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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

コメントに回答

探索者さん、いつも深く考えさせられるコメントをありがとうございます。
記事にまとめて回答してみました。


ご教示ありがとうございます。ご紹介頂いたページを拝読いたしました。
>そういう抵抗感が強いものほど、マゾヒストとしては
>「快楽の扉」を開けてしまいたくなるものかもしれません
という説明が非常によくわかりました。

比較として乱暴かもしれませんが、
年下である女子中高生のドミナにお仕えするとか、でしょうか。
また、容姿が自分と特に変わるわけでもない、同級生の女性にお仕えすることになってしまうとか、そのような感じでしょうか。
もちろん、その女子高生が天使のような美少女であるとか、
同級生女性が、学年全員の憧れの女性であるとか、
そのような、若干、ひねったパターンもあるとは思いました。
韓国女性が美人女優の場合は、このひねったパターンになると思います。


マゾヒズムは自分と比較して容姿や能力や立場が圧倒的に優位な女性に惹かれてしまう「劣等感」が基本になっていると思います。
優位の女性と対等であろうとする不自然で不安定な状態を脱し、隷属することで劣等性を自然で安定した揺るぎないものにしたいという衝動の表れがマゾヒズムではないでしょうか。
そうだとすると日本人のマゾヒストの中に人種的劣等感を背景にした白人崇拝マゾヒズムが隆盛したのは必然ではないかと思います。
それに対して劣等感・優越感が複雑なコンプレックスを形成している韓国人に対するマゾヒズムは、「逆転の屈辱」の要素はかなり色濃いと思われます。
「逆転の屈辱」は例えば教師が生徒の少女に隷属するといったパターンで典型的に発露します。
本来ならなんらかの意味で自分が優位であるはずの相手に隷属するこの快楽は、もともと優位の女性に隷属するのに飽きた場合に求められることが多いのではないでしょうか。
私も長年の白人崇拝者ですが、透き通るような白人の少女やカップル、家族を「神々」として崇拝するのはなんだか「当たり前」と感じるようになり、ありがたみはあっても屈辱感は次第になくなっていきました。
神様を拝むのに屈辱と感じる人はいませんよね。
そこで韓国崇拝に出会い、強烈な屈辱感を伴う新たな快楽の虜になりました。
最近はよくインスタグラムやTumblrで「オルチャン」の画像を集めて国辱的妄想で自慰に耽っています。
もともとは韓国女優よりも清楚で優美な中華圏の女優の方が好きで、オルチャンファッションもまったく美しいと思えなかったのですが…

パリスの審判では、ヘラ、アテネ、アフロディテの三女神が出てくるのは周知のことですが、なぜ、アルテミスではなかったのだろうか、という疑問があります。もちろん、アルテミス神を入れると、他の3女神のうち、1柱を外さなければならないのですが。
実際に、その昔に、パリスの審判があったのかもしれませんが、そうではなく、古代ギリシャ人達が長いかけて作り上げた神話であるとするならば、アルテミスが入っていないのはそれなりの理由があると感じます。
アルテミスが処女神だからでしょうか。ヘラはゼウスの妻、アフロディーテも鍛冶神の妻(そして、マルスの愛人)です。アテネのことはよくわかりませんが。


アルテミスはギリシア神話の中で極めて重要な女神でしばしば「最も美しい女神」という形容もなされている美少女神です。
なぜアルテミスがパリスの審判から外れているのかは古来議論の的になったようです。
パリスの審判は単に三女神の美を競っただけでなく、各女神が象徴している価値のうち、男ならどれを選ぶかという価値観、人生観の問題です。
パリスは女性美の象徴であるアフロディーテを選んだため、絶世の美女であるスパルタ王妃ヘレンを手に入れることになります。
もし神々の女王ヘラを選んでいたらギリシアの大王・アガメムノンのような強大な権力を、戦いの女神アテナを選んでいたらアキレスのような武勲を手にしていたはずです。
ここにアルテミスが入っていたら?
あまり男性にとってピンとくる価値をアルテミスは与えられません。
ですからアルテミスはパリスの審判から外されたのだと思います。
アルテミスはトロイ戦争を通じて影が薄いです。
なおアルテミスは処女神ですがアテナも処女神です。

