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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

『無明と愛染』の二次創作

谷崎潤一郎の戯曲『無明と愛染』の二次創作です。
沼正三『ある夢想家の手帖から』第三章「愛の馬東西談」で紹介されている「アリストテレスの馬」をfeatureしています。


時 南北朝の頃
所 ある山奥の廃寺

舞台暗闇。突然、酔いしれたような若い女の高笑いが響く。



愛染の声 あはははは、これ、太郎どの、御山のひじりが馬になりおった。馬じゃ、馬じゃ、畜生じゃ。あはははは。

舞台明るくなる。古びた寺の本堂の奥の間。中央に上人しょうにん(四十前後の痩せた僧侶)が両手両膝をついて四つん這いになっている。その背中に、色香のなまめかしい愛染あいぜん(三十路過ぎの遊女。無明むみょうの太郎の愛人)が、上臈が着るような美しい着物を着て、腰をかけている。



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愛染 太郎どの、奥の間へ来て見てやらぬか。あの法師が四つ這いになって、喜んでわらわに乗られておるわ。早う太郎どのも一緒に乗ってやるがいい。

奥から襖を開き、無明の太郎(名高い山賊、髭をぼうぼう生やした、体つきの逞しい男)、続いて楓(太郎の妻、哀れなみすぼらしい姿)が入ってくる。様子を見て、太郎はあっけにとられる。楓は情けない声を上げてその場に泣き崩れる。



太郎 これは、いったいどうしたことだ。
愛染 どうもこうも見てのとおりじゃ。此奴こやつは、妾の馬になったのじゃ。言うたじゃろ。妾の手にかかれば、こんな梵論字ぼろんじ奴、造作もなく攻め落としてやると。やい畜生法師、お前は今何じゃ?太郎どのに教えてやれ。
上人 はい、私は、今は愛染明王みょうおうの馬畜生でございます。
太郎 上人、おぬしは、御山で教えを極めて、本物の法力を備えた聖であろうが。いかに迷うて、今更女の馬に何ぞなり下ごうたんじゃ。
愛染 (上人の背中に腰掛けたまま)ほれ、馬畜生、どうした。太郎どのに教えて進ぜよ。
上人 はい、私は、俗世にいる頃、やんごとなき姫君でいらっしった愛染明王に懸想し、毎日毎日恋文を書きましたが全て袖にされ、全てを忘れるために高野の御山に参りました。そこで修行に修行を重ね、ついに法力を会得し、一乗院の住職になったのでございます。しかし、心の中でいつも拝んでいたのは、神々しい愛染明王のお姿でした。そこな観世音の像も、愛染明王を懐かしみ、愛染明王のお姿に似せて造ったのでございます。今日この古寺の門を叩いたのも、きっと偶然ではなく、私が愛染明王を慕う気持ちが、自然にここに足を向けさせたんでしょう。私は愛染明王を一目見たときから、すぐに足元に身を投げ出して拝んでしまいたいと思うのを一生懸命に我慢していましたが、こうして奥の間で愛染明王と二人になると、もはや我慢はできず、愛染明王、愛染明王、どうか迷える私を導いてくださいと、這い蹲ってお願いをしたのでございます。すると、愛染明王は私に四つ這いになるよう命ぜられたのでございます。私はすぐさま四つ這いになりました。愛染明王は私の背に腰を掛られました。愛染明王の体が私の背に乗って、暖かい重みを感じたとき、私は悟ったのでございます。これこそ涅槃ねはんであると。私は自分の本質を発見したのでございます。私が今、何者であるか、それは、愛染明王の意思それだけが決めているのでございます。愛染明王が土間に伏せよといえば、直ちに蟇蛙ひきがえるのように土間に伏せます。地を這えといえば、直ちに蟲螻蛄むしけらのように地を這います。今は、さきほど、四つ這いなれと言われたままでございますので、私はこうして馬になって四つ這っているのでございます。
愛染 あはははは、そういうことじゃ、太郎どの。妾は此奴の仏になったのじゃ。私が命を解いて、次の命令をするまで、此奴は永久でもここに四つ這っているのじゃ。太郎どのも此奴の背に乗るのじゃ。此奴は人の尻に教えを請い、背で悟りを開く畜生法師じゃ。そなたも、此奴に教えを施してやるのじゃ。
上人 太郎どの、どうか、この畜生の背に乗ってくだされ。今、愛染明王が太郎どのに私の背に乗れといった、そのときからもう、私の背は太郎どのに乗ってもらわずにはいられないのでございます。
太郎 あはははは。よくわかった、気狂い上人。おれもおまえに教えを説いてやろう。どうじゃ。

