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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

ドミナの類型学

沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』の第一章は、「夢想のドミナ」という題で、マゾヒストにとっての理想の女性像について語っています。

まず、ギリシア神話の「パリスの審判」が紹介されています。

少し端折ってご紹介します。オリンポス十二神の中でも特に美しいとされるヘラアテネアフロディテの三女神が、「誰が最も美しいか」で争います。審判は、トロイ王子パリスに委ねられます。ヘラ(ジュノー)は大神ゼウスの妃で権力の象徴。アテネ(ミネルヴァ)理知と武勇の象徴。アフロディテ(ヴィーナス)美と女性の性的魅力の象徴です。いずれも男が欲するものを象徴していて、男はそのいずれか一つを選ばざるをえないよ、というのがこの話の寓意なのですが、パリスはアフロディテを選びます。この結果、パリスは後に絶世の美女であるスパルタ王妃ヘレンを手にすることになります。もしヘラを選んでいたら、アガメムノンのような権力を、アテネを選んでいたら、アキレスのような武勲を手にしていたことでしょう。

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沼はこれらの女神の属性を用いてマゾヒストにとっての理想の女性像(dominaドミナ像、mistressミストレス像)を類型化しようとするのですが、考察の結果、あろうことか、畏れ多くも、優美な女性的魅力が売りの美女神アフロディテは理想の女神像ではないとして類型から除外してしまいます。

代わりに、理想の女神の一類型として加えられたのが、処女神アルテミス(ダイアナ)です。水浴びをしていた自分の裸を誤って見てしまった狩人を、五十頭の猟犬に襲わせるという残忍な方法で即刻処刑した神話が有名な狩猟好きの女神です。

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結局、沼の考える理想の女性像は、次の三類型ということになります。

①ヘラ型
身分の高い貴婦人。驕慢で、人を使役したり、人に傅かれることに慣れた女性。

②アテネ型
男勝りの強さ、知性、能力、行動力を持った実力派の女性。

③アルテミス型
溌剌とした若さを持つ乙女。潔癖で誇り高い処女

小説『家畜人ヤプー』に登場する四女神(クララ・フォン・コトヴィッツ嬢ポーリン・ジャンセン侯爵嗣女ドリス・ジャンセン侯爵令嬢アンナ・"テラス"・オヒルマン公爵)には、この類型はどのように反映されているのでしょうか。
(私は青春時代、『ヤプー』を読んでこの四柱の女神に本気で恋をしてしまい、寝ても覚めても四女神のことを考えては昼夜を問わず自慰にふけり、やがて私の心は永遠に四女神の支配するものとなってしまいました。今ではこうして御神名をタイプするだけでも畏れ多くて手が震えてきてしまうくらいなのですが、四女神に対する個人的な想いはまた別の機会に書くとして、ここではあえて少し客観的に論じます。)

四女神はいずれも、白人社会においては永く人を隷属させてきた西欧貴族の正統な継承者であり、また、ヤプーから見れば、全知全能にして絶対無謬、真善美の基準そのものであり、全同胞の命をもってして、その小指の一挙の価値とも比較しえないと崇められている女神ですから、①ヘラ型の属性は四柱とも十分過ぎるくらい備えているといえます。あえていえば特に、アンナ・テラスは、爵位としても最上級ですし、ヤプーにとっては、民族神話の最高神:天照アマテラス大神として、また白神崇拝ホワイト・ワーシップの福音を授けた存在として、二重の意味で特別な存在である最上級の女神ですので、最もジュノー型属性の強い女神といえるでしょう。

②アテネ型の属性については、女権社会の貴族として生まれ育った三柱の女神は、もとより当然備えており、クララについてももともと乗馬をたしなみ、ドイツの大学でも才色双絶を讃えられていた女性ですので、女権社会においてはますますその能力を発揮していくと思われ、やはり四柱とも十分に備えているといえます。特に、若くして広大な領域の地区検事長を努めるポーリンと、大探検家、慈善活動家などとして活躍したアンナ・テラスが、アテネ型属性の強い女神です。