(1)白野勝利さまのお話しでは、白人女性の美しさということが述べられていますから、白人の美人の女性ということが大事なのだと思います。「美しい女性を突き詰めると、白人女性である」という、ひとつの考え方に繋がるのだろうと思います。
とりあえず、白人が美しいという考えがおかしいかどうか、ここでは議論しません。
(2)日本のM系の絵画をみると、大変に肥満した女性の場合があります。肥満ということが美しいという考え方が、一部のM男性の心にあるのかもしれません。どうでしょうか。このことも関心があります。
他方、肥満ということが美人の条件に合わないという考えのM男であれば、肥満系の女性のSM画には惹かれないと思います。
白野様は、肥満豊満ということには憧れを持って羽織られないと想像しております。
白野様の引用される白人女性の写真・絵は、美人な女性であるため、肥満とは結びつきません。
白人SM界(S女性、M男性)で、白人M男性は、肥満系の白人ドミナを崇拝することがあるのでしょうか。とても気になります。すくなくとも、日本人SM界(S女性、M男性)では、豊満ドミナをとりわけ崇拝するM男性が居ます。
(3)日本において白人崇拝がある、という見方があります。
それから、このサイトの存在からもはっきりと断言できるのですが、「日本人M男性において、白人ドミナ崇拝がある」と思います。両者は関係していると思います。白野さまはそうお考えという事ですが、たしかにそのとおりなのだろうと思いました。ただ、これはどうやって証明すればよいのか、だれでも納得できるのか、と感じております。
(4)敗戦によって、白人崇拝が高まったのでしょうか。また、敗戦によって、白人ドミナ崇拝の日本人M男性が増えたでしょうか、ですね。
 たとえば、明治です。まず、明治の開国で、日本の近代化の遅れが認識されたことは間違いないと思います。そのとき、白人崇拝のひとつのピークがあったことも間違いないと思います。そして、それが、日本人M男性における白人ドミナ崇拝のキッカケになった、ということが考えられます。白野さまはどう思われますでしょうか。
(5)戦国時代に、西洋人が来たときは、どうだったのでしょうか。あまり、白人ドミナへの憧憬は聞かないですね。
白人に比べ、文明の遅れが少なかったからでしょうか。
それとも、白人は男性しか来日しなかったからなのでしょうかどちらが大きいと思われますか?
私は、白人男性の来日の件はあまり関係ないのではないかと思います。白人女性を描く絵画は日本に来なかったのだろうか、疑問だからです。
すると、優越性が大きいように感じます。
(6)敗戦によって、白人への劣等感が刺激され、白人ドミナを求めるエム男性がはっきりと表れたと思います。沼先生の作品もそのひとつだと思います。


私自身は肥満の女性をまったく美しいと思いません。
掲載している画像の傾向をご覧いただければお分かりかと思いますが、私が美しいと思う女性のルックスは一般的な美女の基準とかなり一致していると思います。
アイドルの中でも愛嬌や個性が売りの少女よりも「綺麗系」と評される少女を好きになることが多いです。
グラマーであるよりも長身でスレンダーな方が好きです。
しかしマゾヒストの中に肥満の女性を好んで崇拝する人が相当数いることは承知しています。
白人崇拝者の中にも相当肥満した白人ドミナの画像を好んで掲載しているのを目にすることがあります。
白人崇拝マゾヒズムは明治維新から始まったと思いますが、敗戦・占領体験のトラウマはそれを深刻なまでに増大させたようです。
沼正三をはじめ、戦後たくさんの白人崇拝マゾヒズムの作家が誕生しています。
たしかに日本人の西洋人との本当の出会いは戦国時代でしたね。
九州を中心にキリスト教も相当広まりました。
来航したのはほぼ男性のみだと思いますが…マリア像は持ち込まれた可能性があります。
人々はどのような思いで白人女性を理想化したマリア像を見上げたのか、想像すると楽しいです。

マゾヒズム文学とは、読んで、性的な興奮を惹起され、自慰行為を伴って性的な満足を得ることでしかないはず。
マゾヒストというのは、こちらの定義によれば、性的満足を求めていることが必要なのですね。単に崇拝しているだけでは、マゾヒストのカテゴリーに近いこともあるかもしれませんが、マゾヒストのカテゴリーではないのですね。スクビズムにおいて、家具などに物化してしまっても性的満足が必要なのですね。
この性的満足というのは、ここでのお話しによると、自慰行為を伴う性的満足、ということなんだ、と認識しました。


スクビズムというのは、崇拝する対象(ここでは女性)に対し、自らを、パートナーとして受け入れてくれることを望むわけではないということで、性愛として考えると、特殊ですね。そのため、変態性欲と呼ばれるのでしょうか。白野さまの想定なさっているスクビズムはこのタイプ、性愛タイプということでしょうか(どうなのでしょう)。
もちろん、性愛ではない、純粋な崇拝(このような考え、性愛的要素がない、というのはおかしいでしょうか)なのかもしれないと思います。性愛ではなくとも、異性であることが必要かもしれません(「純粋タイプのスクビズム」と、とりあえず命名)。
また、異性とか同性とかを超えた場合もあるかもしれません(超純粋タイプスクビズムと命名しても良いでしょうか)。


マゾヒズムは徹頭徹尾性衝動です。
崇拝ならばいろいろな形があります。
宗教上の崇拝、皇室に対する崇拝、学問・芸術・スポーツの上での崇拝…どれも性衝動ではありませんよね。
だからそれらはマゾヒズムではないのです。

