月蝕歌劇団公演「沼正三/家畜人ヤプー」の感想
劇団「月蝕歌劇団」による演劇「沼正三/家畜人ヤプー」が、2010年9月1日から6日にかけて、「ザムザ阿佐谷」にて上演されました。
私は9月5日の夜の部に、観劇しました。
素晴らしい舞台でした。
陶酔してしまいました。
すごく小さな劇場だったので、最前列で見た私は役者さんとの距離が近く、すごく「生」の臨場感を感じました。
少し遅くなりましたが、私なりの感想を書いてみたいと思います。
交錯する現実と虚構
本作は、マゾヒズム作家・沼正三の半生と、その小説『家畜人ヤプー』のストーリーが平行して進行します。
この意欲的な試み自体に、まず私は衝撃を受けましたね。
現実と虚構が入れ替わるたびに、一方の話が中断するので、その都度わくわく感がつのっていきます。
平行線だった二つ世界は次第に交錯していきます。
『家畜人ヤプー』のなかで、ジャンセン家に敗れる運命にあるイース名門貴族ジャーゲン家が、その運命を転覆すべく、作者である沼正三の前に現れ、誘惑するという驚くべきアクロバティックなパラドクスを用いて。
なんという想像力でしょうか。すごい。
沼正三は誰?
本作で、沼正三は、本名:「沼倉正三」として、少年時代から『家畜人ヤプー』を執筆した中年時代までの半生が描かれています。
沼倉正三の少年時代・青年時代のエピソードには、次のようなものがありました。
・九州の比較的裕福な家庭に育ったが、父が散財した。
・「横光莉絵」という少女がうがいした水を口にした。
・美しい叔母「久美子おばさん」を慕っていた。
・学友と同性愛の関係にあった。
・兄「正博」を慕っていたが、正博は出征した。
・沼倉自身は従軍せず、戦中一時満州に赴いた。
これらは、『禁じられた女性崇拝』『禁じられた青春』などの、天野哲夫の自伝的作品に、天野が自らの体験として書いたエピソードを基にしていると思われます。
どうも本作が描いている『家畜人ヤプー』の作者:沼正三は、天野哲夫のようです。
一方、『家畜人ヤプー』の創作に当たって重要な役割を果たしたとされる人物がもう一人登場します。
Cast表では「X 」とされている法律家です。
Xは自らの体験として、「英軍の捕虜となって司令官夫人の身の回りの世話をさせられ、人間扱いされなかった」と語ります。
これは、沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』第一〇六章「奴隷の喜び」に、沼が自らの体験として書いているエピソードです。
本作は、このXを、『ある夢想家の手帖から』の著者である「もう一人の沼正三」として描いています。
法律家、ということを考えると、倉田卓次元裁判官を想定しているのかもしれません。
そして、このXは、『家畜人ヤプー』の創作に当たって、重要ではあるが補助的な役割を果たしたに過ぎず、あくまで小説の世界を構想したのは天野哲夫と同一人物である「沼正三」である、とされています。
…この理解は、間違っています。
私の「沼正三の正体」に対する理解は次のようなものです。
①『家畜人ヤプー』の世界を構想し、その「正編」(第二八章まで)を執筆したのは、『ある夢想家の手帖から』の著者と同一人物であり、この人が正真正銘の沼正三である。
②この沼正三は、『禁じられた女性崇拝』『禁じられた青春』などの著者である天野哲夫とは別人である。
③沼正三が倉田卓次である可能性は大いにあるが、定かではない。
④天野哲夫が『家畜人ヤプー』の執筆に大きな役割を果たしたのは確かで、恐らく「続編」は天野が主に執筆した。
この理解は、「女性上位時代」を読む限り、馬仙人と全く同じ理解です。
このあたりについては、また改めて論じたいと思いますが、本作はここの理解が間違っていたことは、非常に残念でした。
『少年』と『アデンまで』
本作で私が一番昂奮したのは、谷崎潤一郎の『少年』と、遠藤周作の『アデンまで』が紹介されていたシーンです。
この二作を取り上げた、ということだけでも、本作が沼正三のマゾヒズムの本質を捉えていると評していいと思います。
『少年』に描かれるスクビズムのオンパレード。
セーラー服姿の光子に三人の少年が傅き、椅子にされる姿が目に焼きついています…。
特に汚物愛好については、全編を通じて妥協なく描いていたのがよかったですね。
そして『アデンまで』。
沼の本質である「白人崇拝」をも、しっかりと盛り込んでいました。
また、ついさっき麟一郎とキスをしていたクララが、畜籍登録や尿洗礼を終え、頼もしそうにウィリアムの腕を取り、しどけなく寄り添って、リンの処遇を話題にしているシーン…。
猛烈に昂奮しました。
ちょっとしたシーンなんですが、『家畜人ヤプー』が「寝取られ物語」であることまでも、しっかりと演出している、そんな風に私には感じました。
『ヤプー』や「沼正三」を描くに当たって、、もっとこの部分が描き足りていない!という部分はたくさんありますよ。
そんなことはいくらでも言える。
でも、いちいちそんなことを言っていたら、二次創作なんてなんにもできないんですよね。
少なくとも私が『ヤプー』の、「沼正三」の本質と考える部分は、しっかり描かれていたと思います。
印象に残ったキャスト
特に印象に残ったキャストをご紹介しておきます。
久美子おばさん/クララ役:しのはら実加
いやー美しかった!