③アルテミス型の属性は、もっぱらドリスに与えられています。乗馬やマリンスポーツに溌剌と励む姿、黒奴やヤプーに対する峻烈で残忍な扱いは、まさに聖処女神アルテミスと重なります。

このように『家畜人ヤプー』の四女神は、沼自らが示した理想の女性像の属性を、それぞれにしっかりと備えているといえます。逆に、理想像から外しただけあって、アフロディテ的に、その美貌で男を(自ら積極的に)誘惑したり、性的な魅力を武器として使うような場面は、ほとんどありません。

さて、もう一人のマゾヒズム文学の第一人者、谷崎潤一郎の小説に登場するヒロインは、どのような属性を持っているのでしょうか。あえて、沼が示した類型に当てはめて考えてみます。

谷崎作品のヒロインで一番多いのは、沼が理想の女神の類型としては外した、アフロディテ型のヒロインです。遊女、芸者、舞妓、娼婦といった商売女のヒロインが多く、一般女性であっても妖婦、毒婦、淫婦、悪女などといわれるタイプの女性を好んで繰り返しヒロインにしています。天から与えられたのは美貌と性的魅力のみ。しかし、それを使って男を支配し、全てを手に入れていくタイプが谷崎作品の典型的なヒロインなのです。

たとえば『麒麟』に登場する王妃:南子は、一国を自らの所有物のように扱う暴虐な絶対権力者であり、①ヘラ型の属性を備えていますが、その権力は自らの美貌と性的魅力をもって霊公の心を支配することによって得られたものなので、多分にアフロディテ型のヒロインであるといえます。

また、『恋を知る頃』のおきんや、『お才と巳之介』のお才のように、男勝りの知能と行動力によって計略を巡らせて犯罪を実行し、成功を勝ち取っていくヒロインも谷崎は大好きで非常によく登場します。これらのヒロインは②アテネ型の属性を持っているといえますが、必ずといっていいほど被害者を美貌と性的魅力で誘惑したり、情夫と共謀したりしていますので、やはりアフロディテ型の属性が強いといえます。

谷崎は、アフロディテ型を理想の女性像と考えつつ、①ヘラ型、②アテネ型にも強い魅力を感じていた、と言えるでしょう。

ところが、後期になって、谷崎作品に変化が現れます。『蘆刈』のお遊、『春琴抄』の春琴、『細雪』の蒔岡四姉妹など、匂い立つような気品を備え、自然と人を傅かせるような、より純粋な①ヘラ型のヒロインが次々に登場します。これは、三人目の夫人となる根津松子という上流婦人との出会いにより、たまりにたまっていた貴婦人崇拝、召使願望が、爆発したことによるものです。

晩年となった谷崎はなお、昭和三十六年、『瘋癲老人日記』を著し、颯子さつこという、活発に戦後社会を生きる、新しい②アテネ型のヒロインを生み出します。(ただし、衰弱した老人を性的魅力で操るアフロディテ性も強いヒロインですが。)大学卒で、谷崎と文芸論を交わすことのできた才女:渡辺千萬子の存在が、新たなヒロイン像を生み出させたようです。

では、③アルテミス型の属性を持つヒロインはどうでしょうか。数は多くありませんが、谷崎作品には非常に魅力的なアルテミス型の美少女がときおり登場します。なにをかくそう、私はこのタイプのヒロインが一番好きです。
一例は、作品論を書いた『女人神聖』の光子です。光子の潔癖で誇り高い美しさには、何度読んでも心酔してしまいます。作品論もご参照ください。

谷崎序論(2)―『女人神聖』論~貴族の兄妹、奴隷の兄妹

あるいは、『羅洞先生』で、最後に羅洞先生の腹に乗っかて鞭を振るう少女。彼女も、すごく短い登場シーンですが、淡々と罰を与える姿が、醜く卑しい欲望にまみれた羅洞先生との対比が、気高く清純に映ります。