文豪谷崎の作品に、マゾヒスト的なところがあるのですね。谷崎のそういう作品はいくつかありますね。とても、丁重な文体で書かれ、たしかに、異常(マゾヒスト的というのでしょうか)があります。この文体の丁寧さも、異常な感じがしました。その時代のインテリ階級、上層階級の中で、こういう文体(文体というよりも、文章から匂いたつもの)があったのかな、と思ってたのですが、それがマゾヒスト的なものとおっしゃるのでしょうか。そういう見方はたしかにあるのだと思います。


こんにちは、
「谷崎は、第一は自分のため、そして第二には同士であるマゾヒストの読者のために書いたのです」と明言されていますので、驚きました。
一、 谷崎はM男性の為に書いたとのことですが、M男性ならば気が付く筈だと思って書いたのでしょうか。或いは、気が付くか気が付かないかで、M男性を区分する意図があったのかもしれないとも思えます。如何でしょう。
二、  谷崎は、S系女性の読者は想定していたとお考えですか。S系女性の女性が読むことは想定していたとしても、彼女達の為に書いたわけではないのかもしれません。


文体もありますが、主題がマゾヒズムなのです。
いくつかではなく、ほとんどすべての作品の主題が性衝動としてのマゾヒズムです。
気づく、気づかない、というようなオブラートに包んだものではなく直接的に書かれているのでマゾヒストの男性はもちろん、マゾヒストではない人が読んでもマゾヒズムのことを知っていればそのことはわかるはずです。
ただ、わかったところでそれによって性的昂奮を得られるのはマゾヒストの男性だけですから、真に谷崎の作品を楽しめるのはマゾヒストの男性だけだ、ということです。

白野様が夏目漱石や森鴎外を引用なさっていることに衝撃を受けました。夏目漱石や森鴎外の中に、白人崇拝の要素があるかもしれないとは思ったことがありませんでした。
谷崎作品には、マゾヒスト的な要素があると別のところに書いておられ、その点はたしかにそうだと思いますが、夏目漱石や森鴎外にはそのような要素は見られないように、今のところは思っており、少し安心しております。


夏目漱石や森鴎外は西洋で青春時代を過ごし西洋白人文明を崇拝していて、白人女性の美を称賛しています。
永井荷風もそうです。
しかし彼らが谷崎と違うのはマゾヒストではないことです。
西洋白人文明、白人女性美への「崇拝」そのものが性衝動とはなっていないのです。

白人崇拝は視覚によるもののように感じます。小説では映像は伝わりませんが、漱石も鴎外も、白人を自分の目で見ていますから、そのうえで文章を綴っているようですね。
明治時代ですから、書き手としては、読み手も、白人女性の姿かたちは写真やテレビや映画を通じて既に知っていることを、あらかじめ前提としているのですね。
この点は、白野様が別のところで扱っておられる沼氏の作品に関しても、同様だと思いました。戦後ですから、白人を示す写真や映像も明治時代に比べて豊富です。ただし、読者にとっての白人女性とは、モデルや映画女優の女性たちの印象が強く、どうも偏り過ぎの可能性もあるかもしれないのですが・・・ そこは、意外に重要かもしれないと思います。


ほんとうにそうですね。
白人崇拝は日本人マゾヒストが白人のモデルや映画女優をに憧れて焦がれて作りあげてしまった「幻影のマゾヒズム」だと思います。
特に谷崎は映画を愛好していて作品には映画のタイトルや白人女優の名前がよく出てきます。
「独探」「アヴェ・マリア」「痴人の愛」といった作品を読むと谷崎の白人崇拝にいかに西洋の映画が強く影響したかがうかがえます。

先日は年下女性に仕えるとか、知人女性(かつての同級生女子)に仕えるとか、つまらぬ対比をして失礼いたしました。白野様の嗜好には全く合わないものであったようですね。
この年下女子に仕えるというのは、年齢の剥奪に似ているかもしれないと思いました。エム男性の実年齢が無視されているという意味で、年齢を剥奪されたものと同視できるように思いました。
性科学者ヒルシェフェルトさまの洞察について、まず思ったのですが、S女性の変身願望については述べていないのでしょうか。ちょうとM男性の変身願望と相性がうまくあうケースがあれば、好ましいSMカップル、SMパートナーとなりそうなので、思ったのです。パートナーを探している人にとっては参考になるかもしれないと思いました。
しかし、S女性は、特に変身願望を持っていないのかもしれない、その可能性もあります。これは、女性に確認、できれば、S傾向の女性に確認するよりほかありません。
また、M女性の変身願望については述べていないのでしょうか。M男性が変身願望を持つなら、M女性も変身願望をもっていそうな気がします。M男性とM女性は、似て非なるものなのかもしれません。本格的なMの人達にとっては常識かもしれないところ、単に私が気付いていないだけかもしれないですね。
とにかく、ヒルシェフェルトさまの話がM男性だけなので、不思議に思いました。たまたま、調査対象がM男性であっただけかもしれませんが。
(ヒルシャフェルト氏の著作でお奨めのものがありますか)