はかなげなんだけれど、しなやかで凛とした気品がありました。
1メートルくらいの至近距離でガン見できて、幸せでした。
ドリス/横光莉絵/光子/白の姉:白永歩美
ドリスと光子に共通する「無邪気な残酷さ」を備えた美少女役が見事にはまっていました。
セーラー服にやられた…。
X役:工藤悦仙
すごい存在感。いい感じに渋くて、お芝居を締めていました。
黒川/ミノダ役:ひろ新子
この人も存在感がありました。ジェットコースターのようにドタバタしたお芝居の中で、この人が出てくるとふっと空気が変わっていましたね。
本当に見に行ってよかった!と思えた素晴らしいお芝居でした。
意欲作に挑み、見事な作品を作り上げた演出家:高取英と、月蝕歌劇団に深く敬意を表したいと思います。
私は9月5日の夜の部に、観劇しました。
素晴らしい舞台でした。
陶酔してしまいました。
すごく小さな劇場だったので、最前列で見た私は役者さんとの距離が近く、すごく「生」の臨場感を感じました。
少し遅くなりましたが、私なりの感想を書いてみたいと思います。
交錯する現実と虚構
本作は、マゾヒズム作家・沼正三の半生と、その小説『家畜人ヤプー』のストーリーが平行して進行します。
この意欲的な試み自体に、まず私は衝撃を受けましたね。
現実と虚構が入れ替わるたびに、一方の話が中断するので、その都度わくわく感がつのっていきます。
平行線だった二つ世界は次第に交錯していきます。
『家畜人ヤプー』のなかで、ジャンセン家に敗れる運命にあるイース名門貴族ジャーゲン家が、その運命を転覆すべく、作者である沼正三の前に現れ、誘惑するという驚くべきアクロバティックなパラドクスを用いて。
なんという想像力でしょうか。すごい。
沼正三は誰?
本作で、沼正三は、本名:「沼倉正三」として、少年時代から『家畜人ヤプー』を執筆した中年時代までの半生が描かれています。
沼倉正三の少年時代・青年時代のエピソードには、次のようなものがありました。
・九州の比較的裕福な家庭に育ったが、父が散財した。
・「横光莉絵」という少女がうがいした水を口にした。
・美しい叔母「久美子おばさん」を慕っていた。
・学友と同性愛の関係にあった。
・兄「正博」を慕っていたが、正博は出征した。
・沼倉自身は従軍せず、戦中一時満州に赴いた。
これらは、『禁じられた女性崇拝』『禁じられた青春』などの、天野哲夫の自伝的作品に、天野が自らの体験として書いたエピソードを基にしていると思われます。
どうも本作が描いている『家畜人ヤプー』の作者:沼正三は、天野哲夫のようです。
一方、『家畜人ヤプー』の創作に当たって重要な役割を果たしたとされる人物がもう一人登場します。
Cast表では「
Xは自らの体験として、「英軍の捕虜となって司令官夫人の身の回りの世話をさせられ、人間扱いされなかった」と語ります。
これは、沼正三の長大なエッセイ集『ある夢想家の手帖から』第一〇六章「奴隷の喜び」に、沼が自らの体験として書いているエピソードです。
本作は、このXを、『ある夢想家の手帖から』の著者である「もう一人の沼正三」として描いています。
法律家、ということを考えると、倉田卓次元裁判官を想定しているのかもしれません。
そして、このXは、『家畜人ヤプー』の創作に当たって、重要ではあるが補助的な役割を果たしたに過ぎず、あくまで小説の世界を構想したのは天野哲夫と同一人物である「沼正三」である、とされています。