そして、私が最も崇拝する究極の美少女ヒロインが、戯曲『鶯姫』に出てくる京都の女学校の生徒、壬生野みぶの春子嬢です。彼女の登場シーンを引用します。

「その時まで、側面の櫻の木陰に縄飛びをしていた四人の生徒等は、次第にヹランダの前の方へ飛んで来る(中略)最年少者は壬生野春子。四人のうち三人は和服を着、春子だけが純白の清々しい洋装をして居る。中高の瓜實顔の、際立って眉目の秀麗な十四五歳の少女で、背丈のスラリとした、優雅な体つきの何処か知らに、名門の姫君らしい品位がある。」



はあぁ。なんて美しい表現なんでしょう。春子は実際名門公家上がりの子爵の令嬢です。国語の老先生も春子の美しさに心密かに憧れているものだから、ついつい「殿上人を想い浮かべる」なんていってちやほやして甘やかします。それをいいことに春子は友達と一緒に先生を玩具にして無邪気な徒を仕掛けては、笑い転げます。そんなときも、友達はみな「あはゝゝゝゝ。」と笑うんですが、春子だけは「おほゝゝゝゝ。」なんて上品に笑うんで、先生はますます憧れを強くしてしまいます。

どうでしょうか。私は何度読んでも春子の気品に心酔して全身が痺れたようになります。谷崎作品のアルテミス型の美少女を思うと私は、そのあまりの高潔な清らかさの前に、卑しい妄想とonanismで穢れた自らの醜さと罪悪が暴き出された気がして、美少女の手で罰してほしいとしという願望が発露してしまいす。

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HNの由来と作家:白野勝利氏

私のハンドルネームにつきまして、今まで「白野勝利」(しろの かつとし)と名乗っていましたが、以後、「白乃勝利」(読み方同じ)に改名させていただきます。

「白野勝利」というハンドルネームは、沼正三の『ある夢想家の手帖から』に二編の小説が紹介されている作家:白野勝利氏から勝手に頂戴したものです。

『手帖』に紹介されているのは、『現代の魔女』(第52章「吠え出した夫」で論評)、および、『ジャクリーンの厩』(第66章「日の丸ズロース」で論評)です。 第52章の論評で沼は、白野氏のペンネームに込められた寓意を解き明かしています。

白野勝利=白の勝利=Victory of the White

Victory of the Whiteヴィクトリー・オブ・ザ・ホワイト

なんと甘美スイートな響きなんでしょう。
世界が人種平等・植民地解放へ邁進する中、白人崇拝者アルビニストとして、白人種が再び世界を支配し、他人種を足下に繋いで永遠に繁栄することを望む。
自らは劣等人種として喜んで敗北することを望む。
そんな奇怪な願望を、小説にするだけでなく、ペンネームにしてしまうという徹底ぶり。
私は『手帖』でこれを読んだとき、これこそ本当のマゾヒズム作家であるな、と感動したの覚えています。

当ブログを始める際、私が書きたいことを表す氏名として真っ先に「白野勝利」が思い当たり、深く考えることなく、ハンドルネームとして採用しました。
しかしこのたび、全く同じ氏名を頂戴するのは少し問題があると考え、「白乃勝利」に改名いたします。

白野氏の作品については、一つも読んだことがありません。『手帖』に紹介されている二作品は、《SSS》という雑誌に掲載されていたそうですが、もはや読める可能性はほとんどないといっていいでしょう。しかし、『手帖』で紹介されているその内容は、両作品とも、「読まなきゃ死に切れない」と思えるほど素晴らしくマゾヒスティックなものです。簡単にご紹介します。

現代の魔女
白人のカップルが、留学生の日本人(資産家の子息)を騙し、精神を崩壊させて犬に馴致し、偽装結婚によって資産を手に入れるというもの。
スクビズム、トリオリズム、アルビニズムの完璧な三位一体ですね。
まさに「Victory of the White」です。