私は実は年下の女性、というより幼い少女に隷属するロリータ・マゾヒズムの嗜好は強く持っています。
少女崇拝は幼児退行と同様、「年齢の剥奪(放棄)」を意味すると思います。
無邪気で判断力の未熟な少女に自己の生殺与奪を委ねるのはスリリングでありながら、自分で安全を確保しなければならない気苦労から解放された安堵に近い快楽があります。
マグヌス・ヒルシェフェルトは「性のアインシュタイン」とも呼ばれた性科学の先駆的偉人でマゾヒズムの研究は彼の業績のほんの一部でしかありません。
「ある夢想家の手帖から」にはヒルシェフェルトの大著「性病理学」の中から男性マゾヒズムに関する部分だけが引用されています。
原典はドイツ語で、日本語訳はごく一部しか無いと思います。

あまりマゾヒズムについて正しい理解がないかもしれず、失礼します。
>西洋文明を受け入れたことにより白人の肉体を美しく感じた、という説が正しいとして、文明開化の前に洋行した万延元年遣米使節の武士たちが、早くも白人女性の美しさを嘆賞しているのは説明がつきません。
そこに、白人の美しさの普遍性と、その優越性の疑いのない明確さを感じずにはいられません。
人類に無意識に共通する美の基準に、白人男女の肉体的特徴が刷り込まれているとしか思えない。
 このお話しですが、「人類に無意識に共通する美の基準に、白人男女の肉体的特徴が刷り込まれている」というのは、人類がアフリカで誕生した時以来、刷り込まれているのではないか、という推論にまで進んでいかざるをえないのでしょうか。すると、当時の人の肌の色、目の色はどうであったか、と思われます。また、顔つきはどうであったのか、すでに現代人のようであったのか、類人猿のようであったのか、ということも、関心が及びます。化石人類の頭骨を見ると、容貌は類人猿と現代人の中間ともいえるような状況であり、現代の私たちが「美しい容貌」と思う基準とは離れています。したがって、当時の人類の肌の色はわからないままですが(私はしらないだけかもしれませんが)、その「白人崇拝」をアフリカにまでさかのぼるのは無理のような気がしております。
すると、後世になり、社会的歴史的な状況が原因なのか、ということに関心が向かいます。


現生人類に共通してコーカソイドの身体的特徴を美の基準とする刷り込みが行われたとしたら、それはコーカソイドが登場した数万年前から、ユーラシア大陸の広範な地域で歴史が記録されるようになった数千年前までの間ということになります。
クロマニヨン人と呼ばれた人々は大変に美しいコーカソイド種族で、様々な革新的技術を用いてユーラシア大陸を席巻していきます。
インドには肌の白いアーリア人が侵入して肌の黒い先住民を奴隷として支配し肌の色による身分制度が敷かれました。
ヴァルナ制と呼ばれますがヴァルナとは「色」の意味です。
このようなことが起こったのはインドだけなのでしょうか。
ユーラシア大陸各地でコーカソイドによる大小規模の征服が行われた可能性があります。
インドのように歴史時代まで残らずとも、長期間コーカソイドが先住民を奴隷として支配した地域が世界中にあったかもしれません。
東アジアのように純粋なコーカソイドが到来していなくても、少しでもコーカソイドの血が入り、コーカソイドに形質的に近い、長身で肌の白い北方種族が波状的に征服し、先住の色黒で寸胴型で鼻の潰れた南方系種族に君臨したとしたら…
次第に混血していったとしても、「白い肌は美しい」「長身はかっこいい」「鼻が高い高貴な顔」といったその場には現住しないコーカソイドの身体的形質を美の基準とする心理・風潮は残るかもしれません。
その子孫が本物のコーカソイドを見たとしたら…驚きつつも、深層心理に刷り込まれた支配種族に対する畏怖・憧憬を呼び覚まされてしまうかもしれません。