…この理解は、間違っています。
私の「沼正三の正体」に対する理解は次のようなものです。
①『家畜人ヤプー』の世界を構想し、その「正編」(第二八章まで)を執筆したのは、『ある夢想家の手帖から』の著者と同一人物であり、この人が正真正銘の沼正三である。
②この沼正三は、『禁じられた女性崇拝』『禁じられた青春』などの著者である天野哲夫とは別人である。
③沼正三が倉田卓次である可能性は大いにあるが、定かではない。
④天野哲夫が『家畜人ヤプー』の執筆に大きな役割を果たしたのは確かで、恐らく「続編」は天野が主に執筆した。
この理解は、「女性上位時代」を読む限り、馬仙人と全く同じ理解です。
このあたりについては、また改めて論じたいと思いますが、本作はここの理解が間違っていたことは、非常に残念でした。
『少年』と『アデンまで』
本作で私が一番昂奮したのは、谷崎潤一郎の『少年』と、遠藤周作の『アデンまで』が紹介されていたシーンです。
この二作を取り上げた、ということだけでも、本作が沼正三のマゾヒズムの本質を捉えていると評していいと思います。
『少年』に描かれるスクビズムのオンパレード。
セーラー服姿の光子に三人の少年が傅き、椅子にされる姿が目に焼きついています…。
特に汚物愛好については、全編を通じて妥協なく描いていたのがよかったですね。
そして『アデンまで』。
沼の本質である「白人崇拝」をも、しっかりと盛り込んでいました。
また、ついさっき麟一郎とキスをしていたクララが、畜籍登録や尿洗礼を終え、頼もしそうにウィリアムの腕を取り、しどけなく寄り添って、リンの処遇を話題にしているシーン…。
猛烈に昂奮しました。
ちょっとしたシーンなんですが、『家畜人ヤプー』が「寝取られ物語」であることまでも、しっかりと演出している、そんな風に私には感じました。
『ヤプー』や「沼正三」を描くに当たって、、もっとこの部分が描き足りていない!という部分はたくさんありますよ。
そんなことはいくらでも言える。
でも、いちいちそんなことを言っていたら、二次創作なんてなんにもできないんですよね。
少なくとも私が『ヤプー』の、「沼正三」の本質と考える部分は、しっかり描かれていたと思います。
印象に残ったキャスト
特に印象に残ったキャストをご紹介しておきます。
久美子おばさん/クララ役:しのはら実加
いやー美しかった!
はかなげなんだけれど、しなやかで凛とした気品がありました。
1メートルくらいの至近距離でガン見できて、幸せでした。
ドリス/横光莉絵/光子/白の姉:白永歩美
ドリスと光子に共通する「無邪気な残酷さ」を備えた美少女役が見事にはまっていました。
セーラー服にやられた…。
X役:工藤悦仙
すごい存在感。いい感じに渋くて、お芝居を締めていました。
黒川/ミノダ役:ひろ新子
この人も存在感がありました。ジェットコースターのようにドタバタしたお芝居の中で、この人が出てくるとふっと空気が変わっていましたね。
本当に見に行ってよかった!と思えた素晴らしいお芝居でした。
意欲作に挑み、見事な作品を作り上げた演出家:高取英と、月蝕歌劇団に深く敬意を表したいと思います。
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コメント
う~ん、やられました(>_<)
homerさん、さっそくコメントありがとうございます!