ジャクリーンの厩
戦後日本が国家として崩壊し、国土と国民が欧米女性の個人資産として分割されていくというもの。
富士山は英国女王のものに、島嶼群はことごとく欧米女優のものに、そして皇居は、グレース・モナコ大公妃との競争の結果ジャクリーン・ケネディのものになり、退位した両陛下は、乗馬好きのジャクリーンの厩の馬丁になります。
すごすぎます。まさに「Victory of the White」です。
両陛下が毎日ジャクリーンの愛馬の世話をしたり、ジャクリーンが騎乗した馬を曳いたりしている姿を想像してみてください。
恐らく、二人は馬一頭分の厩よりもずっと小さな住居で寝泊りしてるんでしょう。
例えば、ケネディ夫妻で乗馬を楽しむときは、馬丁にも乗馬鞭を使う夫人の馬は元天皇が曳くんでしょうね。優しい大統領の馬は元皇后が曳く。夫人があまりにも馬丁を乱暴に扱うんで、大統領が気遣う。馬丁は涙を流して大統領に感謝するんだけれども、癪に障った夫人は「だめよ、あなたの馬丁だけならともかく、私のまで甘やかさないで」なんていって、かえってひどく鞭を使ったり…きりがないのでこの辺にしておきます。


若き日のエリザベス英女王陛下
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米大統領夫人ジャクリーン・ケネディ
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グレース・モナコ大公妃
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昭和天皇・香淳皇后
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『悪魔』『続悪魔』の二次創作

谷崎潤一郎の『悪魔』『続悪魔』の二次創作です。


ある日、佐伯が遅く目覚めたころ、鈴木が二階の六畳に上がってきた。
「佐伯さん、こんにちは。ごきげんよう。」
鈴木は馬鹿に丁寧に、両手と額をついて挨拶をした。
佐伯は無視をしている。
「佐伯さん、私はこの家の書生でございます。何か入用がありましたら、なんなりと、申し付けてくださいね。」
佐伯は
「何を企んでいるのか」
と思いながら、とにかく相手にしたくない一心で、
「何も用はありません。」
とだけ言って、本に目を落とした。
「それでは、煙草盆と屑篭を掃除してすぐに戻って参りますので、そのときにどうかお申し付けください。」
というと、鈴木は机の上にあった煙草盆と部屋の隅にあった屑篭を抱えて下に下りていってしまった。
五分もすると、鈴木はまた煙草盆と屑篭を抱えて戻ってきた。机の上に戻された煙草盆は、佐伯が見たことないくらい丁寧に磨かれていた。
佐伯は少し驚いて、
「こんなことを君にしてもらう必要はない。僕は君に何も用はないんだから、もう下に下りていってくれないか。」
というと、鈴木はしつこく懇願するように言った。
「私は今は特にすることがありませんから、御用ができたときのために、しばらくここに侍っています。どうかお気にになさらずに放っておいて、何か用事ができたら声をかけてください。」
「そんな必要はない。君に頼むようなことは当面ないし、もし頼みごとがあれば下に下りていって頼むんだから、君はもう下りてくれたまえ。」
佐伯は少し声を荒げた。
「分りました。しかし、本当に、私はあなたに用を言いつけてもらわなくちゃいけない人間なんで、どうぞ、遠慮せんでくださいね。三時にもう一度御用を聞きに伺いますので。」
こう言って、また両手と額をつける深いお辞儀をして鈴木はようやく下に下りていった。