太郎、上人の背を跨いで乗る。愛染、満足そうに太郎に凭れ掛る。



愛染 太郎どの、明晩にも此奴を高野の御山に行かせて、此奴が住職をしている寺から金目のものを全部持ってこさせよう。それから、家にいるときは、此奴を召使にして楓の手伝いをさせよう。それから、あんたが仕事をするときは、此奴を子分にするといい。
太郎 ふん、そりゃいいが、此奴に殺しや盗みの手伝いができるのかい。
愛染 どうなんだい、畜生。
上人 はい、世の中でなにが正しいとされているか、なにが邪悪とされているかなどということは、もう私には関係ありません。私は愛染明王に帰依したのでございます。愛染明王が、私の仏になったのでございます。私の経典は愛染明王のことばでございます。愛染明王が命ずること、愛染明王が思うこと、愛染明王が欲すること、これが私にとっての正しいことでございます。ゆめゆめ、その是非を逡巡するなどという畏れ多いことは思いません。私は意思も、迷いも、拘りも、誇りも、全て捨てたのでございます。いいえ、捨てたと申しますよりも、先ほど背に愛染明王を乗せたときに、すぅと、何の苦もなく、それらのものが消えていったのでございます。これこそ、涅槃でございましょう。私にとって八正道とは、愛染明王の道でございます。正しく見るとは、愛染明王の仰せの是非に一切の疑いを挟まない盲目でございます。正しく思うとは、常に愛染明王を恋い慕い、伏して敬う崇拝でございます。正しく語るとは、愛染明王に求められざるときには声も上げられぬおしになり、仰せにはただはい、とだけ答える、習性でございます。正しい業とは、愛染明王の仰せを直ちに正確に実行する忠実でございます。正しい命とは、全ての時間、全ての動作が、愛染明王への報恩につながるようにする、奉仕でございます。正しく精進するとは、愛染明王への奉仕の質量を少しでも向上させようという努力でございます。正しく念じるとは、愛染明王が何をお考えになり、何を欲していらっしゃるのか、神経を研ぎ澄まして感じようとする緊張でございます。正しく定まるとは、愛染明王に帰依することで、全ての迷いや不安から無縁でいられるという安心でございます。太郎どの、さきほど愛染明王が私に太郎どのの子分になれ、この家の召使になれと仰せられたので、これからは、太郎どの言うことも、私にとって正しいこととなりました。太郎どのに命じられれば、私は、どのようなことでも、少しの迷いも、逡巡もなく、直ちに実行するのでございます。私の仏は、二人になったのでございます。
愛染 あはははは。そういうことじゃ。太郎どの、今宵は勝利の祝杯じゃ。この世に生きながらにして仏になった祝いじゃ。あはははは。畜生、進め、囲炉裏まで連れて行くのじゃ。