あやうく感想書くの忘れるところでした…。
homerさんの記事も大いに参考にさせていただきました。
素晴らしい舞台でしたね。
ヤプーの世界を視覚的に表現するのは非常に難しく、ましてあの規模の舞台では到底不可能…というところから、観客の創造力を利用するために、ああいういろいろ盛り込んだ内容になったのかもしれません。
とにかく有無を言わせないパワーがあったと思います。
本当に行ってよかったなあと思いますね。
あやうく感想書くの忘れるところでした…。
homerさんの記事も大いに参考にさせていただきました。
素晴らしい舞台でしたね。
ヤプーの世界を視覚的に表現するのは非常に難しく、ましてあの規模の舞台では到底不可能…というところから、観客の創造力を利用するために、ああいういろいろ盛り込んだ内容になったのかもしれません。
とにかく有無を言わせないパワーがあったと思います。
本当に行ってよかったなあと思いますね。
沼正三の素晴らしさ
初めてお便りします。らいぞうと申します。
舞台の話でなくて恐縮なのですが、沼正三=倉田卓次はほぼ間違いないと推測されます。馬仙人さんのHPで詳細な分析がなされていますが、そこで触れていない箇所を少し書かせていただきます。倉田氏の著作『裁判官の書斎シリーズ』で触れられているSF小説「幼年期の終り」に関する三島由紀夫の「小説とはなにか?」での引用に触れているが(「ある夢想の手帖から」では三島の誤読を指摘しているがここでは簡単な触り程度)、逆に中国古典大衆文学の傑作「聊斎志異」に関しては、「ある夢想の手帖から」ではM的な部分で僅かに触れているのみが、「裁判官・・・」では柴田天馬のルビ使用の独特な翻訳の素晴らしさに踏み込んだ詳細分析をされている。まだまだ他にもダブった書籍を扱っているが全く違った視点から、沼・倉田氏は切り込んでいる。文面の違いから作者の違いを読み取られないように倉田氏はあえて「ある夢想家・・・」ではM小説の紹介といった形式からかやや上から目線で(Mだと下から目線が相応しいのだが(笑))文章を書かれている。
正直、沼正三=倉田卓次の推測を全く知らずに沼=天野哲夫氏と思っていた時期もある私だが、読者を文章世界に引き擦り込む文体は正直天野氏にはない。出版社の校正をやっていた手前文章作成には手馴れておられるとも思うのだが、文章自体が粘っこく非常に読みづらい。天野氏の「禁じられた女性崇拝」を読むと明らかに状況を幅広く観察することが出来ずに個人の欲望が先行してしまって歪んだ変態度が非常に高いことも判る。また、先日読んだ古い雑誌「スペシャリティM」(読んで廃棄してしまったので年数・号数は不明)では、「ある夢想家・・・」に書かれているエピソードを天野哲夫として恥ずかしげもなく全て引用して書かれていた。馬仙人さんも語っているが、沼氏は文章に対して非常に過敏なので再掲載に関しては憤りの色を現している部分が多々ある。その沼氏が再掲載まがいの文章を書くはずがない。
話はやや逸れるが、私が思うに「家畜人ヤプー」の成立ちに関わった倉田氏と天野氏+数名は、岡嶋二人の井上・徳山両氏に近い関係なような気がする。突飛な発想かとも思うが、岡嶋二人の小説は徳山氏が犯罪のアイデアを出してそれを井上が文章の中にうまく織り込む作業をしていたことは有名だが、そのアイデア(僅かなM的な発想だが)を天野を含めた数人が出し倉田氏のSF小説の造詣の深さと海外文献のM的な資料を基に書かれたような気がする。(ただ90%近くは沼だろう)ただ、始末に悪いのは、岡嶋二人の徳山氏が小説が書けなかったのと違って天野氏は出版社の校正に携わっていただけに小説らしきものは書けてしまうのだ。ここに評判の悪い続編ヤプーが生まれる土壌が出来る。長々となってしまったが、今は亡くなってしまった天野氏の悪口を延々と語ってもしょうがないとは思うが、このような人に黙って続編の家畜人ヤプーや過去のエッセイの引用(それも自身を沼正三と言って引用)を許すのだから倉田氏は相当天野氏を信頼していたのだとは思う。森下高茂氏のように雑誌の暴露記事を書いたりせずに逆に自分を庇ってくれることに多大な恩義と感じていたのだろう。いずれにせよ、沼正三へ心酔している人には天野氏の小説・エッセイはお勧め出来ないと言っておきたい。沼氏の底に溢れ出す博覧強記の文章は名文と言っても言い過ぎではない。
舞台の話でなくて恐縮なのですが、沼正三=倉田卓次はほぼ間違いないと推測されます。馬仙人さんのHPで詳細な分析がなされていますが、そこで触れていない箇所を少し書かせていただきます。倉田氏の著作『裁判官の書斎シリーズ』で触れられているSF小説「幼年期の終り」に関する三島由紀夫の「小説とはなにか?」での引用に触れているが(「ある夢想の手帖から」では三島の誤読を指摘しているがここでは簡単な触り程度)、逆に中国古典大衆文学の傑作「聊斎志異」に関しては、「ある夢想の手帖から」ではM的な部分で僅かに触れているのみが、「裁判官・・・」では柴田天馬のルビ使用の独特な翻訳の素晴らしさに踏み込んだ詳細分析をされている。まだまだ他にもダブった書籍を扱っているが全く違った視点から、沼・倉田氏は切り込んでいる。文面の違いから作者の違いを読み取られないように倉田氏はあえて「ある夢想家・・・」ではM小説の紹介といった形式からかやや上から目線で(Mだと下から目線が相応しいのだが(笑))文章を書かれている。
