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マゾヒズム文学の世界

谷崎潤一郎・沼正三を中心にマゾヒズム文学の世界を紹介します。

セルヴェリズムとパジズム

※禁止ワード回避のため、やむを得ず一部「*」挿入による回避措置をとっています。


スクビズム総論でマゾヒズムの基本衝動であるスクビズムの諸類型を下図のようにまとめました。

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沼正三はこのうち第五類型の(イ)の奴隷願望セルヴェリズムについて、「ある夢想家の手帖から」第二一章「召使い願望と侍童願望」で、マゾヒズムの「入門的段階」であるとして詳述しています。

奴隷願望セルヴェリズムとは
奴隷願望セルヴェリズムの語源は奴隷、召使いを意味するラテン語のservusで、文字通りドミナの奴隷、召使いとなることを望む願望です。
この場合の奴隷とは、農園プランテーションや鉱山で働かされる奴隷ではなく、ドミナに近く侍って奉仕する「家内奴隷」に限ります。
奴隷願望セルヴェリズムは正常な恋愛関係でも騎士道精神やレディファーストの精神と結びつけば外形上似たような行為が行われやすく、マゾヒズムの入門的段階になりやすいのです。
奴隷の観念は「マゾ的空想の万能石」であり、諸類型に容易に変形します。
十人十色、多種多様なそれぞれの自分だけのスクビズム諸類型に発展していく前段階、大学でいえば専攻を決める前の教養課程が奴隷願望セルヴェリズムと言えるでしょう。

侍童願望パジズムとは
奴隷願望セルヴェリズムがもう少しマゾ的に精錬リファインされてくると侍童願望パジズムになります。
奴隷願望セルヴェリズム侍童願望パジズムの最大の違いは、と侍童願望パジズムがドミナとの性的交渉を「完全に」と排除オミットしていることです。
侍童願望パジズムの語源は侍童を意味するPageペジェです。
古来洋の東西を問わず貴人は大人の奴隷より安全で気安く身辺の奉仕をさせることができる子供を侍らせたようです。
たとえ奴隷であっても男性であれば貴婦人・令嬢にとってはどうしても「そこにいる」ことが意識されてしまう。
それが侍童ペジェであれば危険性もないし、異性でもない、性的なことも理解できない。
ペットや白痴モリオ同様、「そこにいる」ことを忘れてもすごせる存在。
着替えの手伝いや排泄・性行為の後始末も気軽にさせることができたでしょう。
大人の男性でありながら、この侍童ペジェの立場に憧れてしまうのが侍童願望パジズムです。
あくまでも男女の恋愛関係の中で主人と奴隷を演じているのではなく、貴婦人と侍童ペジェ、女神と人、人と家畜のようにもともと性的交渉が想定されないある意味で「清純な」関係が前提となっています。
侍童願望パジズムは必ずしもドミナが実際に年上であることを求めるわけではありませんが、ドミナの前で自分が幼*児退行することを強く志向します。
幼*児の母に対する絶対的な思慕、これを老いた母に代って若く美しい令嬢・貴婦人に対して再現しようとするのが侍童願望パジズムの特徴です。
あるいは、自分が性的な存在ではない「清純な」少年である代わりに、性の対象とすることを厳に禁止された「清純な」少女をドミナにすることによっても侍童願望パジズムは成立します。
令嬢と「じいや」のような関係。
少女にとって性的に不能となった老人は侍童ペジェと同様に安全で、羞じらいの対象にならない存在です。
ヘラ型の貴婦人と同じくらい、アルテミス型の令嬢が侍童願望者パジストに好まれるのはこのためです。
とにかくいずれかして、大人の男女の関係を回避すれば、侍童願望パジズム的理想に近づくことができます。
昨今の表現でいえば、清純なteenの少女が性徴前の少年を凌辱する「おねしょた」はかなり侍童願望パジズム的な概念といえるでしょう。

