが、私以上に本当の意味でこの作家を正しく理解した人がいるんだろうか。」
これ、結構本当の本気で思っています。ネットスラングでいう「お前は俺か」という感覚ですね。


金色こんじきの死
初出:大正三年十二月号「東京朝日新聞」
形式:中編小説
時代設定:現代(大正初期)
舞台設定
第一高等学校(本郷)
岡村の邸(箱根)
登場人物
「私」
岡村
スクビズム★★☆
トリオリズム☆☆☆
アルビニズム★★☆
属性美尊醜卑、馬、生体家具(人間池、人間寝台)、女神崇拝、人魚、ファンタジー、西洋崇拝、ブロンド崇拝

谷崎作品では、外界から遮断された空間が創られ、その中でマゾヒスト男性の願望がかなえられる、というパターンが非常に多いです。『少年』の「塙の屋敷」、『饒太郎』の「西洋館」、『富美子の足』の「塚越の家」と「七里ガ浜の別荘」などなど。男の願望を邪魔する法令や常識などの外界の秩序が入り込まないこの空間を、私は「スクビズムの楽園」と呼んでいます。この空間の中では、「醜いものは美しいものに絶対服従する」という外界とはまったく異なる秩序が形成されています。この空間に入れるのはこの秩序に従うもののみ。そして、空間内にいるのは決して一対の男女だけとは限らず、三人以上で小さな小さな「社会」が作られているケースも多いです。
この谷崎の「閉じた楽園」は、全人類・全宇宙を組み込んだ「開かれた楽園」=「百太陽帝国EHS」を創り出してしまった沼正三との、最も対照的な特色といえるのではないでしょうか。
しかし。私は、谷崎の頭の中には、「開かれた楽園」のイメージがあったのではないか、ただ、時代状況が許さなかったために、描くにはいたらなかっただけなのではないか、と考えています。というのも、一部の作品に、「開かれた楽園」の一端が垣間見えるのです。本作もその一つです。

本作に登場する「私」と岡村は、それぞれ谷崎の「現実」と「理想」を体現しています。「私」は文筆業で地道に成功します。一方、美青年で、ナルシストで、美意識が高く、富豪の息子である岡村は、とうてい常人では思いつかない芸術を創作します。岡村の創作は、箱根の盆地に二万坪の土地を購入し、全財産を投じてそこに建設した楽園です。これは、別に人に見せる目的はありませんので、非公開です(つまり、一応一般社会とは隔絶している)。
そこには、豪華絢爛な建築庭園に古今の有名な彫刻が建てられています。そして、女神や、人魚や、「ニムフ」や、「ケンタウル」や、「半羊神フオオン」や、「羅漢菩薩らかんぼさつ」や、「悪鬼羅刹あっきらせつ」が闊歩しています。それらは皆美男美女が扮しており、もちろん女神や人魚や「ニムフ」の役は、金髪碧眼の白人女性です。こんな描写もありますよ。

最後に私達は、人間の肉体を以って一杯に埋まっている「地獄の池」の前に出ました。
「さあ、此上を渡って行くんだ。構わないから僕の後へ付いて来たまへ。」
かう云って、岡村君は私の手を引いて、一団の肉塊の上を踏んで行きました。


此の宮殿の女王と云はれる一婦人が、錦繍きんしゅうとばりの奥に、四人の男を肉柱とした寝台に横たはって居る有様も見せられました。


私はこの「岡村の楽園」、あまりにも『家畜人ヤプー』のイメージに近くて少し笑ってしまいます。(谷崎が沼に与えた影響を否定する人はいないでしょうが、私は、「沼正三の構成要素の80%は谷崎潤一郎、20%が敗戦・占領体験」くらいに考えています。)


つや殺し
初出:大正四年一月号「中央公論」
形式:中編小説
時代設定:江戸時代
舞台設定
駿河屋(橘町)
清次の船宿(深川)
川長(料理屋、柳川)
大川端
金蔵の家(業平町)
尾花屋(深川)
鳶屋(お艶の新居、深川)
芹澤の邸(向島)
登場人物
お艶(染吉)→
新助
清次→
清次の妻→
三太→
金蔵
徳兵衛→
芹澤(旗本)
スクビズム★★☆
トリオリズム★★☆
アルビニズム☆☆☆
属性悪女、殺人、死体陵辱、寝取られ

江戸時代末期、どんどん退廃的になった江戸文化のなかで、女が男を騙し、翻弄して、駆落ち、売春、殺人、などを繰り返す「毒婦もの」と呼ばれる歌舞伎講談が流行したようです。本作はそれをイメージしたものと思われます。谷崎は西洋的、貴族的な舞台設定を好む一方で、こういう退廃的な江戸文化も愛していました。
ヒロインのお艶は、周囲の男性を魅了して、破滅させながら成功をつかんでいくシンデレラストーリー…にも見えるし、豪商の令嬢だった境遇から状況に流されて堕落していく物語、見方によってどちらのようにもの見えるんですね。谷崎はたぶんどちらも好きなんだと思います。ただ、結末…お艶は旗本の美男子:芹澤と共謀して新助を殺し、旗本の妻として幸せに暮らしましたとさ…でいいじゃん!


懺悔話
初出:大正四年一月号「大阪朝日新聞」
形式:短編小説
時代設定:現代(大正初期)
高貴な未亡人との一晩の思い出。『秘密』に出てくる未亡人や、『饒太郎』の蘭子とそっくりです。モデルがいるのかな?

それにしても、本巻だけでトリオリズムの星が15個!まさに大正初期は谷崎にとってトリオリズムの時代といっていいでしょう。


関連記事

タグ : マゾヒズム谷崎潤一郎沼正三家畜人ヤプーある夢想家の手帖から寝取られ三者関係白人崇拝美男美女崇拝饒太郎

« リンク詳細|Top|沼正三のスクビズム(2)―『手帖』第一三八章「和洋ドミナ曼陀羅」~ドミナを選ばば曽野綾子 »

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://victoryofwhite.blog.2nt.com/tb.php/21-9f027f5c

Top

HOME

このブログをリンクに追加する