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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

父の車で 2/3

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母は次第に外泊が多くなり、たまに若い男性を家に連れてくるようになった。
父は母を車で恋人の家に送っていったり、母の恋人を車で迎えに行ったり、母と恋人のデートに父が運転手としてついていったりしていた。
一人家に残された私は、美しい母と素敵な恋人との華やかでロマンティックなデートに同行できる父がうらやましくてしかたなかった。
事実、父は母を送って帰ってくると、のぼせたような陶酔しきった顔をしていて、「母さん綺麗だったなぁ、彼氏もかっこよくて、夢みたいだった」なんて言ってまるで自分がデートしたかのようだった。

ある日母は、リビングのソファーに腰かけて、父と私を正座させた。
母は数時間そのまま、テレビを見たり雑誌に目を通したり、コーヒーを飲んだりしていた。
父と私は改めて母の美しさを見せつけられる思いだった。
その後母は雑誌に目を落としたまま言った。
「あなたたち、私が自由に恋愛すること、どう思う?」
父が答えた。
「もちろん全面的に協力するよ」
私も負けじと答えた。
「僕も母さんが若い男の人とデートしてるとうれしい」
「ふん、でもね、やっぱり私にとってはあなたたちがいること自体が私の恋愛の妨げになるの。男の人はどうしても既婚で子持ちだと敬遠するから」
「あなたたちがいなければ私はもっとモテるし、もっと自由にいろんなことができるし、例えばデートしてるときに、私はあなたたちのことなんか忘れて楽しんでいるけど、相手が「ご主人やお子さんはいいんですか」って、なんか気を使わせて悪いなーって」
「だから私、もう一回完全に自由になってやり直したいの。」
父と私はガクガク震え、むせび泣いた。
なんで泣いているのか、母に疎まれる悲しみ、捨てられる恐怖、そんなことよりも、自分たちが母の幸福の妨げになっていたことに対する申し訳なさがあふれでて、「ごめんなさい」とも「すいません」とも「許してください」とも言えずにただ泣きながら、母の足下の床に手と顔をつけた。
母はまた雑誌を見たり、友達と電話で話したりしてた後どこかへ言ってしまったが、父と私はその姿勢のまま泣き続けた。
そして気づくと、私はそのとき生まれて初めて性器に触れずに射精していた。
これが、父と私が初めて母の足下に土下座したときだったが、その後は、次の日の朝のあいさつから、土下座が父と私の、母に対する「基本姿勢」になった。

父と私の存在が、母の「完全な自由」の妨げになっている、これを父と私は「原罪」と名づけた。
母が父と私を捨てれば、原罪は将来に向かって贖われる。
母がそれをしないでくれていることは母の慈悲であり、恩寵である。
父と私が母の足下にまとわりつく限り、父と私は母に対して原罪の赦しを乞い続けなければならない。
これを姿勢で表すのが土下座であり、行動で表すのが母への服従・奉仕である。
原罪を意識すると、そこから父と私の母に対するたくさんの「罪」が見つかった。
土下座しても父と私の頭部を母の履物よりも下に、本来の位置にもっていくことができないのは「非礼」、本来はすべて母のために使われるべき父の給与や配当の一部を、父と私が生活費として使ってしまうのは「横領」ととらえた。
とてもとても贖いきれない原罪は、いずれ父と私が母に捨てられることで贖われなければならないことはわかっていながら、その日を一日でも延期しようと、母の慈悲にすがった。
父と私は母の命令には即座に完全に服従すること、全身全霊をもって母の生活と行動に奉仕することを誓った。

それからの日々は本当に夢のようだった。
母は父と私に話しかけずに用を命じた。
右の掌を踏みつけたら買い物、左の側頭部を蹴ったら送迎、といった具合に。
こうして母が父と私を完全にモノとして扱うことで、母の恋人や友達のなかには、父と私が部屋に平伏して侍っていても、気兼ねしない人がでてきた。
父と私が下に裸で平伏しているソファーやベッドで母が恋人と愛を営むこともあった。