太郎、愛染の肩を抱き、愛染に激しい口づけをする。上人は四つ這って背中に二人を乗せたまま、襖の奥へと這って進んでいく。残された楓、泣き崩れたまま叫ぶ。



 神も仏もない時代じゃ。この世はあさましい鬼の棲み家じゃ。

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『鶯姫』の二次創作

谷崎潤一郎の戯曲『鶯姫』の二次創作です。

沼正三『ある夢想課の手帖から』第三章「愛の馬東西談」で紹介されている「アリストテレスの馬」をfeatureしています。


大伴老人が、テニスコートのベンチに腰掛けている。そこへ、壬生野春子(子爵令嬢、十四五の美少女、純白のブラウスに紺のスカートの洋装)が現れ、隣に腰掛ける。



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壬生野春子 先生、お待たせしたかしら。
老人 いいや、しかし、少し早く来てしまったんだよ。
壬生野春子 今日は、テニスクラブの練習がお休みだから、先生と二人っきりでお話がしたくてお呼び出しをしたのよ。でもだいぶ約束の時間に遅れてしまったわ。先生はどれくらい早くにいらしてたの。
老人 いや、実は、君から呼び出されたんで、ついうれしくて、いてもたってもいられなくて、一時間も前に来てしまったんだよ。
壬生野春子 うふふふふふ。先生は私のことが好きなのね。
老人 いや、好きというんじゃないが…、なんというかその、君はなんとなく、名前といい、顔つきといい、物腰といい、私が憧れている平安朝のお姫様を思わせるところがあって、教場にいても、たまにうっとりと見惚れてしまうことがある。私は君が私に挨拶をしてくれるのが毎日楽しみでならない。たまに話かけてくれたりすると、なんだかありがたいような、もったいないような気がして有頂天になってしまう。あるいは君が鈴木さんたちと一緒になって、私を小突いたり、転ばせたりしてからかってくれたときも、同じような気持ちになってしまうんだ。もうそんなときは、その日一日中君の顔やら声やらが頭を離れず、授業をしていても上の空になってしまう。
壬生野春子 うふふふふふ。先生はやっぱりそんな風に私を想っていらしたのね。
老人 ああ、私も教師としてはいかんいかん、と思うんだが、君に対しては、生徒というよりも、昔の庶民が殿上のお姫様を仰ぎ見るような気持ちしか、どうしても持てないんだよ。いまもこうして、教師が生徒に対するよな口を利いているのが、ふさわしくないような、申し訳ないような気持ちがしている。どうか、気を悪くしたり、怖がったりしないでほしい。耄碌した老人の戯言だと思ってくれたまえ。
壬生野春子 いいえ、私ちっとも怖かなんかないし、悪く思ってなんていなくってよ。私、先生を見ていると、十二のときに亡くなった、じいやの事を思い出すわ。私の生まれる前から内に仕えてた人でね、「春子様春子様」といって、とってもかわいがってくれたのよ。
老人 君の内は、今は子爵様だけれども、昔は本物の御公家様だったんだろうねぇ。
壬生野春子 ええそうよ。じいやはそのころから内に仕えていた人だから、私がどんな我儘をいっても、「へぇ、へぇ」なんていって畏まっていたわ。
老人 なんだか、その方の気持ちが、よくわかるような気がするな。
壬生野春子 じいやとは、いろんなことをして遊んだわ。じいやに目隠しをして、鬼ごっこをしたり、じいやの背中に乗って、お馬さんごっこをしたり、じいやは読み書きができたけど、難しい字は読めなかったから、私が御本を読んであげたりもしたわ。じいやはそれが大好きで、自分で御本を持ってきて、「春子様春子様」って言って、ねだったりしたわ。はぁ、なんだか私、じいやが懐かしくなってしまったわ。ねえ先生、今日は先生がじいやの代わりになってくださらない?
老人 ああ、私でよければ、よろこんでその方の代わりになろう。
壬生野春子 それでは、先生、お馬さんになって、私を背中に乗せてちょうだいな。
老人 しかし、ここでしては、誰かに見られると具合が悪いだろう。
壬生野春子 誰も来やしないわ。テニスクラブがお休みのときは、ここへは誰も来ないのよ。ね、先生、お馬になってくださるわね?
老人 しかしだね…
壬生野春子 先生、怖がることはないわ。私、お馬には優しくしてあげるんだから。さ、はやくはやく。膝をついて、四つん這いになってごらんなさいな。
老人 よし、それではやくお乗り。しかし、だれにも喋っちゃいかんよ。

老人、両手両膝をついて四つん這いになる。春子、老人の背中にふわりと横乗りに乗る。



壬生野春子 さぁ、お進みなさい。そうそう。コートを一周してごらんなさい。そうよ、いい調子よ。もっと速度をあげて。おほほほほほ。先生、お上手よ。

老人、春子を乗せてテニスコートを一周する。その間に、木陰から鈴木道子、木村常子、中川文子(以上三人、春子より少し年長の友人、袴姿の和装)が現れて、ベンチのところで待っている。道子は手に縄跳びを、常子は小さな座布団を持っている。老人が春子を乗せたまま到着すると、三人の少女は得意そうににやにや笑いながら騎馬を取り囲む。