白乃さま(白野さまではなかったのですね。大変失礼してしまいもうしわけありません)、
谷崎文学への考察は興味深いと思い、その考え方でいろいろ考えると興味深いと思いました。そういう切り口で考える批評家はあまりいなかったように思いますが、どうでしょう。そのような考えが頭に浮かんでも、抑制していたのでしょうか(出版界が応じないとか、または、ご自分の個人生活に悪影響が出るとか)。
出版は、ペンネームもありますが、ネットですと、匿名性がさらに高まり、自由闊達な議論が出ると面白いと思います。
ここでちょっと妄想ですが、いろいろな性的嗜好の人が自由に議論する、これは結構だと思います。最近はLGBTという括りばかり前面に出ていて、カテゴライズされステレオタイプ化されているかもしれませんが、それでも十分だと思います。そして、また、いろいろな政治的立場の人が互いに議論する、ちょっと危なそうですね。そして宗教的立場の人が互いに議論する。もっと危なそうです、性の問題に宗教が関わっていることがあるからです。また、いろいろな国の人が互いに活発に議論する。国のバックには統治機構、軍事機構がありますからねぇ。 それからそれから、いろいろな生き物が、闊達に議論するとどうなるのだろうと思いました。喰われる側の生き物、喰う側の生き物もいますから。研究材料に使われる生き物もいますね。そしてなんと道具たちも活発に話し出す。クツモ神の世界かもしれないですね。いやはんしんろんかな。精霊たちかな。
ここで思いましたが、物化したマゾヒスト(椅子や机という家具か、置物や花瓶なのか、便器なのか、また、家畜なのか、わかりませんが)は、黙っているだけなのでしょうか。いろいろ妄想しているのかもしれないですね。深夜に道具たち、動物たちがヒソヒソと会話する。道具や動物といってもそれは物化、畜化したマゾヒスト、その会話や妄想を文字化しているのが、マゾヒスト文学(?)かもしれないという面があると思いました。マゾでない側、崇拝される側から見れば、マゾヒストが何を感じているかは、視野の外ですから。
さて、私は、どちらの側から、そういった文学を読めばよいのでしょうか。また、かつて、どちらの立場から読んでいたのでしょうか。いままで何も気が付いていませんでした。
どちらの側で読むにしても、その向こう側を意識して読むだけでも興味深いですね。
白乃さまは、批評家として、とんでもないことを指摘し始めたのだと思いました。おそらく、いままで他の人は触れてすらいないです。いるかなぁ。発禁図書的な偉業ですね。
話を戻します。学校の先生は、生徒のレベルを考えて授業します。生徒の将来の希望や進路を考えて授業します。彫刻家は、ある彫刻家は、作品について、鑑賞者に任せてしまいます。美術館にくる愛好家だけを想定する作家も、公共空間に置くことを希望する作家もいます。文学者はどうなのでしょう。そこで、谷崎です。そして、沼正三です。
サド侯爵であったり、O嬢の物語であったり、です。
最近では、シャトールージュ(渡辺氏)かなと思います。渡辺氏は、普通の人も、引きづりこもうという意欲を持っているのでしょうか。正確には、普通に生活している人、自覚のない人も、引きづりこもうとしているのでしょうか。
それとも、ただ単に、普通の人の中にもそれはあるのだと、気が付かせようという啓蒙主義なのでしょうか。お医者様ですから、普通の人の中にもそれはある、というのは、素人の私としては、論理的に否定は困難です。否定しようとしても、すぐ論破されそうですから。
作者の意図を考えていたら、文学は読めませんね。どんな意図なのか、確認してからしか読めない、よく考えたら怖いですよ。私は、何も考えず読んで、すぐ忘れるようにしたいです。どんな文学にも、特に、強い文学には後遺症を伴うのだと思われます。


谷崎の意図は、自分と、同好であるマゾヒストの読者を性的に昂奮させるために書いた、それしかないと思います。
ですから谷崎作品を本当の意味で楽しめるのは男性マゾヒストだけです。
こういう性的嗜好があるから一般の人も理解してね、という啓蒙主義でももちろんありません。
しかし、だからといって男性マゾヒスト以外の人が谷崎作品をまったく楽しめないかというとそうでもないようです。
だからこそ谷崎はここまでの文豪としての地位を築けたのでしょう。
批評家も近年は谷崎がマゾヒズムの作家であることは当然のこととして指摘していますよ。
しかしその中に男性マゾヒストがどれだけいるかというとほとんどいないでしょう。
ですから谷崎作品の真髄を解説できている批評家はほとんどいません。
沼正三だけです。

家畜人ヤプーという本があり、以前、大手書店で、平積みになっていました。沼正三フェアだったのか、どうだか覚えていません。平積みされていたので、「健全な本(?。。何が健全か、定義が難しいですし、このような定義をしようという試みが間違っているという考えもあるんでしょう)」と思ったですが、随分変わった本であると思いました。
三島由紀夫や、著名な方のコメントが数頁にわたり載っている、そういう本もありました。三島由紀夫氏は肯定的にコメントしているように見えました(素人の私には)。三島文学とは、屈折しているところは共通的かもしれませんが、説得力や共感させる力は、対象をきわめて選んでいると思います。
曽根綾子氏のコメントがありました。とても否定的でした。そもそも、全部読んだのかも分かりません。曽根先生から見て、とんでもない内容ではなかったかと思います。女性であり、かつ、キリスト者ですね。
著者である沼氏は読者として、誰を想定していたのだろうか、と思います。この人には、理解してほしい、そして支持してほしい、という思いもあるかもしれないし、こちらの人達には敵視されるはず、そうでなくては、という思いもあるかもしれないし、すくなくとも万人受けを狙ってはいない筈かと。 また、読者のことなどどうでもいいという書き手もいるかもしれませんから、沼氏もそういうことなのかもしれません。もちろん、出版したのですから、そうでもないのかもしれないのですが。
沼氏は、M男性向け、M的要素を内部に無自覚ながら秘めている男性を対象に書いたのかな、と想像してみました。女性は、S女性も含めて読者としては想定されていないと考えてみました。すると、女性を第一に考えるのではなくて、エゴマゾみたいになってくるように見えるのは皮肉な感じがします。それとも、私の話の積み上げ方がおかしいのかもしれませんが。