一番楽しかったのはお使いゲームだ。
母は近所の一人暮らしの美大生と仲良くなった。
すごくさわやかでおしゃれでかっこいい人だった。
母の恋人はモデルや派手なお金持ちが多かったが、その彼は気まぐれでかわいがっていたみたいだった。
彼のほうは母に夢中で、ファンみたいな感じだった。
母はその彼に週に2、3回会っていたが、父と私は母の命令で毎日彼の部屋に行き、家事をした。
彼の部屋の合鍵をもらい、留守中でも入って食事を届け、丁寧に掃除をし、家で洗濯した衣類やシーツを届けて、汚れ物を持って帰った。
彼の工房は別にあったが、部屋の中も美大生らしく、いろんな画材が几帳面に整理しておいてあった。
そして、母が載った雑誌の切り抜きや、彼自身が描いた母の絵が貼ってあった。
母の恋人や友達に対する礼儀は母に対するものと同じだ。
彼の靴を磨く前には彼の靴に向かって、ベッドルームに入る前にはベッドに向かって、汚れ物を籠に入れる前には脱ぎ捨てられた一つ一つの下着類に向かって土下座をしたし、便器を磨く前にも同様だ。
その日の家事を丹念にできたかどうか、母に報告するために、彼に"サイン"をもらう必要があった。
"サイン"はタバコの火を押し付けた火傷の痕だった。
家事の出来栄えに対する満足度に応じて痕をつけてもらえた。
彼は父と私に用を言いつけては、チップを支払うような感覚でタバコを裸の体の適当なところに押し付け、"サイン"をしてくれた。
彼がタバコをポンポンとするのは、用を言いつける合図だった。
父と私にとっては、体中に"サイン"が増えていくのを母に見られるのが、何よりも嬉しいのだと彼も分かっていた。
父と私はそれぞれポケットベルをもって、そこには母からも、母の恋人や友達からも命令が入った。
ポケットベルに命令が入ったときはもう飛び上がるくらいうれしかったが、一番頻繁に命令をくれたのもその大学生の彼だった。
母と彼がたまに気まぐれに、電話やポケベルを使わずに私を使ってやりとりをしてくれるのがお使いゲームだった。
私が彼の部屋に食事や品物を届けると、彼がルーズリーフに1行か2行、母へのメッセージを書き、私はそれをダッシュで母の元に届け、母はそのルーズリーフに2、3行返事を書き、私はまたダッシュで彼の部屋に届ける…これを5往復くらいしたのが最初だった。
電話やポケベルをつかっても済むような話を、わざわざ私をつかってくれたのが本当にうれしかった。
もちろん、恋文の内容を読むなんて畏れ多いことができるはずもないが、自分が母の恋愛の「手段」になっていることが嬉しくてたまらなかった。
グラスに入ったワインを、母と彼が交互に一口づつ飲むのを、往復して届けたときもあったが、そのときはトレイに乗せたグラスからワインがこぼれないようにするのに必死だった。
あるとき、私を使った母と彼の恋文のやり取りが盛り上がって、母の番になってルーズリーフがいっぱいになったようだった。
私が届けたルーズリーフを受けとると、彼はしばらく考えている様子で黙っていたが、やがて足下に裸で平伏している私の頭頂部をポンと蹴り、「頼むわ」と言って、ハンガーに掛かったワイシャツを指差した。
私は慌ててアイロンを用意し、丁寧にワイシャツのしわを延ばす作業にかかった。
全裸なので、アイロンの温度を生々しく感じる。
彼は机に向かい、しばらくは壁に貼った母の写真や絵を眺めたり、時折視線を私の方へ向けているようだったが、やがてなにやら余念なく作業を始めた。
ペンを走らせる音に続いてチキチキチキとカッターの刃をずらす音。
しばらくして彼は独り言のように呟いた。
「俺さ、親いないんだ」
これから行われることがなんとなくわかった私は、ワイシャツをハンガーに掛けたあと、アイロンの温度を210℃にしたままスタンドに戻してテーブルの上に載せ、そのテーブルの下に平伏した。
やがて私の背中にボール紙のようなものが置かれ、続いて、タバコの"サイン"をもらっているときとは比べ物にならない激痛に襲われた。
ルーズリーフの最後に書かれた母のメッセージは、「続きはこの子に書きましょう」といった類のものだったのだろう。
私をルーズリーフの代わりにするのだが、その方法は彼に委ねた。
母を喜ばせるロマンティックなサプライズを考えるのが彼の役割だ。
タバコを押し付けた火傷をたくさん作って「点描」にすることも考えられたろうが、工房で作ったメッセージ入りのアクセサリーを母にプレゼントしていたりしていた彼が考えたのは、台紙に書いたメッセージを切り抜いて型をつくり、型の上からアイロンを押し付けて、メッセージの焼き印をする方法だった。
作業が終わると、彼は厚紙の端に何か走り書きをして私に渡した。
私はそれを抱えて猛ダッシュで家に帰って母に渡し、ソファーに腰かけた母の足下に裸で平伏した。
母は彼のサプライズに満足したことだろう、上機嫌で私の後頭部をスリッパでグリグリと踏みつけながら、厚紙にペンを走らせた。
書き終えると母は私の頭頂部をポンと蹴って、台紙をまた彼の元へ届けさせた。
彼は厚紙を受けとると机に向かって作業を始めたので、私はアイロンを加熱しようとすると、彼は「いやいや」と言って笑った。
彼は型を作り終えると私に渡し、また家に走らせた。
母の書いたメッセージは、母が焼くのだ。
期待で心臓が破裂しそうだった。
型を受けとると母は念のため、まず父の背中使って2回「試し焼き」をした。
(あるいはこれも、父の祈るような願望を感じとった母の慈悲なのかもしれない。)
その後私に「本番」の焼き印をした。
数日後、彼の誕生日に彼の部屋で、母と彼の共同作業によって私の背中に「仕上げ」の焼き印が押された。
母と彼は食後のコーヒーを楽しみながら、テーブルの下に平伏した私の背中と、彼が厚紙に書いた下書きを見比べて、あれこれデザインしているようだった。
背中に台紙の上からアイロンが押し付けられている数秒間、頭上に母と彼が唇を吸い合う甘酸っぱい音が聞こえ、激痛を忘れる思いがした。
例え自分の体に刻まれたものであっても、それは母と彼の交わしたメッセージであり、ルーズリーフの代わりである私が読むことなど畏れ多くて出来なかったが、父の背中に試し焼きされた母からのメッセージはどうしても目に入った。
「You're My Boy」
これを見て胸はキューンとときめいた。
この「Boy」が自分のことであったらどんなにかうれしいのに、自分の体に刻まれている「Boy」は、あの美しい青年なのだ。
ずーと後になって、鏡を合わせて背中のメッセージの全貌を見た。
彼からのメッセージは、
「I'm Your Boy」
それぞれメッセージの横に彼と母のイニシャルがあり、2つのイニシャルをかっこよく歪んだハートマークのリングが繋いでいた。
イニシャルとハートのデザインは、仕上げに押されたものだろう。
母にとっては、2つの「Boy」はもちろんどちらも、彼のことだ。
私は彼との記念を刻んだルーズリーフの代わりに過ぎない。
しかし、今では彼のメッセージの「I'm Your Boy」には、彼の芸術家らしいお洒落でアイロニックなダブルミーニングが込められているのではないかと思っている。

続き

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