奴隷願望セルヴェリズム侍童願望パジズムは対立概念ではなくかなり近接した概念ですが、侍童願望パジズムは貴婦人崇拝、聖少女崇拝(ロリータ・マゾヒズム)、対象神格化、畜化願望、汚物愛好、そして愛情の一方通行女の忘却手段化法則と物化倒錯など、相当に精錬リファインされた種々の観念的マゾヒズムへの入り口となります。
入門段階である奴隷願望セルヴェリズムから侍童願望パジズムへ移行すると、いわば教養課程は卒業で、マゾヒズムの専門課程に入るといえるかもしれません。
さて、実践派にとっては現実には大人の男性の肉体を捨てることができず、「男女」の関係、もっといえば「人間と人間」の関係を前提にせざるをえないという事情が侍童願望パジズムの理想にはどうしても邪魔になります。
実践派にとっては「男女」の関係、「人間と人間」の関係が残る奴隷願望セルヴェリズムの段階からどのように侍童願望パジズムの段階へ持っていくのかは、大きな問題になります。

谷崎潤一郎の侍童願望パジズム
究極の実践派である谷崎潤一郎はまた究極の侍童願望者パジストでした。
「少年」における「私」の光子に対する畏怖、「恋を知る頃」における伸太郎のおきんに対する憧憬、「神童」における春之助のお町夫人に対する思慕、「法成寺ほうじょうじ物語」における定雲の四の御方に対する崇拝…これが永遠に理想の関係であったはずです。
いかにして実践で理想の侍童願望パジズム的関係を実現するか、谷崎がこの点に苦心したことが諸作品からうかがえます。
「捨てられるまで」と「痴人の愛」は遊戯的な駆け引きや女性上位の演技ロール・プレイを重ねるうちに恋人パートナーをだんだんと理想の貴婦人ドミナにしていき、奴隷願望セルヴェリズム的関係から侍童願望パジズム的関係に脱皮させようと試みる物語です。
「痴人の愛」のナオミと河合譲治は家出事件の前まではあくまでも奴隷願望セルヴェリズム的関係ですが、家出事件後、クライマックスとなる「尻の下の誓約」の後は侍童願望パジズム的関係が実現しています。
一方そんな譲治も、憧れの白人女性であり、本物の貴婦人であるシュレムスカヤ伯爵夫人に対しては最初から侍童願望パジズム丸出しです。
饒太郎じょうたろう」では富豪の未亡人である蘭子との駆け引きや演技が面倒になった饒太郎が不良少女のおぬいを買い、二人の間に「男女」の関係、「人間と人間」としての関係が生まれてしまう前に、理想の侍童願望パジズム的関係を築いてしまおうとし、成功します。

彼は彼の女に対して、再び蘭子との関係のような、歯痒い行き違いを生じさせたくない。二人の間に妙な行き掛りや習慣が出来ないうちに、いかにしても彼は彼の女と自分とを赤裸々にして了わなければならない。


と考えたのです。

谷崎はまた、「鶯姫」や「富美子の足」のように老人と少女の侍童願望パジズム的関係も好んでいます。
谷崎は実際に老人になってから、「瘋癲老人日記」に老人の侍童願望パジズムを描いています。
性的に完全に不能で病気によって体力も衰弱している卯木老人を、息子の嫁である颯子さつこは「オ爺チャン」と軽んじます。
卯木老人は、お洒落や遊興のために自分を財布のように利用する颯子に「イジメラレルコトヲ楽シミ」、ついには彼女を「颯子菩薩」と拝んで死んでいきます。
ある晩母の夢を見た時には、あろうことか母と義理の娘の容貌肢体を比較し、母のおもかげを颯子に重ねていることが示唆されます。
よく知られているように颯子のモデルは義理の息子の妻・渡辺千萬子で、谷崎と千萬子の往復書簡に小説さながらのやりとりが残されています。
老化と病気で「男」ではなくなった谷崎が、20代の人妻で一児の母であった千萬子を見上げ、慕った思い。
それが本作にそのまま表れています。
若き日には「男と女」の関係の介在に苦労した谷崎が、老いてようやく、幼*児期以来に得られた母のように純粋なドミナが、千萬子だったのではないでしょうか。
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