佐伯は果たして鈴木が三時に本当に上ってくるのか気になって、来る前に出かけてしまおうかと考えていたが、三時の少し前になって、照子が上がってきた。
「兄さん、さっき鈴木がきたでしょう。」
「ああ、きたよ。あれはやっぱり君がやらせていたんだね。」
「きちんと、床に額をつけて挨拶していた?」
「ああ、あれには驚いたよ。照ちゃん、何を企んでいるんだい?」
「ふふ、鈴木に、兄さんの召使をやらせるのよ。」
照子は寝そべっていた佐伯のすぐ脇に、腰を下ろした。足を崩して座るので、佐伯の左耳の辺りを照子の足袋がかすめる。
佐伯は億劫そうに体を起こした。照子の潤った唇が目に入って見惚れそうになったが、気づかれないようにちょっとづつ、ちらちらと盗み見た。
「あの調子でまとわりつかれたんじゃたまらないね。僕はご免こうむりたいね。」
「だめよ、これは鈴木の躾のためなんだから。まあいいわ、あいつからちゃあんとお願いさせるわ。三時に来るって言ってたでしょ。」
「しかし、君がいたんじゃ、あいつも決まりが悪くてこれないんじゃないか。」
「だいじょうぶよ。三時になったらあいつは、きっとそこの床に額をついてるんだから。」
こう言って照子は佐伯の両肩に両手を乗せ、唇を重ねた。
佐伯は夢中で照子の唇を吸い、口の中を舐め回した。照子の暖かくて柔らかな唾液の中で泳いでいるような感覚だった。佐伯は全てを忘れて照子の肉体に溺れていた。一人でいる時間も、学校に行っている時間も、照子の肉体のことばかり考えていた。
どれくらいの間、接吻をしていたのだろうか、いつのまにか照子は佐伯の下腹部に腰を乗せていた。
照子のほうから、静かにゆっくりと、舌を絡めたまま唇を離し、最後に互いの舌の先をちょん、とぶつけあった。
佐伯は頭が真っ白だった。
次第に意識がはっきりしてきて、佐伯は、梯子段を上りきった所に、床に額をついて小さく平伏している鈴木の姿に気がついた。
「あっ」
と佐伯は情けない声を上げ、頼るように照子の顔を見た。照子はまだ佐伯の下腹部に乗っていた。
照子はとっさに袖口で口の周りを拭おうとする佐伯の手首を押さえて、再び顔を佐伯の顔に近づけ、佐伯の唇の周りについた自分の唾液を舐め取り、ギョロっと佐伯の目を見つめたまま、ペロリと自分の唇の周りについた佐伯の唾液を舐め取った。
「三時にはああして待っていたのよ。言ったとおりでしょう。ちゃあんと躾けてあるんだから。」
照子はささやくようにこう言って軽く微笑んだかと思うと、なおも佐伯の目を見つめたまま、いきなり声色を変えて言った。
「鈴木さん、さっき私が言いつけたこと、ここでもう一度兄さんにお願いしてごらんなさい。」
鈴木は平伏したまま、佐伯が聞いたこともないようなハキハキした声で答えた。
「はい、お嬢さん。私は主人に対する奉仕の仕方を教えていただくため、佐伯さんの身の回りのお世話をさせていただきたいのです。そのために、日に三度、こうして二階に御用を伺いに参ります。それから、毎日、佐伯さんの汚れ物を洗濯し、履物を磨きます。それから、佐伯さんの煙草盆は常にきれいにします。佐伯さんの敷島は、必ず切れる前に買っておきます。」
「それから?」
「はい、御用を伺いに参ったときは、最低でも三つは用事を言いつけてもらうようにします。」
「それで、今日は兄さんにいくつ用事を言いつけてもらったのかしら。」
「まだ、ひとつも…」
「だめねぇ。今日は私がここで助け舟を出してあげるんだから、一生懸命兄さんにお願いするのよ。」
「はい、お嬢さん、ありがとうございます。」
佐伯は、何か面白い芝居でも見せられているかのように、夢中で照子と鈴木のやり取りを聞いていた。照子は依然佐伯の下腹部に乗っかったままだ。鈴木は床に両手をつき、自分がしゃべるときだけ二寸ほど額を浮かせて声を張り上げ、照子が話しているときはまたしっかりと額を床につける。これが照子のいう躾なのだとすると、なるほどたいしたもんだと、佐伯は自分でも驚くほど呑気に感心していた。
さてと、自分が巻き込まれるのはどうやって回避するのか、頭を落ち着かせて考えようと、佐伯はマッチを擦って敷島に火をつけた。
「鈴木さん、兄さんが煙草に火をつけてしまったけど、兄さんの煙草盆はきれいになっているのかしら。」