「家畜人ヤプー」は「奇譚クラブ」という風俗雑誌に連載されていました。
変態性欲を主題にした作品ばかりが掲載されている昔の「エロ本」です。
ですから「家畜人ヤプー」の読者は完全にマゾヒスト男性のみを想定しています。
女性の読者も想定にはなかったでしょう。
しかしこれもどういうわけか一般の人々の愛されてベストセラーになり、「戦後最大の奇書」と呼ばれるようになりました。
曽野綾子は沼が「心のドミナ」として崇拝していた作家で、自らコメントを依頼したそうです。

「白人の美しさの普遍性と、その優越性の疑いのない明確さを」のことですが、全ての日本使節の武士たちがそう感じたのか、最初からそう感じたのか、そうは感じなかった武士もいたのではなかろうか、とも思うのですが、
白乃さまの引用されている白人女性の写真、絵画は、いずれも美しい白人女性で、そうでもない白人女性も多数いるのではないか、と思っております。東洋人でも、様々であるのと同様です。
世界レベルのミスコンテストで、白人も黒人も東洋人も出ていますが、東洋人審査員(日本人審査員)と、白人審査員、黒人審査員は、どういう基準なのだろうと思いました。米国にて、東洋系女優の中には、どちらかというと、目が細いとか、そういう感じの女性で、「代表的な美形女優」が居ますから、東洋には東洋らしさ、をステレオタイプ的に当てはめている人達がいるのではないか、また、韓国では、二重瞼で大きな目という、西洋風?に整形することが多いということもあり、人種の問題を考えながら、万延使節団が欧米視察で感じたことを想像するのは、なかなか、困難な感じがしております。


もちろん個人差はあるでしょう。
しかし、同胞の異性と比較して、一般に白人の異性の方が美しくて魅力に優る、高嶺の花として仰ぎ見る心的傾斜は、明治、大正、昭和の多くの日本人男女に見ることができます。

西洋列強がアジアアフリカ諸国に進出して、各地を植民地化して、支配民族として振る舞ったという歴史があります。この部分は、「優越性」の話になじみやすいところです。
ところで、、、
 大航海時代にスペインやポルトガルがアフリカやインド、東南アジアに進出したとき、白人崇拝が起きたのか、日本にもやってきました。白人崇拝は起きていなかったのかどうか、わかりません。ましてや白人女性崇拝(白人ドミナ)があったのかわかりません。ただ、白人女性は帆船に乗ってやってくるということはなかったと思います。つまり、アジア側には、白人女性、特に白人の美人女性を目にする機会はなかったと思います。
 ローマ帝国の時代、ローマ人つまり地中海世界の白人たちのもとへ、ブリテン島などから、奴隷が連れてこられました。白人女性もです。これらは奴隷ですから、崇拝の対象にはなりにくかったと思います。しかし、地中海白人にくらべ、白かったと思います。
現代、サイトをみると、イングランド、ドイツで、マゾヒズム男性が、白人女性Sに支配されているものが見受けられますが、地中海世界のサイトではそういうものは珍しいように思います。白くて、背が高くて、そういう女性はドミナとして崇拝されやすいのかもしれません。もしも、北欧が、南欧に対し優位に立ち、支配被支配という明確な関係があったら、どうなったのか、考えたりします。
 かつて、フン族が、その他のアジア系の遊牧民が、欧州へ攻め入り、支配的な体制を局所的につくりました。アジア人崇拝はおきなかったか、疑問に思います。また、モンゴル族の侵入は激しく、ロシアでは長きにわたり支配者として留まりました。ロシアでは、アジア人崇拝はおきなかったのだろうか、と思います。やはり、白くなければダメなのでしょうか。気になりました。
 レイシズムには宗教的なもの、身体的なもの、習慣によるもの、過去の記憶によるもの、さまざまな背景があると思いますが、身体的なものを考えるとき、白乃様のマゾヒズムにおけるアルビニズムの話は参考になると思います。


南北アメリカ大陸の先住民の多くが古来「白い人」を神として崇拝する信仰を持ち、インカ帝国ではスペイン人の征服者が神として歓迎されたというのは有名ですね。
白人に植民地化、奴隷化されていった人々に劣等感とともに白人崇拝が芽生えていくことはほとんど間違い無いと思います。
もちろん最初は憎悪が強いでしょう。
しかし反抗しても無駄ということがわかってからも強い憎悪を持ち続けられる人ばかりでしょうか。
むしろ白人を一段上、自分たちを一段下の存在として認めてしまい現状を正当化してしまうのが人間の心理ではないでしょうか。