正直、沼正三=倉田卓次の推測を全く知らずに沼=天野哲夫氏と思っていた時期もある私だが、読者を文章世界に引き擦り込む文体は正直天野氏にはない。出版社の校正をやっていた手前文章作成には手馴れておられるとも思うのだが、文章自体が粘っこく非常に読みづらい。天野氏の「禁じられた女性崇拝」を読むと明らかに状況を幅広く観察することが出来ずに個人の欲望が先行してしまって歪んだ変態度が非常に高いことも判る。また、先日読んだ古い雑誌「スペシャリティM」(読んで廃棄してしまったので年数・号数は不明)では、「ある夢想家・・・」に書かれているエピソードを天野哲夫として恥ずかしげもなく全て引用して書かれていた。馬仙人さんも語っているが、沼氏は文章に対して非常に過敏なので再掲載に関しては憤りの色を現している部分が多々ある。その沼氏が再掲載まがいの文章を書くはずがない。
話はやや逸れるが、私が思うに「家畜人ヤプー」の成立ちに関わった倉田氏と天野氏+数名は、岡嶋二人の井上・徳山両氏に近い関係なような気がする。突飛な発想かとも思うが、岡嶋二人の小説は徳山氏が犯罪のアイデアを出してそれを井上が文章の中にうまく織り込む作業をしていたことは有名だが、そのアイデア(僅かなM的な発想だが)を天野を含めた数人が出し倉田氏のSF小説の造詣の深さと海外文献のM的な資料を基に書かれたような気がする。(ただ90%近くは沼だろう)ただ、始末に悪いのは、岡嶋二人の徳山氏が小説が書けなかったのと違って天野氏は出版社の校正に携わっていただけに小説らしきものは書けてしまうのだ。ここに評判の悪い続編ヤプーが生まれる土壌が出来る。長々となってしまったが、今は亡くなってしまった天野氏の悪口を延々と語ってもしょうがないとは思うが、このような人に黙って続編の家畜人ヤプーや過去のエッセイの引用(それも自身を沼正三と言って引用)を許すのだから倉田氏は相当天野氏を信頼していたのだとは思う。森下高茂氏のように雑誌の暴露記事を書いたりせずに逆に自分を庇ってくれることに多大な恩義と感じていたのだろう。いずれにせよ、沼正三へ心酔している人には天野氏の小説・エッセイはお勧め出来ないと言っておきたい。沼氏の底に溢れ出す博覧強記の文章は名文と言っても言い過ぎではない。
らいぞうさん、コメントありがとうございます。
やっぱりそう思われますか。
今のところ、当ブログでは本文に書いた「沼正三が倉田卓次である可能性は大いにあるが、定かではない。」という見解にとどめておきたいと思います。
倉田氏の著作も、まだまだ研究しなくてはいけませんね。
一番大事なのは、マゾヒズム文学の「文豪」沼正三と、「功労者」天野哲夫、それぞれの功績を正しく評価し、敬意を払うことだと思います。
そのためには、何が沼の著作で何が天野の著作なのか、混同されてしまっている部分について、しっかりはっきりさせることが必要だと思っています。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
いっしょにがんばりましょう。
やっぱりそう思われますか。
今のところ、当ブログでは本文に書いた「沼正三が倉田卓次である可能性は大いにあるが、定かではない。」という見解にとどめておきたいと思います。
倉田氏の著作も、まだまだ研究しなくてはいけませんね。
一番大事なのは、マゾヒズム文学の「文豪」沼正三と、「功労者」天野哲夫、それぞれの功績を正しく評価し、敬意を払うことだと思います。
そのためには、何が沼の著作で何が天野の著作なのか、混同されてしまっている部分について、しっかりはっきりさせることが必要だと思っています。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
いっしょにがんばりましょう。
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観てすぐにアドリブで書いた僕の底の浅い文章のに恥ずかしくなります。大筋で同じような感想を持っていらっしゃると思いますが、文学的な考察は読み応えがありました。
谷崎潤一郎の『少年』のシーンは僕も胸がトキメキましたよ!
だけど、「家畜人ヤプー」であれをやる必要があったのかどうかが、僕には気になってしまった部分です。まぁ、どうでもいいか、そんなコト。
それにしても、女優の好みが一緒だなぁ^^;;;;
沼正三の正体はともかくとして、こういう舞台を、もっとたくさんの人に観てもらいたいものですね。