照子の言葉に、鈴木はあわてて体を起こした。
さっき鈴木がきれいに掃除した煙草盆には、すでに七、八本の吸殻と灰が入っていたが、まだまだ使うには差し支えなかった。
鈴木は泣きそうになりながら狂言師のように辺りを見回し、とっさに屑篭を引き寄せてそれに吸殻を捨てようとした。
佐伯も照子も鈴木のあわてぶりにおもわず「ふっ」と失笑してしまったが、照子はなおも意地悪く鈴木を嬲った。
「だめよ。火をつけてから慌てて掃除するなんて、無礼にもほどがあるわ。鈴木さん、あなたは煙草盆の掃除を忘れたんだから、今日はあなたが兄さんの煙草盆の代わりになりなさいな。」
鈴木の動きがピタリと止まった。何か逡巡しているのが見て取れた。
佐伯もさすがにあわてて、
「まあ、煙草盆はまだ十分に使えるんだから、それをこっちによこしてください。」
と、取り繕うように言って、鈴木のほうへ手を伸ばした。
照子は、おもむろに顔を天井に向けるようにした。
佐伯も鈴木も、照子の美しい頤の曲線と、真っ白い首筋を見上げた。
照子は虚空を見つめ、「ふう」と小さく息をしたかとおもうと独り言でもつぶやくように言った。
「鈴木さん、あなた、兄さんの前で私に恥をかかせるおつもり?」
この言葉を聴くと、覚悟を決めたのか、鈴木はスイッチが入った機械のように佐伯の下に擦り寄ってきて平伏し、
「佐伯さん、どうか、今日は私の口を煙草盆の変わりに使ってください」
といったかとおもうと、阿呆のように口を大きく開け、舌を出して、首を伸ばして佐伯の手元に顔を近づけた。
佐伯の敷島からは、今にも灰が落ちそうになっていた。
佐伯がどうしていいかわからず、固まっていると、照子が佐伯の指に挟んである敷島をゆっくりと抜き取り、ポンと鈴木の口の中に灰を落とした。さらに照子は敷島を咥えて少し吸い、一瞬真っ赤になった火を鈴木の舌でもみ消し、吸殻を鈴木の口の中に投げ入れた。
鈴木は舌に火を押し付けられた瞬間も、きゅっとこぶしを握っただけで我慢し、ピクリともしなかった。吸殻を投げ入れられるとゆっくりと舌を戻し、口を閉じた。
照子が指でポンと軽く鈴木の頭を叩くと、鈴木は少し後ろに下がってまた両手と額をつける挨拶をし、吸殻と灰をほおばったまま、煙草盆と屑篭を抱えて下へ下りていった。
五分もすれば、きれいに掃除した煙草盆と屑篭を抱えて戻ってくるのだろう。
佐伯と照子の二人きりになった六畳には静寂が訪れた。
佐伯は照子の顔を見ないようにした。自分がいかに興奮しているかは、ずうっと自分の下腹部に腰を下ろしている照子には手に取るようにわかっているだろう。犬に芸を仕込むかのように鈴木を操る照子は、いままでとは比べ物にならないくらい美しく、偉大なものに見えた。佐伯は照子と鈴木が目の前で見せた奇怪な遊びに酔いしれており、いまさらこれを咎めたり、自分だけはこの遊びから抜け出したいなどということは、あまりにも白々しく、あまりにも卑怯に思えた。
佐伯は目を伏せたまま言った。
「照ちゃん、僕は以前、君の事を『悪魔』だと言ったけれども、そのときにはまだ、君の本当の恐ろしさをこれっぽちもわかっていなかったんだねぇ。」
照子は天井を向いていたが、佐伯の言葉に満足したように少し微笑んだ。


その日、佐伯と照子は夜遅くまでふざけあっていた。佐伯はその後敷島を十六本吸ったが、一度も煙草盆を使わず、全て鈴木の口を使っった。途中で敷島の持ち合わせが切れてしまったときは、鈴木に買いに走らせた。
佐伯ははじめのうちは口の中に灰を落とすのも舌で火をもみ消すのもためらっていたが、次第に慣れ、五本目を吸うころにはまったくいつもの煙草盆を使うように鈴木の口を使っていた。
鈴木はその様子を見て、「ああ、俺は本当に佐伯さんの煙草盆になったんだ」と思い、舌が焼け爛れるのも苦味が咽の奥まで染み込むのも忘れて喜び、嬉々として梯子段を往復した。
その後も鈴木はたびたび佐伯にねだって煙草盆の代わりを務め、しまいには敷島の匂いをかいだり、人が敷島を吸っているのを見るだけでerectしてしまう習性がついてしまった。

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