鈴木道子 先生、なんて格好ですの。いくら壬生野さんがお気に入りだからって、背中にお乗せするなんて、少し贔屓のし過ぎじゃありませんこと?
老人 はぁ、はぁ、これは、その…、はぁ、はぁ。
鈴木道子 おほほほほほ。おかしいこと。一生懸命走りすぎたのね。先生、先生には悪いんだけれども、今日は私たちまた、先生を騙して徒をしたのよ。先生は壬生野さんの言うことなら何でも聞くみたいだけど、本当にどこまでやって見せるのか、試してみようと思ったの。そしたら壬生野さんは、「先生を四つん這いにして背中に乗って見せる、みなさんも一緒に乗せてあげる」なんておっしゃるので、本当にそんなことをなさるのか、壬生野さんに先生を呼び出してもらって、私たちはそこの木陰から様子を見ていたのよ。木村さんが調子に乗って、こうして手綱と鞍も持ってきたのだけれど、でも、本当にお馬さんになるなんて思わなかったわ。中川さんなんて、「先生はきっとそんなことをなさる方じゃないわ」って、憤慨してらしたのよ。
中川文子 先生、私、先生のことがよくわかりましたわ。教壇に立っていらっしゃるときよりも、今のほうがいきいきしていらっしゃるんですもの。
壬生野春子 (老人の背中に腰掛けたまま)先生は、きっと贔屓なんてなさらないから、みなさんのことも一緒に背中に乗っけてくださるわ。そうですわね、先生。
老人 ああ、ああ。みなさんでお乗りなさい。その代わり、駄馬なんだから二人づつしか乗らないよ。
少女一同 おほほほほほ。
中川文子 ああおかしい。でも、先生は壬生野さんのお馬なんだから、私たちが乗るにしても、壬生野さんと一緒に乗ってあげなきゃ悪いわ。
木村常子 それじゃあほら、これはお姫様専用の鞍よ。

常子、座布団を老人の背中に乗せる。春子、その上にふわりと座りなおす。



鈴木道子 私が最初に乗らせてもらいますわ。

道子、老人の背中に、春子の後ろに横乗りで乗る。春子より少し乱暴な乗り方。



鈴木道子 これは手綱よ。口にくわえるのよ。

道子、縄跳びの両端を持って、老人の顔に引っ掛けるように投げる。老人、縄をくわえる。



鈴木道子 さあ、お進み。もう一周よ。そうら、もっとはやく。

老人、今度は二人の少女を乗せて、テニスコートを一周する。ベンチのところへ戻ってくると、今度は常子が道子に変わって春子の後ろに乗る。また一周して戻ってくる。すると、常子と入れ替わって文子が乗る



中川文子 大丈夫かしら、先生は、疲れて息が上がってしまってるんじゃないかしら。
壬生野春子 だいじょうぶよ、中川さん。先生はお優しい中川さんをお乗せすることができて、喜んでいらっしゃるわ。その証拠にほら、手綱をしっかりとくわえていらっしゃるでしょう。
中川文子 まあ、いじらしいこと。
少女一同 おほほほほほ。

老人、二人の少女を乗せて、さらにテニスコートを一周する。ベンチのところへ戻ってくると、三人の少女はベンチにかけて待っている。



鈴木道子 壬生野さん、私を、アンコールでもう一度乗せてくださらない?私、今度は運動場の方へも周ってみたいわ。
壬生野春子 (老人の背中の座布団に腰掛けたまま)ええ、もちろん結構よ。

道子、文子に代わって老人の背中に乗る。老人、息が上がったのか、くわえていた縄を放してしまう。下に落ちた縄をすぐにくわえなおそうと、頭を下げようとするが、その前に、道子が上手に老人の鼻に縄を引っ掛け、ぐん、とひっぱる。老人、操り人形のようにかくん、と上向いてしまい、口が大開になる。道子、そのまま手綱をぴんと張らせて老人の顔を固定する。