それがやがて一部の人々に性衝動として発露していくこともまた必然だと思います。
  >スクビズムの五類型のうち、
  >第五類型「観念的下位」をさらに分類したもの
としての5類型のことですが、
  >一方、少し視点を変えると、
  >これらの変身願望は、
  >「成熟した社会人たる男性」として生きていくことに
  >疲れた心が望んだ、現実逃避願望とも言えそうです。
 性的嗜好がエム傾向を強めて、その中で、第五類型を選ぶ、たどり着くのではなくて、
 世の中に疲れてしまい、その結果、変身願望の5つの類型へ逃げ込んでしまう。それが、エム的なものである、というのですか。すると、必ずしも、性的嗜好ではないのかもしれないですね。性的なものがない、純粋な?、下位への願望かもしれない。
 性的なエム志向から、変身願望(5類型=5タイプのどれか)に至った人と、
 世の中からの逃避から、変身願望(5類型=5タイプのどれか)に至った人、
どちらが多いのでしょうか。
後者が最近増えているとすれば、日本は男性にとり住みにくい、病んだ社会ということですね。
女性が後者の道を辿ることはあるのでしょうか。現在、辿る女性が増えているのでしょうか。増えているならば、日本は女性にとっても、病んだ社会へ向かっているのでしょうね。
もしも、それらの傾向が分かれば、日本が、男性にとり、また、女性にとり、どんな社会なのか、知ることができそうです。


性的嗜好と、心の中の様々なコンプレックは密接に関係していると思います。
その中で現実逃避願望とマゾヒズムの変身願望との関係は極めて強いのではないかなと感じています。
マゾヒズムと結びつかなくても「猫になりたい」とか「草花になりたい」とか言う人いるじゃないですか。
それが性衝動と結びつくと幼児退行、畜化倒錯、物化倒錯はになるのだと思います。
これが男女に流行する社会はたしかに病んでいるかもしれませんね。
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コメント

私のようなもののコメントについて、いくつかをピックアップしてまとめて下さり、恐れ入ります。

白乃さま 丁寧にまとめてコメントを頂き有難うございました。

 最初の中国と韓国のドミナの話ですが、たしかに中国の美女には、すっきりした清楚なお顔の美女が多いですね。神仙界の女性か、あるいは、神仙界と何か関係のある女性ではないかと思われるレベルの人がおられると思います。
韓国美女はもっと身近な感じm人間界に近いがします。
  
 年下である女子中高生のドミナにお仕えする、容姿が自分と特に変わるわけでもない、同級生の女性にお仕えする、このパターンは、相手が複数の方がよさそうです。CFNMパーティとかだと思いました。
これは神に仕えるわけではないので、屈辱や被虐感なのだと思います。今、居る人間という位置から落ちる必要があります。
このようなパターンを希望する場合、理不尽に、身分を落とされたという状況を望む人と、自分の性癖が暴かれて、妥当な地位に移されたという状況を望む人がいるようです。後者のケースですが、妥当な地位に移されたならば、被虐感は本来は抱くはずはないのですが、抱いてしまう、これが罪悪感になるかもしれません。前者と後者では、後者の方がより複雑な感じがします。

 これに対し、美しい白人女性、神仙のような中国女性に仕えるのは、
自分達より上位の存在に仕えるのですから、屈辱ではないですね。今、立っている人間という位置から横滑りで良いわけです。むしろ、周りの男性に対し、優越感を感じるかもしれません。ただ、このような優越感は周りからは理解されないでしょう。

パリスの審判

パリスの審判では、アルテミスは除外されていることについて詳しい解説をありがとうございます。
このことは自分も少しさらに考えてみました。
アルテミスは、狩人である男性に裸身を見られたため、その男性(悪気があったわけではなないと思われますが、もちろん、実際はわかりません)は殺されます。また、男性はうっかり、身体が性的に興奮したのか、していないのか、わかりません。心はおびえていたかもしれません。心身ともに欲情していたのか、心はおびえつつも、身体が欲情してしまったのか。
興奮したから殺されたのでしょうか。人の身でありながら、女神に欲情するとは不適切です。しかし、他の男性が、他の女神の裸身を見たとき、うっかり興奮することはないのか、そのようなケースがなかったのか気になります。必ず、興奮してしまうのならば、この男性は気の毒かもしれません。
興奮していなかったとしても、そのことを不快に感じ、殺されたかもしれません。自らの女性美についての強い自尊心を持っていた筈だから、きっとそうに違いないと思われます。ただ、女性美があれば必ず男性は欲情を催すと言えるのか、そうは実は思っていません。