鈴木道子 先生、誰が手綱を放しいていいと申しましたの。
老人 (少し口をぱくぱくさせ、ようやく声を振り絞る)はぁ、はぁ、す、すまない…うっかり手綱を落としてしまったんだ。どうか赦してくれ。どうか、もうしばらく、私の背中に乗っていてくれ。みんな一周りづつしてしまったんで、もう飽きてしまって、君たちが帰ってしまうんじゃないかと少しさみしかったんだ。鈴木さんがアンコールだって言ってくれたんで、うれしくって、はりきってしまったんだよ。どうか赦してくれ。お詫びに学校中を乗り回してくれてもいい。
鈴木道子 おほほほほほ。ええ、では、飽きるまで乗り回してあげますわ。
壬生野春子 (老人の背中の座布団に腰掛けたまま、老人はなおも手綱で顔を固定されている)先生、お口が利けるうちにお伺いしておきますわ。先生はもっともっと、こうして私たちに、背中に乗っていてほしいんですね?
老人 ああ、君たちさえよければ、またこうして馬になりって、君たちを背中に乗せてやりたい。
壬生野春子 それでは、これからもたまにお馬にしてあげますけど、私が頼まなくても、鈴木さんや、木村さんや、中川さんの誰かがお馬になれといったら、すぐにお馬になるんですよ。
老人 ああ、もちろんだよ。
壬生野春子 この手綱と鞍は、先生にお預けしておきますから、持っておいて、馬になるときは忘れずに持ってきてくださいね。
老人 ああ、大切に持っておくよ。それに、乗馬鞭は私が用意しておこう。
壬生野春子 それから、これからは、私たちの召使になって、なんでも言うことをきいてくださいます?
老人 ああ、君たちの言うことなら何でもきく。手をついて挨拶しろといえばする。地面に額を擦りつけろといわれればする。私にとって君たちはもう、それくらい怖ろしくて偉い存在になってしまったんだよ。
木村常子 先生、私たちの言いつけも、壬生野さんの言いつけと同じ様にきくんですよ。
中川文子 みくびって無礼をしたり、言いつけに逆らったりしたら、すぐに壬生野さんに告げ口してきつく躾けてもらうんですからね。
老人 ああ、そんな怖ろしいことにならんよう、気をつけるよ…
少女一同 おほほほほほほ。
鈴木道子 ではさっそく、学校を一周りしていただきましょう。

道子、手綱を少し緩めて老人にくわえさせる。老人、二人の少女を乗せてすぐさま進みだす。木村常子、中川文子、ベンチから立ち上がり、騎馬のあとを追う。そのまま一同下手に下がっていく。
春子、まるで観客席に語りかけるように、独り言をつぶやく。



壬生野春子 どう?私の恐ろしいことが分って?

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天国の沼正三

妄想です。ちょっとシュールかも。
こちらの記事を読んでから読んでいただくと、よりわかりやすいです。

谷崎と沼のヒロイン像


気がつくと、沼正三は天国にいた。

体は、二十代の頃に戻っていて、服は…あの懐かしくて忌まわしい、日本軍の軍服であった。すぐに、虜囚時代の記憶が胸の奥で疼いた。
「あの人に会えるかもしれない…」
トクン、トクンと胸が高鳴った。

しかし、彼を迎えに来たのは英軍の軍服ではなく、古代ギリシア風の鎧を纏った兵士であった。
「沼正三さん、あなたを連行します。」
沼は抵抗する気にもなれず、縄にかけられたが、気になって尋ねてみた。
「あなたは、どちらの軍隊の方ですか。」
「女神アフロディテ様の軍隊です。」
「アフロディテ様?」
「そうです。あなたの裁きは、アフロディテ様がなさるんです。」
憧れの美の女神の下に引き出されると知り、沼は、先ほどのセンチメンタルも忘れて期待に胸を高鳴らせた。

連れてこられたのは、見事なギリシア風の神殿であった。
大理石の石段を登ると、奥からえもいわれぬような甘い匂いが漂ってきた。奥からは白い光が見えている。
近づくと、大きなローマ風のベッドの上に、真っ白い裸体をこちらに背中を向けて横たえた女神の姿があった
体にはウェーブのかかった見事な金髪と、透き通った薄い絹の布が掛かっているだけであった。女神の体はかすかにふんわりと光を放っているようだった。
沼は、頭の中が、女神の肌とまったく同じ色に染められていき、詰め込んであったいろいろなものが、スゥっと追い出されていく感じがした。見蕩れるというのでなく、心酔しているという感じがした。

兵士はベッドの前に沼を連れて行った。
兵士が縄を放すと、沼は腰を抜かしたようにペタン、とその場に座ってしまった。
女神はおもむろに体を起こし、沼に背中を向けてベッドに腰掛けた。絹の布は背中から滑り落ち女神はそれを膝に掛けた。
沼はあわてて平伏した。縄で後ろ手に縛られたまま、額をしっかりと大理石の床につける姿勢をとった。視界が闇になると、甘い匂いがより強く意識された。