結論を急ぎます。パリスは、どのように三美神を判断したのかです。もちろん、取引に応じたのだと思いますが。形の上では、三美神は、姿を、つまり裸身をパリスにさらして見せたのではないでしょうか。もしそうであるならば、女神アルテミスは、男性が欲情しようがしまいが、男性を殺してしまうのですから、パリスの審判には出てきては、パリスは殺害されるほかはないと思われます。そのように今は考えております。

自分は、「古来議論の的になった」というその議論は見てはおりません。容易に見ることができる文献でもあれば、ご紹介頂けると幸いです。

支配民族としての歴史

>現生人類に共通してコーカソイドの身体的特徴を美の基準とする刷り込みが行われたとしたら、
>それはコーカソイドが登場した数万年前から、
>ユーラシア大陸の広範な地域で歴史が記録されるようになった数千年前までの間ということになります。
>先住の色黒で寸胴型で鼻の潰れた南方系種族に君臨したとしたら

 歴史的な記憶(民族的記憶と呼ぶのでしょうか)が、世代を超えた記憶として刻印されたのではというご指摘ですね。
 インドネシアでは、空から、黄色い人が降ってきて、白い人を追い出してくれるという神話があったそうです。白い人はオランダ人で、黄色い人は落下傘部隊の日本軍のように感じてしまいます。インドネシアでは、白人崇拝はないのでしょうか。
また、
話は飛びますが、東南アジアや、中国では、どうなのだろうと思いました。私の知る限り(調べたわけではないのですけれど)、東アジア、東南アジアでは、日本だけ、白人崇拝が目立ちます。中国人や韓国人に尋ねてみたいと思います。
この日本人の白人崇拝が、明治以来の日本の近代化のエネルギーとも通底するではないか、と思ってしまいました。白人崇拝は、白人女性への崇拝という副産物もあります。

さきほど、インドネシアの神話に触れました。そして、オランダ軍を日本軍が追放したという事実にも触れました。さて、インドネシアでは、白人崇拝や白人女性崇拝はあるのだろうか、また、日本人女性崇拝はあるのであろうか、と思う人もいらっしゃるかもしれません。しかし、日本女性が、支配者として、インドネシアに行ったわけでありませんし、また、インドネシアは敬虔なイスラム教徒の国ですから、女性崇拝という変態性欲的なことはありえないと私は今のところ強く思っています。

さて、ロシアですが、かつてモンゴル人が征服しました。この影響で、黄色人種崇拝があるのでしょうか、黄色人種ドミナという妄想があるのでしょすか、あまり聞かないです。実際はどうなのか、知りたいと思います。いまのところ、単に歴史的な記憶だけで決まるわけではないと思えます。白い肌、長身で寸胴ではない身体、高い鼻、碧眼等(緑眼もあるそうです)、金髪等(茶色や銀髪、赤毛)も、また、言葉の響きや、体臭など、関係があるのかもしれないと思っております。

支配民族としての歴史 (付けたし)

支配民族としての歴史(正確には、支配された側での記憶)として、先日、駄文を連ねました、失礼いたしました。いろいろ思いますが、文化的な力が大きいのではないかと感じます。もうひとつは、見た目の美しさ、絢爛豪華さ、かと思います。
 
 現代のロシアで、スラブ系男性がモンゴル系の女性を崇拝するようなもの、ロシアのマニアビデオであまり見かけないように思います。スラブ系の女性の美しいのは現在でも世界的に有名ですから、モンゴル系(東アジア系)の女性の入り込むスキがなかったのかもしれない、これは誰もが思うかもしれません。また、古代のスラブの貴族女性は豪華衣装や宝飾品を身に着けていますから、身軽を旨とする遊牧民では、その女性も貴族であろうとも、ロシア人からみれば質素すぎたのかもしれません。
それから、古代ロシアは伝統もあり、スラブ文化がモンゴル化したなどという話は聞きません。むしろ逆かと思われます。そして宗教の違いもあり、スラブ系男性が東洋系女性を崇拝するような、異民族崇拝はなかなかハードルが高かったと強く思います。

それと同様ですが、中国のマニアビデオ(女主とか呼ぶらしい)で、中国人男性が、いかにも遊牧民風の貴婦人女性に平伏しているようなビデオも見かけないですね。中国女性にも大変美しい人も多い、これも一因ですね、また、古代中国では、中国の貴人女性は美しく着飾り洗練されていたでしょうから、草原の勇猛果敢な民族の女性が、中国男性の歴史的な記憶に、崇拝対象として刻ませることはなかったのだろうと思いました。中国人は多種多様な人種の血が入っていると思います。中国文化は強力であり、支配民族の方が、中国化しまいがちという点も大きいと、この点は強く思います。

日本文化には、多民族を日本化してしまうような傾向はあるのだろうか、と思いました。黄河を発祥とする中国文化に対し、また、欧州のロシア文化やゲルマン文化を相手にして、はたして、日本には、相手をジワジワと日本化させてしまうような力があるかは疑問に思います。日本における、M男性による外国系女性崇拝は、こういう背景があるのかもしれないと思いました。

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