「縄を解いてあげなさい」女神が命じ、兵士が縄を解いた。沼は自由になった手を額の前にしっかりとつけた。
「お名前は?」
女神の問いに、沼は数センチだけ顔を床から離して答える。
「沼正三と申します。」
「そう、あなたが…。」
ペラ、ペラ、と、女神は本をめくっているようだった。
「女神を恋してしまった男、文字通り女神以外を恋することのできぬ男、それがマゾヒストだ…なかなか面白い御本ですこと。これは、あなたがお書きになったの?」
ポン、と沼の前に本が投げ落とされた。本を見るまでもなく、沼は答えた。
「はいっ」
「お猿さんにしては、なかなかよくお勉強なさったのね。」
「お猿さん」という言葉に、沼の脳から脊髄に激しい電流が走った。女神の肌を見、女神の匂いをかいで限界まで昂ぶってしまっていた若い体は、電流に反応してビクン、と波打ち、股間に熱いものが迸った。女神に「お猿さん」と言われて射精してしまったのだ。
「あらあら。あなた今、裁かれているのよ?おわかり?」
女神はあきれていた。
「人に対して罪を犯した者は、大神ゼウス様が裁くのだけれど、神に対して罪を犯した者に対しては、その神が裁く権利を持つの。」
「はいっ」
「女神に対して淫らな欲望を抱くこと自体、大罪なの。例えば、「芸術だ」といって女神の裸体を画いたり、淫らな気持ちでそれを鑑賞した人も。アルテミスなんて、毎日男の人を何百人も処刑しているわ。でもね…私だけはその罪を全て赦しているの。私に対して欲望を抱いた男の人を裁いていたら、きりがないものね。」
ドキン。「アルテミス」という女神の名を聞いて、沼はふと、目前の女神に対して後ろ暗いことに思い当たった。目の前に投げ落とされた著作。自分の分身のようなものだ。これは証拠品なのか…。
「ねえ、お猿さん。あなた、神に隠し事ができるとでもお思いなのかしら。「証拠品」だなんて…神の裁きに必要なわけないでしょう?」
そうだ。女神には自分が今何を考えているのか、手に取るようにわかっているのだ。沼は覚悟を決めた。赦されるはずはない。しかし、赦しを請うしかない。
「お、お赦しを…」
「罪をお認めになるのね。」
「どうか、どうか、お赦しを…」
「では、あなたのアフロディテ論を、読んで聞かせて頂戴。」
「そ、それだけは、どうか、ご勘弁を…。どのような罰でもお受けいたします。それだけは…。」
「神に二度同じ命令をさせるつもり?」
沼は全身を震わせながら著作を手に取り、ページをめくった。そして、ほとんど泣きじゃくるようにして、あまりにも罪深い文章を朗読した。
「し…しかし、真にマゾヒストを以って任じている人なら…ア…アフロディテを選ぶまい。…三者は皆それぞれにマゾヒストを喜ばす特質を備えているではないか。優美な女性的資質だけを…う…んぐっ…売り物にしているアフロディテよりも、はるかに魅力があるではないか…。はぁはぁ…どうか、どうか、お赦しを…。」
「悪いことをしたわね。私の兵士よりも先に、ヘラ様やアテネやアルテミスの兵士に捕まっていたら、お望みがかなっていたのに。」
「めっそうもございません。こ、こんなものはぁ、気狂いの、黄色い猿の、戯言でございます。お赦しください、アフロディテ様ぁ。どうか、どうか…。」
「あなたは、拷問や懲罰について、ずいぶとお勉強なさっているみたいだけど、女神の懲罰がどんなものかは、ご存じないんでしょうね。」
「はいっ。」
「では、たっぷりと教えて差し上げます。」
これがアフロディテの判決であった。

裁きが終わる頃には沼の「理想の女神」はすでにアフロディテに変わっていた。そして大罪を贖う永く峻烈な懲罰を受けている間に、ヘラも、アテネも、アルテミスも、「あの人」のことも記憶から完全に消え去り、ただただ一途に美女神アフロディテを想う廃人へと変わってしまった。

アレクサンドル・カバネル「ヴィーナスの誕生」
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ディエゴ・ベラスケス「鏡のヴィーナス」
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シモン・ヴーエ「眠れるヴィーナス」
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